歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

水戸藩は「維新の主役」だった!?

2007年05月16日 | 街の風景
昨日の続きです。

「弘道館」を後に、先ずは一旦、駅前に戻ることにしました。
弘道館前の通りです。右側の「白漆喰の塀」は「三の丸小学校」です。歩道も広くよく整備されています。


塀に沿って右に曲がります。


振り返ると、小学校の正門があり、「案内板」に「三の丸歴史ロード」の看板が見えます。この道を下ると駅前に出ます。


この「歴史ロード」は、かなり「お金」をかけて整備されています。「尊皇攘夷」の「本山」、水戸「弘道館」に繋がる通りですから、横文字カタカナ表記の「ロード」ではなく、ここは「三の丸歴史の道」が相応しいです。


駅前に出て、51号線を大洗方向に行って見ました。ここからは「未体験ゾーン」です。


ビル街が途切れる辺りで、「義公生誕の地」の看板を見つけました。看板の下には、「お城」と「義公」の像が建っています。

「義公」よりも、「高く大きな」お城の「模型」は邪魔ですし、デザインも造りも「情け無い」感じがします。はっきりと云います『お城は要りません!』


看板の「→」に従い「路地」を入ると、小さな「祠」がありました。
『な~んだ。これだけ!?』と云う感じのものです。



この説明文にもあるように、「黄門様」は、水戸の「不朽の傑人」であり、観光の主役です。

それにしては、この「生誕の地」は「扱い方」が「冷ややか」です。通りの「銅像」と「お城」で「予算」を使い果たしたようです。


少し勉強しました。

「光圀」は2代目(1661年 - 1690年)の藩主でした。

初代(1609年 - 1661年) は「家康」の「11男」の「頼房」です。光圀は頼房の3男です。

弘道館の創設者の「斉昭 」は9代目(1829年 - 1844年)になります。

11代目(1868年 - 1869年)が「最後」の藩主で、「斉昭」の「何と!18男」の「昭武」でした。

※斉昭は「勉学」だけではなく「他の方面」も「かなり励んだ」と言うよりも、「かなり過ぎ」ていたようで、その事で「幕府内部」でも「問題」になった人のようです。

徳川御三家の「水戸藩」ですが、一度も「将軍」を出していないのです。最後の将軍「慶喜(斉昭の七男)」も、一旦水戸藩を出て「一橋家」を継いだ後に将軍になっています。

「水戸徳川家」は「中央政界」では「認め」られなかったようです。その不満の「エネルギー」が「大日本史」の「編纂」に向かわせたのかも知れません。


        【偕楽園にある完成記念碑】

この「歴史書」は「光圀」の命(1657年)により着手して、1906年(明治39)完成しているのです。「しぶとい」です。

「大日本史」、「水戸学」、「尊皇思想」は、「幕藩体制」に「対立」するものと考えます。「公武合体論」を唱えても、内心、やはり、御三家でありながら、「水戸藩」は「幕府」を「快く」思っていなかったのでは?・・・・・・と、想像しています。

幕末から明治維新、それに絡む「水戸藩」の動き、これは「面白そう」です。

水戸は「いろいろ」ありそうです。勉強しょうかな?

続きは明日です。 
コメント
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