学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

『とはずがたり』巻五の「光源氏」と「撰要目録・序」の「光源氏」

2018-03-07 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 3月 7日(水)08時32分16秒

筆綾丸さんが紹介された「光源氏」が出てくる場面は巻五の冒頭ですが、原文を見ると、

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 さても、安芸国厳島の社は、高倉の先帝も御ゆきし給ひけるあとの白波もゆかしくて、思ひ立ち侍りしに、例の鳥羽より船に乗りつつ、河尻より海のに乗り移れば、波の上のすまひも心細きに、ここは須磨の浦と聞けば、行平の中納言、もしほたれつつわびけるすまひも、いづくのほどにかと、吹き越す風にも問はまほし。
 九月の初めのことなれば、霜枯れの草むらに鳴きつくしたる虫の声、絶え絶え聞えて、岸に船着けてとまりぬるに、千声万声のきぬたの音は、夜寒の里にやとおとづれて、波の枕をそばだてて聞くも悲しきころなり。明石の浦の朝霧に島隠れ行く船どもも、いかなる方へとあはれなり。光源氏の、月毛の駒にかこちけん心のうちまで、残る方なくおしはかられて、とかく漕ぎ行くほどに、備後国鞆といふ所に至りぬ。
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ということで(次田香澄『とはずがたり(下)全訳注』、p340)、「もしほたれつつ……」は「わくらばにとふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつわぶと答へよ」(『古今集』雑下、在原行平)を借りたものですね。
その後も「吹き越す風」は「旅人のたもと涼しくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風」(『古今集』羈旅、行平)を、「千声万声の……」は「八月九月正に長き夜、千声万声了(や)む時無し」(『和漢朗詠集』、擣衣、白居易)を、「波の枕をそばだてて……」は「枕をそばだてて四方の嵐を聞き給ふに、波ただここもとに……浮くばかりになりにけり」(『源氏物語』須磨)を、「明石の浦の……」は「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれゆく舟をしぞ思ふ」(『古今集』羈旅、詠み人知らず)を、「月毛の駒に……」は「秋の夜の月毛の駒よわが恋ふる雲ゐにかけれ時の間もみむ」(『源氏物語』明石)を借りていて、和歌・朗詠・源氏の引用が夥しく続きますが、これは文章をもう少し整えたら、そのまま早歌になりそうです。
「白拍子三条」の現存する早歌は「源氏」「源氏恋」の二曲だけですが、「白拍子三条」が後深草院二条の「隠れ名」だとしたら、実際には二条はもっと沢山の曲を作っていたかもしれないですね。
音楽の才能もある二条なら明空レベルの作品はいくらでも作詞作曲できたはずです。
明空が書いた「撰要目録」の「序」に出てくる、

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藻塩草かき集めたる中にも、女のしわざなればとて漏らさむも、古の紫式部が筆の跡、疎かにするにも似たれば、刈萱の打乱れたる様の、をかしく捨てがたくて、なまじひに光源氏の名を汚し、二首の歌を列ぬ。

という「白拍子三条」に言及した部分は、「なまじひに光源氏の名を汚し」に明空の微妙な屈折を感じるのですが、あるいはこれは明空が自己の存在を脅かしかねない「白拍子三条」こと二条に感じた嫉妬心の現われなのかな、などと想像(妄想?)してしまいます。
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