生き甲斐の心理学

自分は何の為に生きているのか? 生き甲斐とは何か、自分の魂と成育史と身体を大事にしているか、を思索していきます。

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2019年01月17日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
イギリスのホークストンにレデンプトール修道会の研修センターがありますが、古いお城を16世紀にその修道会が購入し、今も美しく広大な庭園を持つ修道院です。ナショナルトラストに加盟しているので公開の義務もあり沢山の人々が歴史散歩に立ち寄る修道院です。戦乱に明け暮れた戦国時代、宗教革命時代を経て現在でも、修道院ですが、そこで世界中からの講座生徒を集め、英語で3ケ月の集中講義を展開しています。講師は世界的に有名な学者が中心で、分野は文化人類学、心理学、宗教学、歴史学、神学です。たまたま立ち寄った時、60カ国から集まっていた中に一人の日本人がいましたが、語学力不足と孤独感から相当参っていたようです。広大な園内に警察用の馬が数頭飼われていましたが、何故かその疲れ果てた日本人が牧場に近寄ると必ず数頭の馬がその人にだけ駆け寄り顔をくっつけてくるので他の参加者はおもしろがって遠くから眺めていました。動物達は本当に疲れ果てた人間を見抜きます。せっかく無言の愛情を伝える動物達を蹴る人もいるようですが、動物も森の木々も、疲れた人間を必ず慰めるので、素直に愛を受け入れるようにしたいものです。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2019年01月16日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
古代の人々は全て経験から知恵を悟ります。私達の手、特に指先にはパチニ小体という触覚を感じさせる神経細胞が身体のどの部分よりも沢山、配置されています。唇もほぼ同数。つまり一番敏感な所なのです。故宮博物館(台湾)の工芸品の中に、米粒に宮殿が彫刻された見事な作品がありますが、その作業は指先と唇を使用して彫刻されたそうです。また死に行く人々は人生最大の孤独感があるそうですが、臨床医学は、その孤独感を軽減させる無言の愛の伝達方法として、手、特に指先を暖かく愛撫すると効果的だと教えています。指先への愛撫は心を温めます。神仏に祈る時も古代からどの文化でも両手を合わせ、特に指先を互いに合わせ意識すると祈りが深まる事を知っていました。恋人同士も手と指先は愛を伝達する最高の方法です。このように手は人類の宝物。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2019年01月15日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
静かで落ち着いて、暖かい愛情を感じるまなざしがあります。善意にみち、勇気が湧く、そんなまなざしこそが人生のオアシス。このまなざしだけは、ものまねは出来ません。人にはインスピレーション、直感があります。特に女性の直感は鋭く、うそをすばやく見抜きます。目はくちほどにものをいう、昔の人はよく観察しています。眼差しの愛を与え続ける人の心の内側を観察すると、あるがままのあなたを深く愛しています、どんな感情をぶつけても、そのまま共感してくれています、かつ、赤ちゃんを慈しむような愛情でみつめてくれています。この誠実な眼差しはこの3つの条件から自然にうまれてきますし、この3つの条件が無いとこの眼差しは生まれません。



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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2019年01月14日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
ノートルダムのせむし男、戦争と平和の農民プラトン、そのほか沢山の文学作品には<無言の愛>が感動とほのぼのとした喜びを与えてくれます。或種の名曲でも静かではあるが、暖かい心と優しさを私の心に与えてくれます。友人にも無言だけれども、一番暖かい愛情を感じさせてくれる人がいます。このような場合は、言葉は何と虚しいものか、と感じます。このように言葉が無くても愛情が伝達されれば、人は優雅に美しく生活できます。今日から5回にわたり無言の愛について考えていきます。いずれの場合にも共通して存在する精神作用は3つあります。無条件の肯定的配慮、共感的理解、純粋と一致(心の奥底の想いと意識と言葉が一致している事)の3つです。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2019年01月13日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
欧米の大学には宗教心理学という面白い学科があります。フロイドやユングを中心に<信じて見えてくるもの、信じた為に見えなくなるもの>を学びます。人間愛が中心ですが、どうして愛を伝え、感じ合うかが、大きなテーマの一つです。何の為に自然体になるのか、それは愛を見つけ、感じ、伝える為です。<自然体>を身につける訓練は難しく、生涯の課題です。男女の愛ばかりでなく、神仏の愛を日常生活で深く感じ、信頼出来る方法を、この自然体から学ぼうとするのです。人とは何か、を思索する時、魂、心、身体の3つから成立している、と信じている心理療法家と、魂なんて無い、と思う心理療法家の場合、治療の仕方が歴然と違ってきます。魂を信じている人には深い人への尊敬と愛があります。魂は愛そのもの、病むこともなく、老いることもなく、永遠に生き続けるとも言われています。その魂の愛が愛する人にも自分にも存在していると信じ合った人の愛は深い大きな愛に変身していきます。飽きることがなく、そこに見えて来る愛は永遠につながるエネルギーを感じさせます。尽きることのない愛の泉がこんこんと湧いてきます。自然体は魂の愛を見せてくれます。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2019年01月12日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
自然体の原型について考えてみましょう。これが私の自然体の原型だ、と言い切れるものを意識してみましょう。自分の人生の、あの場面、この場面こそが、最高の自然体であった、といいきれるものを<自然体の原型>と言います。この体験した原型と、自分が理想とする姿を比較しながら、追求する喜びは言葉では言えない快感です。想い出しても嬉しい、心は穏やかだし、人間が好きになるし、健康で幸福で、何か整然とした気分、これが自然体である証です。過去の事はもうどうでもよく、明日のことも気にならず、今、ここでの開放感を堪能し、自然に、自由に、宇宙を舞うような気分。こだわりが一つも無く、のびのびと心も体も魂も乱舞している、そんな体感。これが究極の自然体。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2019年01月11日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
どんなに厳しい人生の状況に置かれても、その答は必ずその人の心の中に存在している、と言われています。その答を知覚する為の条件が<自然体>なのですが、なかなか、どの感覚が自然体なのか、体が納得しません。昔の知恵者は、熟睡の後の体感、トイレの後の体感、砂漠を旅をするラクダの背中での体感がその体感だよ、と示唆してくれています。合気道の開祖、植芝盛平先生はいつも武道の極意は自然体にあり、と常に諭されておられました。心理学が教えてくれる知恵も武道と同じで、体から力を抜き、呼吸を静かに整える、答を知りたい、と意識すると必ず答が見えてくる、と教えています。最大、最良の自然体は自分の中に存在する愛そのものである魂を信じ委ねる信仰の力とも言われています。その人の魂はその人の為に働いてくれる最高の味方だそうです。


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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2019年01月10日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
世界各地にある美しい彫像、仏像、特にミロのヴィーナスが教えてくれる美と愛の姿は心理療法の学会では重要な愛の伝達手法です。口べたな人、愛を伝達する下手な人、愛を感じることの貧しい人々、愛と美がよく分からない人々に、このミロのヴィーナスは愛と平和、美しい感情、魂の存在を、今でも人々に豊かな知情意を示唆し続けてくれています。人間が自然体になる意味、人間の身体の美しさ、それを感じる人間の心の不思議さ、優れた彫刻は知恵の源。赤ちゃんの姿が自然体の本来の意味を教えてくれます。人それぞれ、いづれも赤ちゃん時代を経験しています。お母さんが適当なタイミングにお乳を飲ませてくれる事、適当な時に、おしめを替えてくれる事、この二つが一番重要な信頼感と希望力を基礎人間に与える最初の愛情教育なのですが、残念ながらこの愛情教育がなくても、再学習で、人は幸福の基礎条件を確立出来ます。愛の伝達となるエネルギーとはどんな感情か、をもう一度ミロのヴィーナス味わいながら再体験してみましょう。



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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2019年01月09日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
童話<はだかの王様>は子供時代の楽しい想い出です。大人になって思う事は<ああ、私は裸の王様だ>との反省です。信念、思いこみ等から、自己イメージはAなのですが、周囲は私をBだと考えているのです。滑稽な場面です。心理療法の世界では<自然体>を尊重しますが、まさにこれこそが<はだかの王様>の世界です。自然体になって犯罪を犯す人、自然体になってマザーテレサになる人。自然体とはどんなことなのでしょう?自然体と本能、自然体と理性、自然体と愛憎。心理療法が目指す<自然体>とは何でしょう?それぞれの個性を持つ人間は自然体になった時に起きるいろいろの現象を考えながら、自然体について5回にわたり考えていきます。結論は<本物の自然体は深い優しい愛>をもたらします。何の為に自然体になろうとするのか?それは<暖かく美しい愛の世界>に入る為です。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2019年01月08日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
私の友人で哲学者のA君は奇人変人として有名です。昔、何を考えたのか、突然、子犬と子猿を飼い始めたのですが、数年たって、その犬と猿がとても仲が良いので有名になり、週刊誌に掲載されました。食事の時、お皿は別なのに自分が最初に食べないで、相手の様子を見てから、食べるのです。まるで自分の子供かのように相手を見ているのです。対等の関係ではなく、互いを自分の子供かのように感じているようです。好き嫌いの感情もありますが、好き、という感情の方が、嫌い、という感情より強いようです。さて私の人生から嫌いな人間が居なくなったら人生、つまらないなあ、と思います。刺激もなく、退屈です。周囲が全部嫌いな人間ばかりなら、私は病気になりますが、50人中、1人程度の割合で嫌いな人間が居てくれるので、私は自分の幸福が認識できるのでしょう。私が今も元気にしていて、色々の困難を生き抜いてきた最大の知恵は、いい加減な所、全てを水に流す性格、都合の悪い事は聞こえないふりをする性格かなあ。


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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2019年01月07日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
なにごともそうなのですが、中途半端な人生は味がありません。おすすめはしませんが、人をとことん嫌うと、どうなるか、危険な事ですが、ひそかなる冒険が必要です。私の国内外の体験、政界、経済界、宗教界、家族、恋愛、そんな私の密かな人生経験の中で、数回、徹底して人を嫌い続けた冒険談があります。結論は徹底して人を嫌うと、およそ平安感、友好的感情、健康感、幸福感、統御感からは、ほど遠く、ひたすら不安、怒り、身体症状、躁鬱、錯乱の世界を漂いました。その人生体験はひょっとすると刑務所、犯罪、殺人への道を歩む危険があります。どんなに苦しくても、どんな環境の人生に追いやられても、人の魂は愛そのものなので、嫌な人、親の敵に遭遇しても、やはり人を愛する心を持つ努力を少ししたほうがよさそうです。さらには純粋に人を愛する事が出来なくても、死ぬまで、同じ努力をするならば、人を嫌う努力よりも、人を純粋に愛する努力をしたほうがよさそうです。倫理道徳哲学の立場からの話でなく、私の利害得失からのお話。


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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2019年01月06日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
好き嫌いの感情は原初感情といわれ命を保持する為の感情。人類誕生から存在する大切な感情です。<或人を嫌う>と、健康な人は<自己嫌悪感>を少し持ちますが、固執障害を持つ傾向の人は益々感情の流れに支障が出てきます。感情の流れが自然に流れていかないと顔は能面のように固まり、自由に行動が出来なくなり、幸福感が激減し、不安感が増し、健康観、爽やかな感情が無くなります。人によっては身体症状まで出てきます。何かを嫌う感情は生命を維持する為の貴重な手法で、美徳の一つなのですが、何故か人は、嫌う感情が美徳の一つだとは思いたくないようです。嫌う感情が何故、美徳の一つなのかを真剣に考えてみて下さい。固執障害の精神現象が出るまで人を憎むと、本人が上記のような不幸な状態になることを意識しながら生きていきましょう。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2019年01月05日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
どうでもよい関係の人を嫌う場合は利害関係もなく気楽なのですが、職場、家族、学校、隣近所となると、そうもいきません。人間の心の仕組みには<感情転移、投影>と呼ばれる作用があります。嫌いな人が出現すると、その人と関係の無い政治、経済、お金、勉強等でのあらゆる不満が、感情転移現象を起こさせます。更に恐ろしい事に人間の心の深層には<生贄の子羊>現象を求める傾向があるので、嫌いな人が出現すると、その人に関係の無い事柄を含めて全部、その人に向けて感情転移、投影される傾向があります。ですから本能的に人はその事を理解しているので、人から嫌われる事を恐れます。この人間の心の仕組みを認識する事すらプライド上、私にはそんな事は関係ありません、と、この心の仕組み<真実>を認めようともしません。この恐ろしい人間の心の仕組みを宗教では<原罪>とか<業>という領域で表現しています。愛と許しと信頼をあえて意識する必要があるのはこの仕組みを熟知した賢者の助言なのです。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2019年01月04日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
コーヒーが嫌いな人、好きな人、女嫌いな人、好きな人、人それぞれ好き嫌いがあります。人類誕生以来<原初感情>と言うものがあります。好き嫌い、怖い怖くない、この2種類は人類発生以来の感情といわれています。この好き、嫌いの感情のお陰で、毒性の食物を排除したり、愛の感情と言う高度の思想がめざめたりしながら、人類は発展してきました。さて日常生活で、あの人が嫌い、といって生きるのは自由なのですが、嫌いという領域でまとめてしまうと、その人は生涯、成長が止まります。成長が止まると生き甲斐は見つかりません。自分の幸せを増進させる為にも、今日から5回にわたり<人嫌い論>を考え、人間のおもしろさに目をむけてみましょう。「人間は面白い生き物だ」と思うようになると自然と激しい人嫌い現象が消滅していく傾向があります。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2019年01月03日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
せっかく愛の原型に触れあい神聖な愛の世界に生き始めた二人が破綻していく2つの原因があります。2つとは人間の弱さへの不理解から生まれる<許しと信頼>の問題です。全ての人間が人間であるゆえに持つ悪と弱さと業(罪科)の問題です。このどうしようもない人間性を理解出来ない男女はすぐ破綻していきます。愛の原型にせっかくたどり着き愛し合ったのに、この<許しと信頼>の修行が不足しているばかりに貴重な愛を失う二人が多すぎます。自律性の愛があれば二人の愛は永遠でしょう。但し、言葉の暴力や本当の暴力を平然と使用する男や女は異常です。
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