投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月 3日(土)23時04分18秒
先に紹介したように「袖余波」は諸本が「或人作 明空成取捨調曲」、早大本は「越州左親衛作 明空成取捨調曲」としているのですが、この「明空成取捨調曲」は新間進一氏の注に「曲だけの調整の意か、詞句を選択訂正の上での意か両義に解される」(岩波大系、p41)とあるように、若干不明確な表現です。
この点、「撰要目録」の他の作者表記を見ると、「宴曲抄中」の「文武」「懐旧」などは「自或所被出不知作者 明空成取捨調曲」とあり、「拾菓抄」の「管弦曲」は「自或所被出之 月江成取捨調曲」、同じく「拾菓抄」の「文字誉」は「宮円上人禅林寺長老 月江成取捨高階基清調曲」とあります。
「自或所被出不知作者」は詞だけでしょうから、詞を明空が「取捨」して作曲したと考えるのが自然であり、そうだとすると「袖余波」も「越州左親衛」の詞を明空が「取捨」して作曲した、つまり「越州左親衛」は作曲には関与していないと考えるべきでしょうね。
「越州左親衛」が金沢貞顕だとすれば、明空にとっては巨額の資金援助をしてくれるスポンサーのお坊ちゃまですが、まだ若年だったので詞の出来が悪くて手を入れたか、あるいは歌いやすいように整理した、といった事情ではなかろうかと思います。
創始期の作者のうち作詞作曲が出来たのは明空と「白拍子三条」だけであって、やはり「白拍子三条」は特別な存在ですね。
>筆綾丸さん
>「苅萱のやいざ乱れなん しどろもどろに藤壺の・・・」
>なお、文中の「や」が助音ですね。
おっしゃる通りですね。
岩波大系を丸写ししているだけなのですが、念のため、後で外村久江・外村南都子校注『早歌全詞集』(三弥井書店、1993)を確認してみます。
後深草院二条と金沢貞顕は二十歳違いですが、二条が初めて鎌倉を訪問した正応二年(1289)に二条は数えで三十二歳、貞顕は十二歳、貞顕が左衛門尉・東二条院蔵人に任ぜられた永仁二年(1294)にはそれぞれ三十七歳、十七歳ですから、『とはずがたり』で二条が平頼綱息の飯沼資宗との交情を匂わせていること、「越州左親衛」作の「袖余波」は十代の貞顕が作ったにしてはなかなかマセた内容であることを考えると、まんざら冗談でもなく男女の関係を考えたくはなりますね。
ちなみに貞顕は『とはずがたり』と『増鏡』の両方に登場します。
『とはずがたり』では、嘉元二年(1304)七月の後深草院崩御の場面で、
-------
十六日の昼つ方にや、はや御こときれ給ひぬといふ。思ひまうけたりつる心地ながら、いまはと聞き果て参らせぬる心地は、かこつ方なく、悲しさもあはれさも、思ひやる方なくて、御所へ参りたれば、かたへには、御修法の壇こぼちて出づる方もあり。あなたこなたに人は行きちがへども、しめじめとことさら音もなく、南殿の灯籠も消たれにけり。春宮の行啓は、いまだ明きほどにや、二条殿へなりぬれば、次第に人の気配もなくなりゆくに、初夜過ぐるほどに六波羅御弔ひに参りたり。
北は富小路表に、人の家の軒に松明ともさせて並みゐたり。南は京極表の篝の前に、床子に尻掛けて、手のもの二行に並みゐたるさまなど、なほゆゆしく侍りき。【後略】
-------
とあって(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p384)、南方が貞顕ですね。
また、『増鏡』「巻十一 さしぐし」では、東二条院の死去について「七十(ななそぢ)にあまらせ給へば、ことわりの御事なり」と冷ややかに記した後、
-------
法皇もその御嘆きの後、をさをさ物聞しめさずなどありしをはじめにて、うち続き心よからず、御わらはやみなど聞ゆる程に、七月十六日二条富小路殿にてかくれさせ給ひぬ。六十二にぞならせ給ひける。いとあはれに悲しき事ども、いへば更なり。御孫の春宮もひとつにおはしましつれば、急ぎて外へ行啓なりぬ。御修法の壇どもこぼこぼとこぼちて、くづれ出づる法師ばらのけしきまで、今を限りととぢめ果つる世の有様、いと悲し。宵過ぐる程に六波羅の貞顕・のり時二人、御とぶらひに参れり。京極表の門の前に、床子に尻かけてさぶらふ。従ふ者ども、左右に並みゐたるさま、いとよそほしげなり。
-------
とあって(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p415)、井上氏も言われるように「この件(くだり)は『とはずがたり』を参照しているところが多い」(p420)のですが、こちらでは南北がひとまとめになっているものの、貞顕の名前が明示されている点が興味深いですね。
ちなみに「のり時」は「時範」の誤りで、『増鏡』の作者が貞顕に比べて六波羅北方・北条時範にはあまり関心がなさそうなことを伺わせます。
北条時範(1264-1307)
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
表と裏 2018/03/03(土) 12:25:12
小太郎さん
---------------
すなわち、後深草院二条は金沢北条氏と密接な交流があり、早歌の興隆に多大な刺激を与えたであろうことは確実だと私は考えます。
そして、更に後深草院二条は若き日の金沢貞顕(1278-1333)とも面識があり、貞顕作詞の「袖余波」は二条の指導の成果、二条の袖の余波ではなかろうか、と想像します。
--------------
貞顕は二条を「このおばさん、頭がいいな」と思い、二条は貞顕を「この子、見所があるわね」と思う、そんな場面を想像すると、楽しくなりますね。
ご引用の「源氏恋」や「源氏」を読むと、当時の知識人が『源氏物語』をどう読んでいたのかがわかって、面白いですね。
たとえば、「苅萱のやいざ乱れなん しどろもどろに藤壺の・・・」は、表の意味は藤壺に恋する光源氏の心の乱れのことですが、裏の意味は閨における藤壺の体の乱れとも読め、なかなか際どくていいですね。なお、文中の「や」が助音ですね。
追記の閑話
http://www.bs4.jp/burabi/onair/261/index.html
平泉隆房氏は聖域の泉の畔に立って、古語ヒラは坂や崖のことで、平泉とは崖から湧出した泉を意味する、と解説していました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B3%89%E6%AF%94%E8%89%AF%E5%9D%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E8%89%AF%E5%B1%B1%E5%9C%B0
とすると、黄泉比良坂の「比良」や滋賀県の「比良山地」と同じ語源ということになりますね。
蛇足ながら、宝物館所蔵の三ヶ条禁制(天正十一年四月 日 筑前守<花押>)を説明するくだりで、「きんせい」と言ってましたが、これは「きんぜい」と濁音で発音すべきだろう、と思いました。
小太郎さん
---------------
すなわち、後深草院二条は金沢北条氏と密接な交流があり、早歌の興隆に多大な刺激を与えたであろうことは確実だと私は考えます。
そして、更に後深草院二条は若き日の金沢貞顕(1278-1333)とも面識があり、貞顕作詞の「袖余波」は二条の指導の成果、二条の袖の余波ではなかろうか、と想像します。
--------------
貞顕は二条を「このおばさん、頭がいいな」と思い、二条は貞顕を「この子、見所があるわね」と思う、そんな場面を想像すると、楽しくなりますね。
ご引用の「源氏恋」や「源氏」を読むと、当時の知識人が『源氏物語』をどう読んでいたのかがわかって、面白いですね。
たとえば、「苅萱のやいざ乱れなん しどろもどろに藤壺の・・・」は、表の意味は藤壺に恋する光源氏の心の乱れのことですが、裏の意味は閨における藤壺の体の乱れとも読め、なかなか際どくていいですね。なお、文中の「や」が助音ですね。
追記の閑話
http://www.bs4.jp/burabi/onair/261/index.html
平泉隆房氏は聖域の泉の畔に立って、古語ヒラは坂や崖のことで、平泉とは崖から湧出した泉を意味する、と解説していました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B3%89%E6%AF%94%E8%89%AF%E5%9D%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E8%89%AF%E5%B1%B1%E5%9C%B0
とすると、黄泉比良坂の「比良」や滋賀県の「比良山地」と同じ語源ということになりますね。
蛇足ながら、宝物館所蔵の三ヶ条禁制(天正十一年四月 日 筑前守<花押>)を説明するくだりで、「きんせい」と言ってましたが、これは「きんぜい」と濁音で発音すべきだろう、と思いました。