歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

「白樺」と「柳」に“嘉納治五郎”

2008年04月24日 | 建物の話し
昨日の続きです。

外に出る前に、この軸の説明がありました。これをみても何が何だか読めません。堅固の奥さん遠縁に当たる「中島廣足」(1792年~1864年)の書だそうです。


堅固さんは熊本出身、廣足さんは郷土の国学者です。堅固さんは座右の銘としていたそうです。

それで、書かれている内容なんですが、脇に現代語訳がありまして、


みんなが寝る頃になって、机に向かい勉学に励む訳です。この頃は、西洋に追いつけ追い越せで、エリート達は寝る間も惜しんで勉強していたのです。

堅固さんの書です。“克己”とあります。「こっき」と読むそうです。おのれにかつこと。意志の力で、自分の衝動・欲望・感情などをおさえることだそうです。     
   

私は、衝動、欲望、感情の赴くままに生きています。

堅固さんの肖像画です。明治生まれの男は髭を蓄えるのです。私は昭和生まれですが髭を蓄えています。

   

堅固が熊本出身と云う事で、この我孫子に別荘を建てたようです。熊本が何故、我孫子かと云うと、堅固は熊本の第五高等学校の出身で、当時の校長が「嘉納治五郎」だったのです。

あの講道館の嘉納治五郎です。治五郎さんが、我孫子に別荘を建てたので、堅固も誘われ、白樺派も誘われたのです。

白樺派と嘉納治五郎に繋がりがあるとは知りませんでした。

我孫子と白樺派の繋がりは治五郎さんだったのです。白樺派の柳宗悦の義母は治五郎の姉だそうです。

治五郎さんは講道館を創った“柔道一直線”の柔道家としてしか知りませでした。文武両道の教育者だったのです。

この別荘に来なければ、わたくし一生、嘉納治五郎を単なる柔道家と思い込み続けていたでしょう。

まぁ、それで特に問題が起きる訳では有りませんが、それでも、これまでの認識が書き換えられることは、これまた楽しいことです。

それと、治五郎さんの実家は“灘の生一本”で有名な酒造業を中心とする、嘉納財閥に連なる人だったのでした。菊正宗酒造”も、“白鶴酒造”も嘉納一族の会社なのでした。知りませんでした。

進学校で有名な“灘高”は、嘉納財閥が創設した学校だったのです。創設の中心になったのが治五郎さんだったのです。知りませんでした。

それで、調べ序でに「第五高等学校」を調べてみると、熊本大学のホームページに“旧制第五高等学校”のページがあり、

著名教授として、嘉納治五郎、夏目漱石、ラフカディオ・ハーンの名前がありました。

それと、著名な卒業生には、寺田寅彦、大川周明、宇野哲人(知りません)、大内兵衛、池田勇、木下順二、梅崎春生(知りません)、佐藤栄作、とありました。

村川堅固の名前は残念ながら有りませんでした。  


今日は、新館の外回りの話を予定していたのですが、話の方向が少しだけずれてしまいました。

それでも、いろいろと調べ、いろいろと新しい発見があり、私としては、それなりに楽しかったです。

明日は、間違いなく新館の外回りです。


それでは、また明日。



コメント
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