五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

孤独を受容するということ(宗教観7)

2010年07月22日 | 第2章 五感と体感
とてつもない孤独感に襲われたことがあります。

草原が広がる一本道は舗装されておらず、砂利がゴロゴロしています。

その道に転がったただの石になったような体感を覚えたのです。

打ち捨てられた石、という感覚は、自分がたった一つの石コロになったことを受容した瞬間でもありました。

その体感は、私は私であって私以外の何者でもないことを体と心が同時に意識したのだと私なりに解釈しています。

人生の折り返し地点ともいえる年齢にして初めて自分の孤独を受容できたようです。もしかしたらまだ受容しきれていないかもしれませんが…

日々の生活に追われ、自己概念が固すぎて、自分の内にある核からどんどん離れていく感覚ほど寂しく虚しいものはありません。
自分の柱をなんとなくでも見据える機会を意識的に持つことは、「私が私であること」の確認となるように思います。

孤独である自分を受容することは「私」という「個」とどう付き合うかの意思確認にも繋がります。

神や仏は、願いを叶えてくれるためのものではなさそうです。

手を合わせ自分の内に留まる「時」が自分の内に宿る答えを導き出す手伝いをしてくれるのです。そこから幸福感や平安感、統御感が湧きだしてきたら、自分の内にある「見神欲」(デジデリウム)が働いているということかもしれません。

自分の孤独を受容すると他者の個性が輝いて見えます。人との繋がりがあるから故、自分が成り立っていくのです。

成り立つ自分は、人との繋がりながら、更に誰かと繋がっていくのです。

私のデジデリウムは、自分の内から湧いてくるものと昔からの知恵が合わさることで随分満たされるようになってきたようです。

「宗教観」という言葉を使うよりも「デジデリウム」のほうがしっくりくること自体が私の宗教観ということかもしれませんね…。

クリック「応援お願いします★
人気blogランキング ☆ありがとうございます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする