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本郷和人氏『日本史のツボ』

2018-03-28 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月28日(水)23時08分48秒

>筆綾丸さん
『日本史のツボ』を購入してみました。
本郷氏は『文藝春秋special』という雑誌に、

「天皇を知れば日本史がわかる」(38号)
「宗教を知れば日本史がわかる」(39号)
「土地を知れば日本史がわかる」(40号)
「軍事を知れば日本史がわかる」(41号)

という記事を寄せており、これらをベースに大幅に加筆して一冊にまとめたのが『日本史のツボ』のようですね。
とりいそぎ「第一回 天皇を知れば日本史がわかる」を通読してみましたが、私は天皇制がなぜ存続したのかについては水林彪氏の『天皇制史論―本質・起源・展開』にけっこう納得しているので、本郷氏の議論にはあまり賛成できません。
ま、全部読んでから感想を書きます。

『天皇制史論─本質・起源・展開』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f54a9a6b71d2a71d719efd5573fc5382
「天皇制の超時代的存続の秘密」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3186f4845f0d08ed1683a49f509cfde9
<支配の正当性>史論
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a2a70643647ae5e286dbf566e472a9be

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

信瑞のこと 2018/03/28(水) 15:44:01
https://kotobank.jp/word/%E4%BF%A1%E7%91%9E-1083113
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 ところで、鎌倉後期成立とされる『法然上人絵伝』(四十八巻伝)の巻二十六第四段には、『吾妻鏡』と少々異なる時頼往生の場面が描かれている。祢津宗伸氏によれば、この場面は得宗被官諏訪入道蓮仏が、法然の孫弟子にあたる敬西房信瑞に宛てた書状に基づくという。また祢津氏は、時頼が阿弥陀如来の画像を架けその前で合掌して往生したという点は『吾妻鏡』と異なるものの、袈裟をつけ椅子に座して禅僧風の往生をしたということは『法然上人絵伝』でも前提となっており、内容は近似しているという。そして、時頼の信仰の多様性から考えて、禅宗に帰依しつつも往生の際に阿弥陀の画像を掛けても不思議はないとする(『法然上人絵伝』における諏訪入道蓮仏)。
 事実として時頼の往生の姿がどうであったか、確定することはできない。『法然上人絵伝』の絵も、後世の想像図ではある。ただ、すでに見たように、時頼の信仰にも阿弥陀信仰は含まれており、ありえないことではない。(高橋慎一朗氏『北条時頼』218頁~)
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信瑞ですが、これは、仏教の諸宗派に対し浮気性で無節操な時頼(≒時頼の信仰の多様性)が、『法然上人絵伝』というプロパガンダに上手く取り込まれただけのことではないのか、という気がして、本郷氏のように果たして師と言い切れるのかどうか(師は何人いようが別に構わないのかもしれないが)、ちょっと引っ掛かります。

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・・・時頼の精神的な師匠ともいうべき人物に、大叔父の極楽寺重時(北条重時)がいます。執権に次ぐ連署というポジションで鎌倉幕府を支えた重時は、熱心な浄土宗信者でした。そして重時、時頼の師だったのが、法然の正統的な孫弟子の信瑞。(本郷和人氏『日本史のツボ』58頁)
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「巻九 草枕」(その6)─前斎宮と後深草院(第一日)

2018-03-28 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月28日(水)22時40分18秒

それでは『増鏡』に戻って、『増鏡』が描く前斎宮と後深草院の場面を見てみます。(井上宗雄、『増鏡(中)全訳注』、p207以下)
井上宗雄氏の現代語訳は既に紹介済みですが、私にも若干の意見があるので、私訳を試みます。

『増鏡』に描かれた二条良基の曾祖父・師忠(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f8d88dea48f0f0b22372df0e76cea399

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 まことや、文永のはじめつ方、下り給ひし斎宮は後嵯峨の院の更衣腹の宮ぞかし。院隠れさせ給ひて後、御服にており給へれど、なほ御いとまゆりざりければ、三年まで伊勢におはしまししが、この秋の末つ方、御上りにて、仁和寺に衣笠といふ所に住み給ふ。月花門院の御次には、いとたふたく思ひ聞え給へりし、昔の御心おきてをあはれに思し出でて、大宮院いとねんごろにとぶらひ奉り給ふ。亀山殿におはします。
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【私訳】さて、文永の初めごろ、伊勢に下向された斎宮(愷子内親王)は後嵯峨院の更衣の御腹からお生まれになった方である。院が御隠れなさった後、服喪にて斎宮をお降りになられたが、なお正式の辞任が許されなかったので、その後三年まで伊勢にいらっしゃったが、この秋の末頃に上洛されて、仁和寺の近くの衣笠という所にお住まいになる。大宮院は、故院が月花門院の御次にこの姫宮をとても大切に思われていらっしゃったことをしみじみと思い出されて、たいそう懇切にお世話申しあげなさる。女院は亀山殿にいらっしゃる。

ということで、この部分を『とはずがたり』と比較すると、『とはずがたり』には斎宮が「文永のはじめつ方、下り給ひし」という記述はなく、「更衣腹」も『増鏡』独自の表現です。
当時、更衣は存在せず、これは『源氏物語』的な雰囲気を出すための文飾ですね。
また、細かいことですが、『とはずがたり』は「この秋のころには」とあるのに対し、『増鏡』は「この秋の末つ方」と『増鏡』が若干詳しくなっています。
更に後嵯峨院が前斎宮を「月花門院の御次には、いとたふたく思ひ聞え給へりし」こと、そしてその「昔の御心」を大宮院が「あはれに思し出でて」「いとねんごろにとぶらひ奉り給ふ」というのも『増鏡』独自の追加情報です。
他方、二条の父・中院雅忠と前斎宮の関係、及び二条自身との関係を示す部分、即ち「故大納言さるべきゆかりおはしまししほどに、仕うまつりつつ、御裳濯河の御下りをも、ことに取沙汰し参らせなどせしもなつかしく、人めまれなる御住まひも、何となくあはれなるやうに覚えさせおはしまして、つねに参りて、御つれづれも慰め奉りなどせしほどに」という部分はすっぱりと切り捨てられています。

『とはずがたり』における前斎宮と後深草院(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1676461dba8de5ff30afeac5e7b9326a

なお、月花門院についての『増鏡』の記事は既に紹介済みであり、関連の人物についても若干の検討を行いました。

「巻八 あすか川」(その8)─月花門院薨去
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7fefb8903614166d0eee9c4963c36217
歌人としての月花門院
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/106be0af4fd37b709c42487e4f22ea84
源彦仁と忠房親王(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7360b908d5e5bf597727991c1ceb4cd2
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1768aa3f700fbc2a017bd5f41652d245

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 十月ばかり斎宮をも渡し奉り給はんとて、本院をもいらせ給ふべきよし、御消息あれば、めづらしくて、御幸あり。その夜は女院の御前にて、昔今の御物語りなど、のどやかに聞え給ふ。
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【私訳】十月ごろ、斎宮を(大宮院のいらっしゃる嵯峨殿に)お迎え申し上げるとのことで、本院(後深草)も来られるようにとお便りがあったので、珍しく思われて御幸があった。その夜は、後深草院が大宮院の御前で、昔話や最近の出来事などを長閑にお話し申し上げた。

ということで、後深草院が大宮院を訪問した初日の記事は、『増鏡』では極めて簡略です。
『とはずがたり』では、「御政務のこと、御立ちのひしめきのころは、女院の御方さまも、うちとけ申さるることもなかりしを」といった、後嵯峨院崩御後の大宮院と後深草院との微妙な関係についての説明がありますが、『増鏡』では省略されています。
また、『とはずがたり』では、東二条院が自身の御所への二条の出入りを差し止めたことを後深草院が大宮院に話し、大宮院が二条に好意的な発言をしてくれたところ、二条が「いつまで草の」と冷ややかに思った、といった話も出てきますが、『増鏡』ではきれいさっぱり削除されています。

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