歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

⑨福島原発事故調査報告で安全神話は日本的ですか? 

2012年07月27日 | 世間話し
昨日の続きみたいなものです。

それにしても、今日も暑い! 今朝のウォーキングは中止しました。これからは、気温の様子を窺いつつ、週三回程度に減らそうかと思う今日この頃です。

それで、原発事故報告ですが、どれも、これも、発生原因の技術的要因については、現場検証も不可能な為、推定と云うか、想像と云うか、その程度なのです。

それで、最大の問題としているのは、どれも、これも、誰もが想定していた“事故は絶対に起こらない”と云う“安全神話”の問題です。

政府の事故調も、『長時間の全電源の喪失は起こらないことを、前提として、運営・構築されていた事に尽きる』と、総括しているのです。

でも、しかし、ホント、もう一歩踏み込んで、何故?“全電源の喪失は起こらない”となってしまったのかを追求すべきなのです。

ここを明確にしないと、原発に限らず、これからも、いろいろな領域で、いろいろ問題が、発生するのです。

“起きてしまっては困ること”は、人は、いつしか、“起きないものと考える”そんな思考回路があるのでしょうか? そして、それは、とても日本人的なのでしょうか?

わたくしの、コレまでの人生の、狭い範囲での、僅かな体験と経験から、大胆にも、結論づけますが、これは割と日常的で、日本人的なのです。

起きるまでは、たぶん?大丈夫であり、ずっと起きないと“絶対大丈夫”になるのです。もし起きても、その時は、その時だと思っているのです。

当然、日本の“原子力村”も特殊ではなく、とても、とても、日本人的なのです。事故調もそうなのです。

すべて、曖昧なのです。もし、何かが起きても、あまり責任や、原因を追求したりはしないのです。

徹底的に追求し、原因を究明し、責任を明確にして、処罰まですることは考えないのです。

起きたら、起きたで“まあ、まあ、まあ、そこまで云わなくとも、ねェ”なのです。

判っている人は、それなりに、気づいて、それなりに反省しているのだから“もう、それ以上、追求して、追い詰めなくてもねェ”なのです。

そして、起きる可能性の少ない事は、起きる前から、アーダぁ、コーダぁと、考えないのです。

起きる前から、起きもしないようなことの対処方法など考えて居たら、生きてはいけないと思っているのです。兎に角、起きたら、起きたで、その時考えればイイのです。


ですから、原発が爆発するとか、人為的なミスとかで、大量に放射能が漏れるとか、そういう事を想定したり、具体性をもった避難計画を作成したり、しないし、できないのです。

もし、最悪の事態を想定した、具体性をもった避難計画を作成し、それに基づく避難訓練など計画したら、原発は危険だ!爆発する!放射能が漏れる!死の灰だァ!となり、原発の建設は不可能だと考えるのです。

人生は“♪そのうち何とかァ ♪な~るだろう~~”なのです。悲観論より、楽観論なのです。

でも、です。しかし、です。これまでは、こんな思考方法でも、いや、思考方法だから、それなりの経済力で、それなりに暮らし、それなりに健康で、それなりに平和で安全だったのです。

でも、でも、しかし、その事から、これからも、その路線が有効なのか? それは、まったくもって、とても、不透明?

そろそろ、そんないい加減で、曖昧な路線では、もう、ダメな時代に突入したのかも?

いゃ、これからも、いい加減で曖昧な路線が有効かも?

なかなか、非常に、ムズカシイ問題なのです。単純だはないのです。

それにしても暑い!


それでは、また。




コメント
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