五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

楽しそうに

2012年09月13日 | 第2章 五感と体感
日中は蒸し暑いものの、朝晩はひんやりとした空気が外から入り、秋らしさを感じるようになりました。

楽しそうに仕事をしている

楽しそうに習い事をしている

楽しそうに人と話している

…楽しそうに・・・・・

知り合いが楽しそうに〇〇していると、何となく、その場に入れてもらいたくなります。

「楽しそうに」って、どういうことなのでしょう。

昨日のブログでも書きましたが、無表情で、ぶっきらぼうに見える人と行動していると、だんだんと私の心も荒んできます。
自分自身が楽しんでいないと、与えられたことや役割が、どんどんと憂鬱さに押し潰されてきます。

やるべきことに情を籠めると、そこに命が宿るのが解ります。

無機質なものに命が宿ると、なんとなく温かみが湧いてきます。

温かみは「温もり」ということです。

「楽しそうに」とは、その温もりを人から感じる、ということかな、と思います。

「自分の心と身体と魂を大切にする」とは、そういうことのように思うのです。

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どうせやるなら

2012年09月12日 | 第2章 五感と体感
一年間の約束で、ある団体の世話役を引き受け、連絡やら取りまとめやらをしています。

一緒に世話役をしているパートナーも私と同じく仕事を抱えており、互いの都合を考慮しながら息の合った仕事をさせていただいています。

パートナーは数学科出身の理数系、私は芸術系出身の文科系。そうはいっても互いに気が合うのか、唖吽の呼吸で自分の役割をこなしています。

「私は忙しい」と、やる前から避けて通る人のほうが多い中、「どうせやるなら楽しくやろう」という考え方で、気楽に構えることができる私達は、ちょっぴりお得な性格かもしれないね。。。と、笑い合うところも気の合う二人のいいところかもしれません。

いちいちなんでも話しあって、二人揃って行動することに意味を感じていないので、互いの事後承諾によって事が進んでいることに心地良さを感じます。

「きっと、皆さんの前で二人揃って仕事をするってことが無いのを皆さんは余程仲が悪いのねぇ・・・と、思ってるかもね」と、けらけらと笑い合いながら、昨晩も遅くまで連絡取り合い、一つの仕事を片付けました。

そうそう、どうせやるなら、前向きで明るく気遣い良くやっていきたいものです。このような考え方が、ある意味大人の考え方とも言えるように思うのです。

人との出会いは、一期一会。

自分の役割をできることなら楽しくやっていきたいものです。

さぁて・・・、この仕事を来年引き継いでくれる人がいるか否か。。。これもまた、気楽に考えるしかないかな…(笑)

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自分が設定している答え

2012年09月11日 | 第2章 五感と体感
その場ではスッキリしたようでも、暫く経つとモヤモヤとしてくる。。。。

このような経験は、私も日常茶飯事です。

自分にとって「解決する」ということは、何を解決することなのでしょうか?

答えが明確にあり、その答えに向かって行動をおこせば解決できるのもなのか?

答えが明確にあっても叶わぬことであり、その叶わないことを叶わせることが解決なのか?

答えが見つからず、事あるごとに答えが変わり、それによって自分の不安感がつのっているのか?

自分の不安感は、一体何による不安感なのか吟味することができるとしたら、もう一度、自分が描いている答えを見なおしてみるのも必要かもしれません。

「おのずと」見えてくるものに心身を委ねてみるのも、自分の人生の道程の愉しさであるとも思うのが今の私の心境です。

昨日の勉強会の質問に、皆様と一緒に考えたものの上手く言葉で表現できなかったので、帰宅してからもモヤモヤしておりました。一晩寝て、PCに向かったら、こんな思いが湧きあがってきましたので書いてみました。

保護者の皆様との二学期初日。いつものように和やかに過ごすことができ感謝しています。

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それぞれの諸行無常

2012年09月10日 | 第2章 五感と体感
昨日の大河ドラマ「平清盛」は、「鹿ケ谷」の兆しあたりのことを描いていました。福原に夢の都を築くため、港を作ろうと計画します。この港は、大変な難工事だったようですが、このことでどれだけの富を得ていたかがよくわかります。

清盛が夢を描いている間、

かたや、清盛全盛という現実に不満を持つ藤原摂関家。清盛の力を封じようと、以仁親王を利用し、御白河法皇も動きだします。

「力を封じる」ことは、力のある者にはには敵わず、ここでもまた悲劇の現実が待っています。

若き日に現実を受け入れ、カリスマとなった清盛。

そしして、伊豆に流され、数々の裏切りを経験し、何を信じて良いのか解らないでいる頼朝。この頃は、現実を受け入れられず、我を糺そうとひたすら祈りの道を続け、放心と足掻きの狭間に立たされています。

現実を受け入れることをどこまで受け容れていくのか。受け容れることがどの程度のバネになるのか。

頼朝の憂いと若き日の清盛の憂いは、内容は違えど同質のものであるように感じます。そして、清盛を経由して武家社会を築き上げた頼朝と清盛の福原の夢は、それぞれの個性の美の最上のものであるように思うのです。

歴史が繰り返されていくことを諸行無常と云うには短絡的すぎますが、この諸行無常を自分のどの段階で気付くかも、個性の美なのです。そのことで苦しんだのが佐藤義清こと西行であり、それがあったゆえの西行であるのです。

人生の曲がり角に来ても、私にはまだ諸行無常の域はやってきませんが、自分の延長線上で、どこかで交わるような予感めいたものはあるのです。。というか、信じているのかもしれません。

久しぶりに家でのんびりでできた日曜日。昼間は市川団十郎さんと猿之助さんの黒塚を楽しみ、襲名披露を堪能し、西行花伝をじっくりと読み終え、夜は清盛で考え事をし、私自身、最高の時間を過ごしました。

今日から某学校保護者の勉強会も始まります。秋の始まりから一気に年末となりそうですが、好き気持で仕事に邁進できそうです。

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場に佇む

2012年09月09日 | 第2章 五感と体感
事件は会議で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ。

どこかの映画の誰かの台詞ではありませんが、能楽の仕舞いと謡いを習い始めてから、旅する場所での感じ方がちょっぴり深くなってきたように思います。

心理療法の学びは、理論を学び臨床を学ぶことと同時に、己を知ろうとすること(自己分析)、そして、五感を意識する訓練を生涯の学びとして続けていくことが必要です。

旅をすることは、観光だけではなく、自分の日常、つまり好くも悪くも馴れていることから離れることでもあります。
日常の自分が、日常でない場所に佇むことで、何かを吸収することだけが目的ではありません。日常の自分を改めて比較考察する場でもあり、「自分」という身体と心が、場に佇むことで五感を通して何を感じるか、解釈するかを感じ取り、それを意識化し何らかの形で表現することが、即ち己と向き合う事であるのだと思うのです。

常に自分は何のために生きているのか?
自分の生き甲斐とは何か?
そして、自分の心と身体と魂を大切にしているか?

場に佇むことで、感ずることをより大事にしていきたいものです。感ずることの感性を磨くことは、他者との関係性における自分の解釈を多様的に考えていくことと同じことが言えるかもしれません。

「自分は、だからこうなんだ。。。」という呪縛に、囚われて、自分に備わっている五感をふさいでしまうのは勿体無いことです。

己を知ることは、非日常の場に佇んでこそ見えてくるものかもしれません。

西行の人生の終盤に住まう嵯峨野の庵跡…。小倉山から吹く風にひやりとした冷たさが私の身体を包んだ時のことをふと思い出しています。8,9年前の旅でしたが、体感の記憶に古さを感じません。

現場に佇むということは、そういうことなのです。

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秋の訪れを感ずる

2012年09月08日 | 第2章 五感と体感
我が家の名物萩が、三日前に開花しました。

今年は6月の野分でなぎ倒され、どうなることやら。。。、と案じていたのですが、なぎ倒され、折れた枝を思い切って切り落とすと新たに枝が育ち、お陰で例年よりも風通しのよい高さで安定し、無事花の季節となりました。

夜は虫の音。
昼はさらさらと風になびく萩。

野分が来ない限り、これから一カ月は萩を愉しむことができます。

夏から秋にかけての光の落ち具合とか冬から春にかけての微妙に変化する山の色は、日本の風土の季節の変化の象徴的な様子だと思います。

この微妙な変化を読み取ることができる日本人の感性が「もののあわれ」というアイデンティティを生み、見えないものを見ようとする「ちから」を具え、幽玄を見い出してきたのでしょう。

変化の過程を季節の中で感じ取る時間を与えられている私達は、二元性の間に限りなくある何かを身体で知っているのだとも思います。

夏から秋の衣替えを日々感じながら暮らすことに豊かさ覚える人は幸せなはずです。

お盆過ぎから読み始めた西行花伝もそろそろ読み終えることができそうです。

言霊に魂を籠めることは、自然の中に心身を含み含まれることの探究であり修行かもしれません。

どこまで言霊と合い交わることができるのかは、才能の無い私には永遠に無理なことかもしれませんが、どこまで表現できるのかという静かな挑みは死ぬまで続けていけるような気がしています。

言葉は言霊だ・・・

「言霊の何持たずとも十五夜のもののあわれと自ず戯る」。。。また、一句。お粗末さまでした^^;

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あなたと私の感情

2012年09月07日 | 第2章 五感と体感
自分の傾向を知り、相手の傾向を見通すことができてくると、「あなたと私」という関係から発生する自分のストレスが意識されてきます。

自分と他者を比べることに何の意味があるのでしょう?

人によって意味は違うかもしれませんが…。

他者と違う自分に引け目を感じたり、優越感を感じたり、好意をもったり、憧れたり、嫌悪感を感じたり、、、、そのような感情が湧いてくるのは当然のことで、感情は人に与えられた宝物です。

自分の考え方、捉え方から湧き出す自分の感情を意識することで、自分の方向性を自分自身が決めていくようです。

でも、自分の感情が意識できず、相手を吟味することを通り越して、いきなり非難したり暴言を吐いたり、暴力をふるったりすることは、とても悲しいことです。

「私とあなた」の関係において、本音を言いたい相手にちゃんと伝えているか…、伝えられないことによって、身近な誰かに自分の感情を理不尽にぶつけていないか…、

もし、自分の感情を言いやすい誰かにぶつけているとしたら、言われている誰かはとても苦しんでいることを忘れてはなりません。

「答えは自分の内にある」事を知っている人は、きっと現実を吟味する力が強く備わっている証拠かもしれません。

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変えること行動すること

2012年09月06日 | 第2章 五感と体感
昨日のブログ「ヘンな自分…」の続きです。

ヘンだなぁ・・・

と、気付くと、ヘンである理由を思い巡らします。

理由を思い巡らすことは、イイことであるし。自分を変えてゆくステップとして大事なプロセスでもあります。

でも、

この理由をいつまで、思い巡らしていれば良いのでしょう・・・

あんまり、この期間が長すぎると、きっと理由ばかりが頭に巡り、ひたすら言い訳している自分が自分の個性、つまり自分の傾向となってしまいます。

周りは「また言い訳言ってる」くらいにしか思わなくなります。

そうならないために、

今、ここでの感情、そして、今、ここでの自分の考え方や行動を大事にしつつ、自分の中で折り合いのつきそうな将来の自分のイメージを描いてみることが大事になようです。

イメージする。↓

言語化する。↓

行動する。

身の丈に合わせながら、行動に移していくことは、かなりの努力が必要かもしれませんが、きっと、その努力は喜びにかわると、私は信じています。

もしかしたら、「努力する」ことは、人によっては「勇気を出す」ことと同じかもしれません。

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変だなと思う自分

2012年09月05日 | 第2章 五感と体感
私はヘンな自分に悩んだ時期があります。

好きなことをし、気に入った環境で人間関係を築き、嫌な仕事はしない生活が日常化してたのですが、「子育て」という環境に身を置いた時から、理想の思いがむくむくと湧き出し、私自身、自らの心身削った生活を課したのです。

今から思うと、それが今の自分の活動にも繋がっているわけですが、子育て10年にして、さすがにヘンだなという自分に気付きだし、学校の保護者対象の勉強会に身を置いたわけです。

つまり、自分がヘンだな、と思わなければ、この勉強会を受講しなかったわけです。

不安感とか違和感が湧き出して、ヘンだな、、、と、思った自分に気付くことは、自分に持っているアイデンティティの不統合性に気付く事と同じです。
気付くことでグルグルと同じ悩みを繰り返す時期もあるかもしれませんが、自分の内に持っている答えは、自分自身で見つけることができるはずです。

へんだな、と思う自分をまず、そのまま受け止めてみると、解決した状態のイメージが湧いてくるように思います。

学びは、そこから始まります。

のんびりと楽しみながら、共に学び合う仲間の存在は、ほんとうに有難いです。

「死ぬまで勉強だね」としみじみ語り合いながら、9月の始まりを腰越で迎えました。

M女学院は明日からです。皆様との再会を楽しみにしています。

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腰越勉強会

2012年09月04日 | 第2章 五感と体感
夏休みモードの生活から抜け出し、普段の生活に戻りつつあります。

今日は二カ月ぶりの腰越勉強会です。

今日は腰越状の万福寺にご挨拶し、夏に義経の生涯を読み切ったけじめをつけます。

夏の賑わいが治まった腰越の海を眺めるのが楽しみです。

勉強会で皆様と久しぶりにお会いすることも楽しみ^^にしています。

夏の疲れと上手に付き合いながら、張り切っていきましょう!

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求めること求めないこと

2012年09月03日 | 第2章 五感と体感
一昨日から昨日にかけて、久しぶりに雨に洗われ、外がきれいになったように思います。

辻邦生の西行花伝を読みながら自分の重ねてきた年齢とともに、要るもの要らないものを分別する力が多少は備わってきた自分を感じています。

自分の心の中に在る記憶が、豊かであればあるほど、要るものは少なくなってくるようにも思います。
満たされていない自分の渇きが、次から次へと求めることに繋がるのですが、自分を満たしているものと満たそうとしているものの合致が、上手いこといっていればいっているほど、求めるものへの程合いが身の丈になっていくようにも思うのです。

私自身、求めないで生きるには、生きているうちは無理だと思いますが、求めるものの程合いを自分で測ることができるようになると、いずれ求めることと求めないことが互いにぴたりと合わさることが可能になる日が来るように思います。

西行の歌にある財産や権力をこえた「ちから」が裏打ちされていることの意味が、私の中で納得いく形で理解しつつあるようにも感じています。

「求めること求めないこと」
息を吐く事から始めると、自然と息が身体に吸い込まれていくあの感覚に近いことが、今私が精一杯言語化できる体感的表現です。

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魂を信じると・・・

2012年09月02日 | 第2章 五感と体感
先日、NHKで「お迎え」についての特集が放映されました。

「お迎え」、つまり死を迎える人に現れるお迎え現象をどこかの大学が統計を取ったものを素材に番組を構成していました。

登場していたお医者さんは「幻覚」という言葉を使っていましたが、ターミナルケアーのカウンセリングの立場からすると、死を迎えようとしている人が実際に見ている「リアリティ」として捉えます。

見えるものは、その人にとっての真実なのですから。

日本では「死」忌み嫌い、古来からモガリという風習がありますが、ヨーロッパではラテン語で「メメントモリ」という言葉が古来からあり、メメントモリ=死を想うことで、死という自分の身に必ず起こる現実を受容することで天国をイメージしてきたと私は解釈しています。
ヨーロッパの教会の地下にあるカタコンベに入ると、これ見よがしに骸骨と大腿骨が美しく整然と並べられていたりします。

平安時代の画の中に、あの世を信じ、今まさに死を迎える怖さを和らげるために天井から紐をぶら下げ、それを握って逝去する様子を描いたものがあります。

それぞれの環境において生まれ育ち、そして老い、自分が信じている「あの世」とは、何なのか、自分が死んだらどうなるのか、、、。これらのことを思い巡らしている人は、もしかしたらお迎えの時に会いたい人に会えるのかもしれないし、リアリティとしての風景が見えてくるのではないか、とふと思ったりしています。

だからこそ、メメントモリは、自分が死にゆくための大事な儀式であるように思います。

私の祖父は、東京のビルに囲まれた病院の窓を見て「あやちゃん、ほら、桃源郷が綺麗だよ。桃の花のピンクが綺麗。あやちゃんの口紅の色も綺麗だな」と、仕事帰りに化粧もはげボロボロの顔で見舞いに行った私にそう言いました。
そう言いながら、右手に筆を持っているかのように、キャンパスに描くしぐさを始めました。

そのとき、私は、おじいちゃんは、本当に見えているんだな。。。と、思いました。

一緒に「桃源郷綺麗だねぇ~」と言葉を返し、別れの言葉のやり取りは、なんとも美しい思い出となっています。

私のお迎えは、神仏混合キリスト教ではないか。。。と、思ったり、若い頃旅をしたインドのサドゥ達が賑やかにヨガをしながらお迎えに来るかもしれないし、、、でも、理想と云えば、宇治の平等院の雲中供養菩薩が雲に乗って現れ、その中にマリア様が混じっていることを期待しているのですが。。。

想像することを今から楽しみ、神様、仏様、キリスト様、マリア様、ヒンドゥーの神々に手を合わせていると、自分が死を迎える時に、きっと誰かが迎えにいらっしゃることは、しっかりと信じている私が居ます。

見えるもの、見えざるものを、どう解釈するか。。。これは、やっぱり自分自身の生き方に繋がる、ということになりそうですね。

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秋の始まりの月

2012年09月01日 | 第2章 五感と体感
暑い暑いと言いながら、そのまま9月に突入です。

カレンダーを捲り「9月」という文字を見て、秋のイメージに私の気持が単純に切り替わるのも、暦の文化が体得されている証拠だな~と、朝からそのような事を思いながら、9月の始まりの朝を過ごしています。

8月中に読み終えるはずだった西行花伝は3分の2まで読み進み、今は、保元の乱で敗れ、陰陽道で凝り固まった信西の無慈悲な裁きで讃岐に送られた崇徳天皇。そして、その崇徳天皇を政治から切り離すことのできなかった西行の憂いの箇所を読んでいます。

昨晩の満月を愛で、一カ月に二回の満月があることに得した心持で

「憂う時喜ぶ時も月仰ぐ」と、お粗末ながら一句詠み、8月に別れを告げました。

西行の一心さ。その一心が行動へと同化していく様は、世を渡るには余りにも不器用ですが、歌を詠むための条件としては最高の資質であるように思い、文武両道のイケメン歌人の行く路を昨晩の月から感じ取ることがでいたように思います。

読み残した3分の1の西行花伝をゆるりと読みながら、夏と秋の境を塩梅良く過ごしたいのが私の本音かもしれません。

満月が日々欠けてゆくペースと共に、諸々を始めていきたいと思います。

「満月の焦るなかれと微笑みし」

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