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『とはずがたり』に描かれた後深草院の血写経とその後日談(その4)

2018-03-21 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月21日(水)22時44分16秒

続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p193以下)

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 「ぬるけなどおびたたしきには、みなさることと、医師も申すぞ。かまへていたはれ」とて、薬どもあまた賜はせなどするも、いと恐ろし。殊なるわづらひもなくて、日かず過ぎぬれば、ここなりつる人も帰りなどしたれども、「百日過ぎて御所さまへは参るべし」とてあれば、つくづくと籠りゐたれば、夜な夜なは、隔てなくといふばかり通ひ給ふも、いつとなく世の聞えやとのみ我も人も思ひたるも、心のひまなし。
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【私訳】「発熱がひどいときには、だれでもそういうことがあると医者も申しているよ。気をつけて養生しなさい」とて、院からお薬をたくさん賜ったりするにつけても、(院に嘘をついていることは)本当に恐ろしい気がする。格別、産後のわずらいもなく日数が過ぎたので、ここにおられた人(雪の曙)もお帰りになったが、「御所の方へは百日を過ぎたら参上しなさい」とのことだったので、それまではただ、なすこともなく籠もっていると、夜々は一晩の隔てのないくらいにあの人が通って来られるにつけても、いつとなく世間にうわさが広まっていはいないかということばかり私も彼も思って、心の休まるいとまがない。

ということで、これで一応、後深草院の血写経から始まった「雪の曙」との間の子の妊娠・出産騒動は終りです。
ま、二か月のずれは流産とすることで解決するしかないですね。
さて、発端部分は現代語訳を省略していましたが、

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 年かへりぬれば、いつしか六条殿の御所にて、経衆十二人にて如法経書かせらる。去年の夢、なごりし思し召し出でられて、人のわずらひなくてとて、塗籠の物どもにて行はせらる。正月〔むつき〕より、御指の血を出だして、御手の裏をひるがへして法華経をあそばすとて、今年は正月より二月十七日までは、御精進なりとて、御傾城などいふ御沙汰たえてなし。
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【私訳】年が改まって(文永十一年になると)、後深草院はさっそく六条殿の御所にて、写経の者十二人に命じて如法経を書かせられた。これは院が昨年の夢想を思い出され、人々を煩わさせないようにと、御所の塗籠にある物を費用に当てて行なわせた。正月より御指の血を出して、故院の御手蹟の裏に法華経を書かれるということで、今年は正月より(故院の命日である)二月十七日までは御精進とのことで、女を召されるなどということも一切ない。

ということで、「今年は正月より二月十七日までは、御精進なりとて、御傾城などいふ御沙汰たえてなし」は歴史的重要性が全くないので『増鏡』には反映されませんでしたが、『とはずがたり』のストーリー展開においては、この部分がないと九月に生まれた子は二条が生んだ後深草院の二人目の子ということであっさり終ってしまいます。
二か月のずれを誤魔化すための諸工作も一切不要、ハラハラドキドキは全くなくて、面白くもなんともありません。
私は文永十一年(1274)正月の時点では、その三ヵ月前に起きた火事のために「六条殿の御所」は物理的に存在していないこと、また、元寇(文永の役)の直前の時期に「雪の曙」こと西園寺実兼が、関東申次の重職にあるにもかかわらず、春日大社に籠もると称して一切の職務を放擲し、愛人の出産にかかりきりになっていたなどいう事態は考えにくいことから、この話は全体として虚構であると考えます。
後深草院の血写経も、この話をリアルに見せるための「小道具」のひとつ、というのが私の考え方です。
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『とはずがたり』に描かれた後深草院の血写経とその後日談(その3)

2018-03-21 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月21日(水)20時19分21秒

続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p192以下)

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 かかるほどに、二十日あまりの曙より、そのここち出できたり。人にかくともいはねば、ただ心知りたる人、一二人ばかりにて、とかく心ばかりはいひ騒ぐも、亡きあとまでもいかなる名にかとどまらんと思ふより、なほざりならぬ志をみるにもいとかなし。いたくとりたることなくて、日も暮れぬ。
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【私訳】こうしているうちに、(九月)二十日過ぎの明け方から、出産が近いように感じられてきた。人には出産だと言っていないので、ただ事情を知った人一人二人だけで、いろいろと気持ちばかりはあせるが、このお産で死んだら後々までどんな浮き名を残すのだろうかと思われ、彼の並々ならぬ心遣いを見るにも、しみじみと悲しい。取り立てて言うほどのこともなくて日も暮れた。

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 火ともすほどよりは、殊のほかに近づきて覚ゆれども、ことさら弦打などもせず、ただ衣の下ばかりにて、ひとり悲しみゐたるに、深き鐘の聞ゆるほどにや、あまり堪えがたくや、起きあがるに、「いでや、腰とかやを抱くなるに、さやうのことがなきゆゑに、とどこほるか。いかに抱くべきことぞ」とて、かき起さるる袖にとりつきて、ことなく生れ給ひぬ。まづあなうれしとて、「重湯とく」などいはるるこそ、いつならひけることぞと、心知るどちはあはれがり侍りしか。
 さても何ぞと火ともして見給へば、産髪黒々として、今より見あけ給ひたるを、ただ一目みれば、恩愛のよしみなれば、あはれならずしもなきを、そばなる白き小袖におし包みて、枕なる刀の小刀にて、臍の緒うち切りつつ、かきいだきて、人にもいはず外へ出で給ひぬとみしよりほか、またふたたびその面影みざりしこそ。
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【私訳】灯をともす頃から、いよいよ出産が近づいたと思われるが、ことさら魔よけの鳴弦などもせず、ただ衣の下で一人悲しんでいたが、夜更けの鐘の音の聞こえる頃であろうか、あまりに苦しくて起き上がろうとすると、彼が「さて、腰を抱くとかするものだそうだが、そういうことをしないから滞るのだろうか。どのように抱いたら良いのか」と言って私をかき起こされる、その袖にすがりついて無事にお生まれになった。まずは、ああよかった、とほっとして、「重湯を早く差し上げなさい」などと彼が指図されるのを、どこで覚えられたことかと、事情を知っている者たちは感じあっていた。
 「ところで赤児は」と彼が灯りをともして御覧になると、産髪が黒々として、今から目を開けておられるのをただ一目見れば、恩愛のよしみであるから、可愛くないはずはないが、彼は側にあった白い小袖に赤児をおし包んで、枕元に置いた守り刀の小刀で臍の緒を切って抱き上げると、人にもいわず外にお出になってしまった、と見たばかりで、再びその面影を見ることはなかった。
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ということで、数多くの古典文学の中でも出産の様相をここまで詳しく、というか露骨に描写した作品は非常に稀で、ここは『とはずがたり』の中でも屈指の名場面とされています。
また、雪の曙が生まれたばかりの赤ちゃんをどこかに連れ去ってしまい、その後二度と会うことはなかった、とここには書いてあるのですが、実際には巻二の「女楽事件」の後、再会の場面があります。

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「さらば、などやいま一目も」と言はまほしけれども、なかなかなればものは言はねど、袖の涙はしるかりけるにや、「よしや、よも。長らへてあらば、見ることのみこそあらめ」など慰めらるれど、一目見合はせられつる面影忘られがたく、女にてさへものし給ひつるを、いかなる方へとだに知らずなりぬると、思ふもかなしけれども、いかにしてといふわざもなければ、人知れぬ音をのみ袖に包みて、夜も明けぬれば、「あまりに心地わびしくて、この暁はやおろし給ひぬ。女にてなどは見えわくほどに侍りつるを」など奏しける。
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【私訳】「そういうことならば、どうしていま一目でも」と言いたいけれども、言ったところでかいのないことなので言いはしないが、袖の涙が私の気持ちを現わしていたからか、「まあ、よもやこれきりということでもない。長く生きていれば、きっとお会いになることもあるでしょう」などと慰められるけれども、一目眼を見合せた面影が忘れ難く、女の児であられたものを、どちらの方へ持って行かれたということさえわからなくなってしまったと思うのも悲しいけれども、何かできる訳でもないので、人知れず袖で顔を覆いつつ泣くばかりで夜も明けると、御所へは「大変体の具合が悪くて、この暁、流産でございました。女児と見分けがつくほどでありました」と奏上した。

巻二で再会した場面では、「雪の曙」の北の方がちょうどその頃出産したけれども、幼くして亡くなってしまったので、その代わりに二条の生んだ子を育てており、人はみな、北の方の子だと思っている、という話になっています。(p309以下)
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『とはずがたり』に描かれた後深草院の血写経とその後日談(その2)

2018-03-21 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月21日(水)16時18分47秒

続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p186以下)

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 三日は、ことさら例の隠れゐられたりしかば、十日には参り侍るべきにてありしを、その夜より、にはかにわづらうことありしほどに、参ることもかなはざりしかば、十二日の夕がた、善勝寺、さきの例にとて御帯を持ちて来りたるをみるにも、故大納言の、いかにかなど思ひ騒がれし夜のこと思ひ出でられて、袖には露のひまなさは、必ず秋のならひならねどと覚えても、一月などにてもなき違ひも、いかにとはかりなすべき心地せず。さればとて、水の底まで思ひ入るべきにしもあらねば、つれなく過ぐるにつけても、いかにせんといひ思ふよりほかのことなきに、九月〔ながつき〕にもなりぬ。
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【私訳】三日間は例のように特に引きこもっていて、十日には御所に参る予定だったが、その夜から俄かに病気になって参ることができなかったので、十二日の夕方、善勝寺大納言が、先の例に従って、といって院からの御帯を持って来たのを見るにつけても、この前の着帯のとき、父の故大納言が「御使いのもてなしはどういうふうにしよう」などとあれこれ心配された夜のことが思い出されて、袖に涙の乾く間もないこの悲しさは、必ず秋に限ったことではないと分ってはいるけれども、一ヵ月くらいではすまない日数の違いを、何とかつじつまを合わせる思案のしようもない。だからといって、(『源氏物語』の浮舟や『狭衣物語』の飛鳥井姫のように)入水自殺をしようと思い詰めねばならぬ訳でもないので、成り行きのまま日を過ごすにつけても、ただどうしようと言い、また思うよりほかはなく、九月にもなってしまった。

二条は既に前年(文永十年、1273)二月十日に後深草院皇子を産んでいるので、着帯の儀も二度目ですね。
「袖には露のひまなさは、必ず秋のならひならねど」は後鳥羽院の「露は袖に物思ふころはさぞなおく必ず秋のならひならねど」を受けた表現です。
一ヵ月くらいなら誤魔化しも簡単だが、実際にはそれ以上の期間なのでけっこう大変だ、ということで、ここで「今年は正月より二月十七日までは、御精進なりとて、御傾城などいふ御沙汰たえてなし」と具体的な期間を明示したことがストーリー展開の上で生きてきます。
「罪の報い」「誰がとがとかいはん」といった表現もありましたが、ま、入水自殺するほどの罪でもないよね、というのが当時十七歳の二条の心境です。

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 世の中もおそろしければ、二日にや、急ぎ何かと申しことづけて出でぬ。その夜やがて彼にもおはしつつ、いかがすべきといふほどに、「まづ大事に病むよしを申せ。さて人の忌ませ給ふべき病なりと、陰陽師がいふよしを披露せよ」などと添ひゐていはるれば、そのままにいひて、昼はひめもすに臥し暮し、うとき人も近づけず、心しる人二人ばかりにて、湯水も飲まずなどいへども、とりわきとめくる人のなきにつけても、あらましかがといと悲し。
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【私訳】周囲の目も恐ろしいので、(九月)二日だったか、急に何かにかこつけて里へ下がった。その夜、さっそく彼(雪の曙)もおいでになる。「どうしましょう」と相談すると、「まず重病だということを申し上げなさい。そして人に災厄を及ぼすため近づいてはいけない病気だと陰陽師が言っていると世間に披露しない」などとそばに寄り添って言われるので、その通りに言って、昼は終日臥して過し、疎遠な人は近づけず、気心の知れた人二人ほどだけで、「湯水さえ飲みませんで」などと言っているが、格別訪ねてくる人がないにつけても、こんなとき父がいてくれたら、と本当に悲しい。

ということで、「雪の曙」は世間の目を誤魔化すために色々と画策します。

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 御所さまへも、「御いたはしければ、御使な給ひそ」と申したれば、時などとりて御おとづれ、かかる心がまへつひにもりやせんと、行末いと恐ろしながら、今日明日は、みな人さと思ひて、善勝寺ぞ、「さてしもあるべきかは。医師〔くすし〕はいかが申す」など申して、たびたびまうできたれども、「ことさら広ごるべきことと申せば、わざと」などいひて、見参〔げざん〕もせず。しひておぼつかなくなどいふ折は、暗きやうにて、衣の下にていとものも言はねば、まことしく思ひてたち帰るもいとおそろし。さらでの人は、誰とひくる人もなければ、添ひゐたるに、その人はまた、春日に籠りたりと披露して、代官をこめて、「人の文などをば、あらましとて返事をばするな」とささめくもいと心ぐるし。
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【私訳】院へも「御障りがあっては申し訳ありませんので、御使いは下さいますな」と申し上げたが、時を見計らってはお見舞いの使いがあり、いろいろ取り計らっていることもいつかは漏れるのではないかと行く末が心配ではあるが、今日明日のところは、誰もがみな疑いはしない。叔父の善勝寺大納言隆顕は、「そのままにしておいてよいものか。医師は何と言っているのだ」などと申して、度々訪ねてくるけれども、「とくに災厄が広がる病気と申しますから、わざとお目にかかりません」などと言って、私は叔父に会いもしない。強いて「どうしても気にかかるから」などというときには、部屋を暗くして衣を被って、あまり物も言わないので、叔父はそれをまことと信じて帰って行くのを見るのも本当に恐ろしい。そのほかの人は誰といって訪ねてくる者もないので、その人(雪の曙)は私のそばにいつも寄り添っておられたが、彼もまた、春日に参籠しているなどと世間には披露して、春日には代理を籠もらせ、「人からくる手紙などを、推量で返事をしてはならぬ」などと従者にささやくのを聞くのも、まことに心苦しい。

ということで、関東申次の重職にある「雪の曙」こと西園寺実兼が、藤原氏の氏神である奈良の春日大社に籠もっていると称して実際には二条の家に隠れ、春日大社に代理で籠もらせた者には、手紙が来ても返事をするな、と言いつけたのだそうです。
ちなみに、文永十一年(1274)九月というと、翌十月は元寇(文永の役)で、関東申次の西園寺実兼は相当忙しかったのではないかと思いますが、『とはずがたり』の年表を作っている国文学者たちは特に疑問は持たないようです。

元寇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
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『とはずがたり』に描かれた後深草院の血写経とその後日談(その1)

2018-03-21 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月21日(水)10時55分12秒

前投稿で紹介した『とはずがたり』における後深草院の血写経に関する記述の最後に「今年は正月より二月十七日までは、御精進なりとて、御傾城などいふ御沙汰たえてなし」とありますが、後深草院が二か月弱の期間、女性関係を断っていたことは『増鏡』には反映されていません。
ま、歴史的には全然重要な事実ではないので『増鏡』に描かれなかったことは不思議ではありませんが、実はこの部分は『とはずがたり』のストーリーの展開上は極めて重要なポイントです。
というのは、この期間が始まる少し前に後深草院二条は「雪の曙」(西園寺実兼)の子を妊娠してしまい、後深草院の子であるかのように誤魔化すのに二人は大変な苦労をするからです。
けっこう面白い話なので、いささか脱線気味になりますが、既に引用した部分の続きを紹介しておきます。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p185以下)

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 さるほどに、二月の末つかたより、心地例ならず覚えて、物もくはず、しばしはかぜなど思ふほどに、やうやうみし夢の名残にやと思ひ合せらるるも、何とまぎらはすべきやうもなきことなれば、せめての罪の報いも思ひ知られて、心のうちの物思ひやる方なけれども、かくともいかがいひ出でん。神わざにことづけて、里がちにのみゐたれば、常に来つつ、見知ることもありけるにや、「さにこそ」などいふより、いとどねんごろなるさまにいひ通ひつつ、「君に知られ奉らぬわざもがな」といふ。
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【私訳】そのうち(文永十一年、1274)二月の末ごろから、体調がいつもと違うように思われて、食欲もなく、暫くは風邪だろうかなどと思っているうちに、だんだんあの人との夢の名残かと思い当たったが、何とも紛らわしようのないことなので、罪の報いと思い知らされて、心に秘めた物思いは晴らせないけれども、どうしてそれを言い出すことができよう。(御所での)神事にかこつけて里に下がっていると、彼(雪の曙)がいつもやってきて、そのうちにそれと気づいたのであろう、「そうに違いない」などといって、それからはいよいよ懇切に慰めに訪れては、「後深草院に知られ申さないようにする方法があればいいが」という。

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 祈りいしいし心を尽すも、誰がとがとかいはんと、思ひつづけられてあるほどに、二月の末よりは、御所さまへも参り通ひしかば、五月〔さつき〕のころは、四月〔よつき〕ばかりのよしを思し召させたれども、まことには六月〔むつき〕なれば、違ひざまも行末いとあさましきに、六月〔みなづき〕七日、「里へ出でよ」としきりにいはるれば、何ごとぞと思ひて出でたれば、帯をてづから用意して、「ことさらと思ひて、四月〔うづき〕にてあるべかりしを、世の恐ろしさに今日までになりぬるを、御所より十二日は着帯のよし聞くを、殊に思ふやうありて」といはるるぞ、志もなほざりならず覚ゆれども、身のなりゆかん果てぞかなしく覚え侍りし。
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【私訳】(雪の曙が)安産のための祈祷にいろいろ心を尽くすのを見ても、誰の罪といったらよいのだろうと思い続けられているうちに、二月の末からは御所の方へも度々参ったから、五月のころは妊娠四か月ばかりのように院に思わせ申したけれども、本当は既に六か月であるから、その間の月の数の違いも、これから先まことに心配なことであった。六月七日、彼(雪の曙)が「里へ出よ」としきりに言うので、何事だろうと思って里に下がったところ、彼は帯を自ら用意して、「特別正式にと思って、四月に行わなければならなかったけれど、世間が恐ろしくて今まで延期してしまったが、御所から十二日に着帯の儀式をされると聞いたので、これはわたしが格別に考えていることで」と言われるのは、その志も並々ではないものと思われるけれども、わが身の成りゆく果てを考えると悲しく思われた。

ということで、妊娠六か月なのに四か月と後深草院を騙した二条は、つじつま合わせのために更に工夫を重ねることになります。
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