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時悠人chosan流処世術

●メディアと世論形成の責任

2005-11-12 10:10:14 | 日記・エッセイ・コラム
 ブログの爆発的な普及に伴い、メディアの果たす役割が大きく変化して来ている。私のような年配者でさえ、自己表現の場として情報発信し始めてやがて1年以上経過した。ブログと出会うまでは、HTML言語辞書を横に、四苦八苦しながらホームページを作成していたことを振り返ると、実に便利なツールだと感謝している。

 マス&パーソナル・コミニュケーションを同時に実現出来るので、今後、ますます浸透していくに違いない。そうなると、個人が操作するメディアとしてのアイデンティティが求められる筈。ビジネス・ツールとして利用している多くのブロガーには、それなりの影響力があり、好ましくない予見を植えつけかねないと思われるものも散見される。

 情報はもはやステータスではなくなり、情報が持つ価値を解析する能力が求められる時代だけに、当然の潮流なのかも知れない。しかしながら、メディアが多様化すると、情報の信憑性よりもムードで世論が形成される危険性が懸念される。

 今回、ニュージーランドを旅行中、CNNニュースで目にした日本の情報は、唯一、セミナーのスポット広告だった。それは、「今のアジアを語る」と題して、あのライブドアの堀江社長が登場する企画。しかも、使用された映像は、先の衆院選で演説するシーンだった。彼が海外で活躍するのは多いに結構なことだが、何をどう語るのかが気になった。ITの申し子のようにサクセスストーリーを語るだけならまだしも、アジア全体を彼のスコープを通して決め付けられたのでは堪ったものではない。

 マスコミや学識経験者、評論家諸氏など、世論形成に与える影響度が強い人ほど、その言動には客観性が求められると思うのだが。


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