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「巻九 草枕」(その2)─後深草院の血写経

2018-03-20 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月20日(火)21時45分34秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p192以下)

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 本院は、故院の御第三年のこと思し入りて、睦月の末つ方より六条殿の長講堂にて、あはれに尊く行はせ給ふ。御指の血を出して御手づから法花経など書かせ給ふ。僧衆も十余人が程召し置きて懺法など読ませらる。御掟の思はずなりしつらさをも思し知らぬにはあらねど、それもさるべきにこそはあらめ、といよいよ御心を致してねんごろに孝じ申させ給ふさま、いと哀れなり。新院もいかめしう御仏事嵯峨殿にて行はる。
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【私訳】本院(後深草)は故院(後嵯峨)の御三回忌のことを深く心にかけられて、正月の末のころから六条殿の長講堂にてしみじみと尊く御仏事を行なわれた。御指の血を出して、その血で自ら法華経などを写経される。僧たちも十余人ほど召されて法華懺法などを読ませられる。御遺言の思いがけないものであった、そのつらさをお思いにならない訳ではないけれども、それも仕方のないことであろうと、いよいよ御心を尽くして丁寧に追善供養をなさる様子は、本当に感に堪えない。新院(亀山)も御仏事を嵯峨殿にて厳粛に行われる。

「それもさるべきにこそはあらめ」を井上氏は「それもそうあるべき前世からの因縁であろう」と訳され(p194)、岩波大系も「そうなるべき前世からの宿縁であろう」と訳していますが、ちょっと強すぎるのではないかと思います。
さて、この部分は『とはずがたり』に基づいています。
『とはずがたり』巻一に、

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 年かへりぬれば、いつしか六条殿の御所にて、経衆十二人にて如法経書かせらる。去年の夢、なごりし思し召し出でられて、人のわずらひなくてとて、塗籠の物どもにて行はせらる。正月〔むつき〕より、御指の血を出だして、御手の裏をひるがへして法華経をあそばすとて、今年は正月より二月十七日までは、御精進なりとて、御傾城などいふ御沙汰たえてなし。
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とあり(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p185)、「経衆十二人」「正月より二月十七日まで」は『増鏡』より具体的です。
ちなみに二月十七日は後嵯峨院の命日ですね。

「巻八 あすか川」(その13)─後嵯峨法皇崩御(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a7129bc8db49e22d28cb2702ca8eb2d8

また、「御手の裏をひるがへして」(故院の御手蹟の裏に)という部分も『増鏡』には反映されていない情報です。
『とはずがたり』と『増鏡』を総合すると、後深草院は自分の指に針を刺して血を流し、その血で後嵯峨院が書いた手紙などの裏に経文を書いたのだそうで、現代人にとってはいささか不気味な印象を与える話です。
そして、このエピソードについて、井上氏は、

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 この部分は『とはずがたり』では、なんの祈願とも見えないが、『増鏡』は故院の三回忌として解している。血写経は格別の祈願であるから、『増鏡』のように、三回忌の供養とし、底に、わが子孫の皇位への希求を強く秘めていると解してよいのではないか、と思われる。後深草院が、表面のやさしさとともに、実に執念深く、わが皇統の起死回生をねらっていたことをも『増鏡』は記したかったのであろう(松本寧至、角川文庫版『とはずがたり』が、この催しを後嵯峨院の冥福を祈り、あわせて治世の不満の打開を祈念したもの、と解したのは妥当である)。
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と感想を述べておられます。(p196)
確かにこの血写経が事実であれば、後深草院は何と執念深い人間なのだろう、という井上氏の感想はもっともです。
しかし、『続史愚抄』を見ると文永十年十月十二日条に「自六条坊門壬生火起、到八条坊門<東西限河原>。于時烈風之間、所残不一准者、六条殿、六条院、佐女牛若宮八幡宮、長講堂等焼亡」とあり、また文永十二年四月七日条に「於本院仙洞六条殿<今度被新造歟。長講堂云>、為鎮宅始行不動法。阿闍梨前大僧正慈禅」とあります。
つまり、六条殿・長講堂は『増鏡』に後深草院が血写経を行なったと記されている文永十一年(1274)正月の三ヵ月前、文永十年(1273)十月十二日に火事で焼失しており、再建されたのが文永十二年(建治元年、1275)四月なので、文永十一年正月には物理的に存在していません。
井上氏自身も上記引用部分に続けて、

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 ちなみに、六条殿・長講堂は文永十年十月十二日に焼失し(『一代要記』)、十二年四月には再建されており、十一年正月には存していなかったと見られ、『とはずがたり』の記事は記憶違いか虚構で(新潮版頭注)、『増鏡』はそれを襲ったのである。
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と書かれていますが、『増鏡』が「記憶違いか虚構」である『とはずがたり』の記事に依拠していることを認めるのであれば、後深草院が執念深い人間だとの感想を述べるに際しても、それなりの慎重さが必要なのではないかと思います。
ちなみに、建治元年前後の『とはずがたり』の年立てが混乱していることは既に紹介した通りで、私は『とはずがたり』の記事は「記憶違い」ではなく「虚構」だと考えています。

『とはずがたり』に描かれた後院別当の花山院通雅
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe672068d6739278f7b411ecbde2fe35

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「巻九 草枕」(その1)─後宇多天皇践祚

2018-03-20 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月20日(火)10時30分23秒

それでは「巻九 草枕」に入ります。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p189以下)
巻名は後深草院が異母妹の前斎宮・愷子内親王に贈った「夢とだにさだかにもなきかり臥しの草の枕に露ぞこぼるる」に拠りますが、『とはずがたり』が発見されるまでは前斎宮と情を交わしたのは亀山院だと考えられていて、戦前の『増鏡』注釈書はこの歌も亀山院作としていました。

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 文永十一年正月廿六日春宮に位ゆずり申させ給ふ。廿五日夜まづ内侍所・剣璽ひき具して押小路殿へ行幸なりて、又の日ことさらに二条内裏へ渡されけり。九条の摂政<忠家>殿参り給ひて、蔵人召して禁色〔きんじき〕仰せらる。
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【私訳】文永十一年正月二十六日、亀山天皇は春宮に位をお譲りになった。二十五日夜に内侍所・剣璽(三種の神器)を携えて押小路殿へ行幸となり、翌日ここからわざわざ二条内裏へ神器を渡されたのであった。九条摂政殿が参られて、蔵人を召して禁色聴許の宣旨を仰せ下された。

九条忠家(1229-75)は九条道家の没落後、摂関家から殆ど脱落しかけていた九条家を摂関家に引き戻すために努力した人で、それなりに興味深い存在ではあるのですが、『増鏡』の解釈には全然影響を与えないので、解説は省略します。
興味のある方は三田武繁氏の「摂関家九条家の確立」(『鎌倉幕府体制成立史の研究』、吉川弘文館、2007、所収)を読まれるとよいと思います。

九条忠家(1229-75)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%BF%A0%E5%AE%B6

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 上は八つにならせ給へば、いとちひさくうつくしげにて、びづらゆひて御引直衣〔ひきなほし〕・打御衣〔うちおんぞ〕・はり袴奉れる御気色〔けしき〕、おとなおとなしうめでたくおはするを、花山院の内大臣扶持し申さるるを、故皇后の御せうと公守の君などは、あはれに見給ひつつ、故大臣・宮などのおはせましかばと思し出づ。殿上に人々多く参り集まり給ひて、御膳参る。そののち上達部の拝あり。女房は朝餉より末まで、内大臣公親の女をはじめにて、三十余人並みゐたり。いづれとなくとりどりにきよげなり。廿八日よりぞ内侍所の御拝はじめられける。
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【私訳】今上(後宇多)は八歳におなりになるので、とても小さくかわいらしく、御髪をみずらに結われて御引直衣・打御衣・はり袴を着用された御様子は、いかにも大人びて立派でいらっしゃるのを花山院内大臣(師継)がお世話申しているのだが、それを故皇后宮(洞院佶子)の兄上の公守卿などは感慨深く御覧になり、故左大臣(洞院実雄)や皇后宮が生きておられたらどんなにお喜びであったろうと思い出される。殿上の間に人々が多数参集されて、天皇はお食事をされる。その後、公卿の拝舞がある。女房は朝餉の間からずっと端まで、内大臣三条公親女をはじめとして三十余人並んでいる。だれということなく、それぞれに綺麗である。二十八日より今上は内侍所の拝を始められた。

皇后宮・洞院佶子は文永九年(1272)八月に、洞院実雄はその一年後の文永十年(1273)八月に亡くなっています。

「巻八 あすか川」(その15)─小倉公雄
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/66d952eedc3d611fae6247e17e1db6b4

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 かくて新院、二月七日御幸はじめせさせ給ふ。大宮院のおはします中御門京極実俊の中将の家へなる。御直衣、唐庇の御車、上達部・殿上人残りなく、上の衣にて仕うまつる。同じ十日やがて菊の網代庇の御車奉り始む。この度は、御烏帽子・直衣同じ、院へ参り給ふ。同廿日布衣〔ほうい〕の御幸はじめ、北白河殿へいらせ給ふ。八葉の御車、萌黄の御狩衣、山吹の二つ御衣、紅の御単、薄色の織物の御指貫奉り給ふ。
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【私訳】こうして新院(亀山)は二月七日に御幸始をなされる。母君の大宮院のおられる中御門京極の実俊の中将の家を訪問される。御直衣の御装束で、唐庇の御車を召され、公卿・殿上人残りなく束帯でお供した。同じ十日、菊の御紋のついた網代庇の御車に初めてお乗りになる。この度は烏帽子・直衣は前と同じで、院(後深草)の御所に参られる。同じ廿日、布衣(狩衣)での御幸始めで、北白河殿(安嘉門院御所)に赴かれる。八葉の車、萌黄の御狩衣、山吹襲の二つ御衣装、紅の御単、薄紫色の織物の指貫を着用される。

「実俊の中将」は西園寺公相男の橋本実俊(1260-1341)で、大宮院(1225-92)の甥です。

橋本実俊(1260-1341)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E5%AE%9F%E4%BF%8A

「北白河殿」を御所とする安嘉門院(1209-83)は後高倉院皇女で、後高倉の子孫は皇統としては四条天皇(1232-42)で絶えてしまいましたが、安嘉門院は八条院領を継承した荘園群を伝領していて、その相続が後に重要な問題となって行きます。

安嘉門院(1209-83)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A6%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B

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