投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月12日(月)22時56分37秒
『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)で尊氏の家族関係を詳しく解明された清水克行氏は、和歌に関しては「こうした不安定な立場にあったときの尊氏の心の慰めになっていたもののひとつが、和歌の世界であった」(p25)程度の淡白な認識ですね。
他方、尊氏が二十二歳で勅撰歌人になったことの政治的意味を極端に強調されるのが森茂暁氏です。
森氏は尊氏の勅撰集初入集歌について、次のように書かれています。(『足利尊氏』、角川選書、2017、p46以下)
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勅(広義に綸旨・院宣を含む)によって撰進された二一種の勅撰和歌集のうちの第一六番目にあたる『続後拾遺和歌集』は、後醍醐天皇の下命により歌道家の二条為定が最終的に撰進したもので、正中二年(一三二五)一二月一八日四季部奏覧、嘉暦元年(一三二六)六月九日完成した。この和歌集の巻一六雑歌中には以下のような足利尊氏(高氏)の歌一首が収められている。彼の初めての入集である。
源 高氏
かきすつる藻屑なりともこの度はかへらでとまれ和歌の浦波
(角川書店『新編国歌大観一』五四七頁、一〇八四号)
この歌は一見なんの変哲もない一首とよみとばされてしまいそうではあるが、この和歌集の成立した正中二年という時期の公家と武家をめぐる政治史のうえに置いてみると、興味深いことがらを引き出すことができる。
まず歌の意味内容である。この歌について井上宗雄は、以下のように解説している。
【中略】
先にこの尊氏の和歌を当時の政治史のうえに置くと興味深いと述べたのは、この歌が当時の両統(持明院統・大覚寺統)迭立期のまっただ中にあって、政治的に後醍醐天皇の大覚寺統に近い二条家に対して尊氏から送られた(しかも一度といわず二度までも)という事実に着目すると、和歌文芸を通して尊氏はすでに後醍醐天皇の目にとまっていたのではないかと推測することが可能となる。当時の後醍醐天皇の周辺に目を転じると、前年の正中元年(一三二四)には初度の討幕クーデターの失敗、いわゆる正中の変を引き起こしていたし、この時期に後醍醐があらゆる手段をつかって討幕のための兵力を集めようとしたと考えて、一向に不自然ではない。
個々の詠草がどのようにして勅撰和歌集に選定されるか、その方法は具体的には明瞭ではないが、『平家物語巻七』「忠度都落の事」にみる、平忠度詠草の『千載和歌集』(文治四年<一一八八>完成)への入集のされ方からみても、撰者側の思惑や配慮によって採用されるケースがあったはずで、右にみた尊氏の和歌は後醍醐の意志によって選びとられた可能性は十分にある。むろん後醍醐に接近したいという意図は、まだ本格的な討幕の意志は形成されていなかったせよ【ママ】、尊氏にもあったであろうことは容易に推測される。従って、尊氏と後醍醐双方の利害がおよそ一致したところに、尊氏詠草が後醍醐撰の『続後拾遺和歌集』に入集する必然性が生まれたのではないか。
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いろいろ問題のある文章ですが、「後醍醐撰」は形式的にはもちろん、実質的な後醍醐の関与の程度を考えても全くの誤りですね。
『増鏡』にも記されているように『続後拾遺和歌集』の撰者をめぐっては若干の混乱がありましたが、それはあくまで二条家内部のもので、撰集は為世以下の二条家関係者がしっかりやっており、後醍醐は特に関与していません。
続後拾遺和歌集
また、正中の変が「初度の討幕クーデター」だとしたら、「この時期に後醍醐があらゆる手段をつかって討幕のための兵力を集めようとしたと考えて、一向に不自然ではない」どころか、逆にほとぼりを冷ますために暫く大人しくしているはずではないですかね。
そして、そもそも勅撰歌人にしてもらったからといって、軍事的に協力するかどうかは全く別の問題のはずです。
勅撰集には政治的意味はありますが、それは軍事と直接結びつくような性質のものではなく、森氏の発想は極端というか、ちょっと莫迦っぽい感じがします。
先に述べたように、私は尊氏の勅撰集入集への執着は高義遺児との家督争いという背景があったのではないかと考えていますが、尊氏がこの家督争いに勝利して家格に差のある赤橋登子と結婚できたのも、鎌倉後期に足利家の家勢が衰えていたことを考えるとちょっと不思議です。
北条一門の序列の中では金沢家以上の名門・赤橋家の御令嬢である登子には足利家を超える権勢家の花婿候補が大勢いたでしょうが、その中で尊氏が勝ち残ったのは、あるいは勅撰歌人のアピールポイントが相当高かったからかもしれません。
軍事と結びつけるのは無理ですが、勅撰歌人であることにはその程度の政治的意味は十分あったと思います。
>筆綾丸さん
資朝を佐渡送りする理由としては、訊問に対する態度が反抗的だから、程度でも十分なんでしょうね。
だいたい、六波羅が一生懸命動き回ったのに関係者全員が清廉潔白、大山鳴動して鼠一匹すら出てこないのではみっともない話で、六波羅の権威を保つためだけにでも資朝流罪が必要だったのかもしれません。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
駟不及舌 2018/03/12(月) 11:13:47
小太郎さん
『徒然草』からは、歯に衣着せぬ(call a spade a spade=鋤を鋤と呼ぶ)、曲ったことが嫌いな直情径行の、エキセントリックな一言居士の、駟不及舌(Out of the mouth comes evil.=口は災いの元)を一身に体現したような、要するに、有能なスパイにはなれそうもない資朝像が浮かび上がってきますが、小太郎さんの言われる「後醍醐側近の中の最強硬派ないし跳ね上がり」「実情視察を超える過激な言動」という資朝像と、とてもよく合いますね。
『徒然草』からは、歯に衣着せぬ(call a spade a spade=鋤を鋤と呼ぶ)、曲ったことが嫌いな直情径行の、エキセントリックな一言居士の、駟不及舌(Out of the mouth comes evil.=口は災いの元)を一身に体現したような、要するに、有能なスパイにはなれそうもない資朝像が浮かび上がってきますが、小太郎さんの言われる「後醍醐側近の中の最強硬派ないし跳ね上がり」「実情視察を超える過激な言動」という資朝像と、とてもよく合いますね。