前橋の駅前の並木は立派だ。けやき並木に沿って歩けば群馬県庁につくようだけど、今日はそこまで歩かない。
歩きとおせば、けやき208本だという。だいたい100本ぐらいのところ、本町1丁目の信号を右折すると目的地だ。
けっこう近い。
萩原朔太郎生家跡
住居と診察室、病棟などを備えた「萩原医院」が、1886年(明治19年)この地にあり、長男の朔太郎が生まれた。
病棟は1960年(昭和35年)に撤去されたが、住居などは1968年までここに存在した。もっとも、朔太郎はとっくに
亡くなっていたけれど。
現在はマンション
駅でもらった「前橋まちあるきマップ」によると、この場所に喫茶「花梨」や「えびす食堂」、喫茶「あるく」や
うなぎの「古久屋」などがあって賑やかそう。しかし、すでに高層マンションに変貌していた。生家跡の碑は
マンションの一角、この写真の左奥に。
40歳まで朔太郎がここに住んだ
これはいつか撮った書斎の写真。たぶん、20年ちょっと前に前橋自動車教習所で合宿したとき、日曜に
フィルムで撮った。当時、すでにこの場所から生家の建物は撤去されていた。どこで撮影したものやら。
現在、住居の一部は敷島公園に移されて萩原朔太郎記念館になっている。きっと、そこだろう。
タクシーで敷島公園へ瞬間移動
敷島公園は交通の便がよくなく、20年ちょっと前にタクシーに気軽に乗るとは考えにくいから、自分は
その頃どうやって朔太郎記念館を訪ねたのだろう? 思い出せない。あとで調べたら、自動車教習所
から敷島公園までそう遠くなく、自転車で10分だというから歩いて見にいったのかも。
「土蔵」と「離れ」と「書斎」だけ
見覚えがある、やはりここだ。土蔵は1974年(昭和49年)、書斎は1978年(昭和53年)、離れは1979年
(昭和54年)にここへ移築されたらしい。それまで約5年から10年どこにあったんだろう?
書斎は以前の写真と同じかな?
見比べてみると新しい気も……
書斎は生家の裏庭にあった味噌蔵を改造したもので、40歳までここにいたとは改めて驚きだ。『月に吠える』
も『青猫』もここで書かれた。そのころ朔太郎は「詩を書く人」というより「マンドリンを弾く人」として通っていて、
書斎も「音楽室」と呼ばれていたとか。だから離れなのか。
窓から中をのぞいてみると……
以前ここで見たときより、きれいになっている気がする。何があったか少しも覚えていないけれど、なんか。
ついでなので別の窓からも中をのぞいてみる。
たしかにちょっと音楽室っぽい
それにしても40歳までここにいるというのは……どうもおかしいと思ったら、20代は東京で音楽やりながら
短歌とか詩とか書いてて、アラサ―で帰郷して味噌蔵を書斎(音楽室)に改造したみたい。40歳までいて、
再度上京し、再度帰郷して、そんなくりかえし。
離れの座敷の中はこんな感じ
せっかく前橋にきたことだから、敷島公園ばら園3乗り場に書いてある電話番号でタクシー呼んで、駅まで
戻る途中の前橋文学館へ。広瀬川に、朔太郎橋がかかっていた。
遊歩道には数々の詩碑がある
橋のたもとにはマンドリンと帽子の造形物が。これも萩原朔太郎にちなんだものなんだろう。それから銅像
があった。どうせ文学館の中は撮影できないので、いちおう外にあるものを撮っておいた。
関連記事: 馬込
歩きとおせば、けやき208本だという。だいたい100本ぐらいのところ、本町1丁目の信号を右折すると目的地だ。
けっこう近い。
萩原朔太郎生家跡
住居と診察室、病棟などを備えた「萩原医院」が、1886年(明治19年)この地にあり、長男の朔太郎が生まれた。
病棟は1960年(昭和35年)に撤去されたが、住居などは1968年までここに存在した。もっとも、朔太郎はとっくに
亡くなっていたけれど。
現在はマンション
駅でもらった「前橋まちあるきマップ」によると、この場所に喫茶「花梨」や「えびす食堂」、喫茶「あるく」や
うなぎの「古久屋」などがあって賑やかそう。しかし、すでに高層マンションに変貌していた。生家跡の碑は
マンションの一角、この写真の左奥に。
40歳まで朔太郎がここに住んだ
これはいつか撮った書斎の写真。たぶん、20年ちょっと前に前橋自動車教習所で合宿したとき、日曜に
フィルムで撮った。当時、すでにこの場所から生家の建物は撤去されていた。どこで撮影したものやら。
現在、住居の一部は敷島公園に移されて萩原朔太郎記念館になっている。きっと、そこだろう。
タクシーで敷島公園へ瞬間移動
敷島公園は交通の便がよくなく、20年ちょっと前にタクシーに気軽に乗るとは考えにくいから、自分は
その頃どうやって朔太郎記念館を訪ねたのだろう? 思い出せない。あとで調べたら、自動車教習所
から敷島公園までそう遠くなく、自転車で10分だというから歩いて見にいったのかも。
「土蔵」と「離れ」と「書斎」だけ
見覚えがある、やはりここだ。土蔵は1974年(昭和49年)、書斎は1978年(昭和53年)、離れは1979年
(昭和54年)にここへ移築されたらしい。それまで約5年から10年どこにあったんだろう?
書斎は以前の写真と同じかな?
見比べてみると新しい気も……
書斎は生家の裏庭にあった味噌蔵を改造したもので、40歳までここにいたとは改めて驚きだ。『月に吠える』
も『青猫』もここで書かれた。そのころ朔太郎は「詩を書く人」というより「マンドリンを弾く人」として通っていて、
書斎も「音楽室」と呼ばれていたとか。だから離れなのか。
窓から中をのぞいてみると……
以前ここで見たときより、きれいになっている気がする。何があったか少しも覚えていないけれど、なんか。
ついでなので別の窓からも中をのぞいてみる。
たしかにちょっと音楽室っぽい
それにしても40歳までここにいるというのは……どうもおかしいと思ったら、20代は東京で音楽やりながら
短歌とか詩とか書いてて、アラサ―で帰郷して味噌蔵を書斎(音楽室)に改造したみたい。40歳までいて、
再度上京し、再度帰郷して、そんなくりかえし。
離れの座敷の中はこんな感じ
せっかく前橋にきたことだから、敷島公園ばら園3乗り場に書いてある電話番号でタクシー呼んで、駅まで
戻る途中の前橋文学館へ。広瀬川に、朔太郎橋がかかっていた。
遊歩道には数々の詩碑がある
橋のたもとにはマンドリンと帽子の造形物が。これも萩原朔太郎にちなんだものなんだろう。それから銅像
があった。どうせ文学館の中は撮影できないので、いちおう外にあるものを撮っておいた。
関連記事: 馬込