プラチナ世代のマラソン旅行

時悠人chosan流処世術

◆2003年ホノルルマラソン

2004-08-13 10:24:50 | スポーツ
2003年12月14日午前5時。号砲一発。花火が打ち上げられ、
25,000人を超えるランナーがゴール目指して走り出した。
 第26回ホノルルマラソンのスタートは、エールが飛び交い、花火をバックに記念写真に収まったりと、いつも変わらぬ楽しい光景だった。私には3回目のホノルルマラソンだったが、周囲のはなやいだ雰囲気とは異なり、一種の感慨に全身が震えていた。

 遡ること1年半前。2002年5月、旅先のブタペストで病気に倒れ入院。3週間後、車椅子で帰国し再入院。秋に手術し、2003年春まで運動禁止の身だった。4月以降、医師の許可がおり、リハビリを兼ねて動き出したが、左右の足の小指は麻痺したまま。両下肢には後遺症状が残り、屈伸運動さえ出来ない状態だった。トレッドミルでウオーキングから始め、徐々に軽めのジョグへとステップアップ。衰えた筋肉も少しずつ回復の兆しが見えてきたが、以前のような体に戻れない焦りから苛立つ日々を送っていた。

 7月7日。60歳の誕生日を迎えた。「還暦記念にホノルルを走ろう!」。決心するのにそう時間は掛からなかったが、主治医が許すはずもなかった。女房も勿論,呆れ顔。「医者には内緒だぞ」と釘をさし、12月に向けてトレーニング計画を練った。目標ができると心の張りもまったく違ってくる。レースまで6ヶ月間しかなかったが、「まだ6ヶ月もある」と自分に言い聞かせた。それでも、毎月通院する身。無理は禁物なので、週3日から4日間、距離は無関係に30分間、1時間とゆっくりジョグに努めた。

 もともと、54歳から走り始めた走歴5年余の遅咲きランナーだ。当初は、5分間走っても息切れし歩き出したものだ。「継続は力なり」とは、言い得て妙で、しだいに距離も延び、フルマラソンを走るまでになったのだ。「としをとっても筋肉は付く」ことを実感した。記録よりも楽しむことを重視しているアベレージランナーだから、とにかく完走を目指せばいいじゃないか。そう考えたら気が楽になり、大会までの時間があっという間に経過した感じだった。

 レースの道中は、予想以上に厳しかった。30キロ地点で恐れていた不安が現実になった。両膝にちぎれるような激痛がはしった。歩道に座りこみ、ストレッチ。痛い足を引きずりながら走りまた立ち止まる。これの繰り返しでゴールを目指す。いったん止めた足はなかなか思うように動いてくれない。最後の難関ダイアモンドヘッドは、歩くのも辛かったが、登りきったら残り2キロは下り。最後の気力をふりしぼりゴールイン。
 だが、いつもゴール時に味わう充実感は無かった。目標タイム5時間30分を8分ほど上回ったことではなく、途中、歩いたことが喜びを半減させたのだ。過去、10数回のフルマラソンで、どんなに遅くても、最後まで歩を止めないように心がけて来ただけに、完走出来なかったことが悔しかった。新たな挑戦が続く。
 


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。