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魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-

 世界をスケッチ旅行してまわりたい絵描きの卵の備忘録と雑記

第四の鳥

2015-08-11 | 月影と星屑
 

 ポーランドの美術館で、私が一番気に入った画家が、スタニスワフ・ヴィスピャンスキ(Stanisław Wyspiański)。家族や友人、芸術家仲間など、近しい人々をモデルに、ソフトパステルで描いた肖像画が、どれもさり気なく、生き生きと躍動している。すげー、モロ好み!
 ……私、こんなふうな、線の力でぐいぐい描く絵が、一番好きなんだよね。そして、こういう力強い線描が最もその表現力を発揮するのが、人物画なんだ。

 ヴィスピャンスキは「ムウォダ・ポルスカ(若きポーランド)」運動において、ポーランドの歴史や伝統を象徴的に戯曲に取り入れて成功した、有名な劇作家。相棒のポーランド語会話の本にも、劇作家として紹介されていた。
 同時に詩人で、「三羽の鳥(Wieszcz)」と呼ばれるポーランドの三大ロマン派詩人(アダム・ミツキェヴィチ、ユリウス・スウォヴァツキ、ジグムント・クラシンスキ)に並ぶ、知られざる「第四の鳥」なんて評されている。

 クラクフで生まれ、クラクフで暮らし、クラクフで死んだヴィスピャンスキ。受け売りの略歴を記しておくと、父親はヴァヴェルの丘にアトリエを持つ、アルコール中毒の彫刻家。母親が病死すると、ヴィスピャンスキ少年はこの問題親から引っ剥がされて、叔母の養子として育てられる。
 叔母一家はブルジョアのインテリで、知的サロンよろしくこの家にたびたび訪れていたのが、かの国民的画家ヤン・マテイコ。ヴィスピャンスキ少年は、父親から受け継いだ才能を見抜いたマテイコによって、絵の手ほどきを受けた。

 分割支配され消滅したポーランドにあって、ヴィスピャンスキ少年はポーランド語で教育を受け、祖国の歴史と文学の知識を余すところなく獲得する。芸術と文学に等しく関心を持っていた彼は、大学で歴史を学ぶ一方、美術学校でデッサンを学ぶ。ここで、当時美術学校の学長だったマテイコの勧めで、聖マリア教会の内装に参加。
 広く諸国を旅行し、特にフランス滞在中には、ゴーギャンと知己を得、共に美術館を訪問する仲に。そこで出会ったシャヴァンヌの絵の虜になった。
 クラクフに戻ると、「ムウォダ・ポルスカ」のモダニズム運動の流れのなかで、フランシスカン教会の内装をデザイン。花と紋章の幾何学的モチーフを用いたアール・ヌーヴォーの様式で高い評価を得る。

 以上の一連の経緯から推して、ヴィスピャンスキはその後、マルチェフスキと並ぶ独自の内面世界を、絵画のビジョンで外界に放つことも、できたかも知れない。
 が、マルチタレントが災い(?)して、彼は油彩のタブローをあまり残さなかった。舞台デザインを手がけ、その舞台で自身の戯曲を上演し、やがてアカデミーで後進を育成する。
 時間がないと言うよりは、自身の世界をそちらで表現しきったのだろう。だが日常、身近な人々を愛で、慈しんで暮らしていた。だから彼らを熱心に描いた。

 画像は、ヴィスピャンスキ「ユジオ・フェルドマン」。
  スタニスワフ・ヴィスピャンスキ(Stanisław Wyspiański, 1869-1907, Polish)
 他、左から、
  「二重のエリザ・パレンスカ」
  「花を生けた花瓶と少女」
  「母性」
  「麦わらをかぶせたバラの木」
  「自画像」

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     Bear's Paw -絵画うんぬん-

怪異が寄り添う祖国を愛して

2015-08-10 | 月影と星屑
 

 ポーランド行きが決定した相棒、アウシュビッツからワルシャワへの帰途の旅程を組むのに中継都市を探しながら、
「チマルさん、マルチェフスキって画家、知ってる?」
 知ってるよ。ジョン・マルコビッチみたいなシルエットの頭した画家だよ。ベックリン風の、怪物な美女たちをはべらせた自画像、よく描いてるよ。
「ラドムはマルチェフスキの生誕地で、美術館があるんだって。チマルさん、ラドム行く?」
 行く、行く!

 ……でもまあ、マルチェフスキの絵は、その息子が第二次大戦前の時点で国立美術館にごっそり譲ったので、ラドムでなくてもいくらでも観ることができる。

 ポーランドでは19世紀未から20世紀初め、文学・音楽・美術などの分野で、「ムウォダ・ポルスカ(Młoda Polska、若きポーランド(Young Poland)の意)」と呼ばれる一大モダニズム芸術運動が巻き起こる。これは、西欧のモダニズムを汲みつつも、ポーランド分割という歴史背景を受けて高揚した民族的自覚を個性豊かに反映した、新ロマン主義の潮流。
 ポーランド絵画史において、ヤチェク・マルチェフスキ(Jacek Malczewski)はこの流れの中心に位置し、ポーランド象徴主義絵画の父とされる。

 象徴主義というのは、人間につきまとう観念や表象を具現化する。マルチェフスキの絵においても、死や運命、音楽や詩などが、あからさまな人間、概ね女性、の姿を取って、主人公に絡みつく。
 女性たちは一様にミュシャ的に美しく、八頭身以上のスタイルで、豊かな髪を結い上げ、ドレープたっぷりなのに体の線がはっきりと出る、裸に等しい衣装を着ている。ただし、背に翼が生えていたり、毛髪が蛇だったり、下半身が獣だったりという、怪しげな異形のさま。
 一方、主人公というのはおそらく画家本人で、細長い禿頭をし、これも細長い十頭身くらいの身体に凝った衣装を着込んでいる。髪が長ければ、その相貌はキリストに似る。この主人公が憂鬱に瞑想し、誘惑されて沈思黙考する。
 そして背景には明快な風景が広がる。画面は幻想と現実が交錯し、悲哀で甘美で、なぜか滑稽。

 ポーランド象徴派が美の理想とした観念や表象のうち、マルチェフスキが選り好んだモチーフは数少ない。彼は形を変えながら繰り返し、執拗に、ユーモラスに、それらモチーフを描き続ける。
 このモチーフたちは、祖国ポーランドの歴史的受難と独立への憧憬、伝統や民話そして自然に対する愛着なのだという。だからマルチェフスキの描く神話的、聖書的な世界は、虐げられたポーランドの寓意と隠喩なわけだ。

 帝政ロシアに支配されたポーランドに育ち、愛国的な社会活動家だった父から大いに影響されたマルチェフスキ。特に、ロシア支配への反乱、「十一月蜂起」に感化されたロマン文学は、マルチェフスキ少年のお気に入り。
 クラクフの美術学校の教室に出入りしながら絵を学び始め、翌年、かの国民画家ヤン・マテイコに認められて、正式に入学。マテイコから巨匠の技と、ロマンチックな愛国心とを学び取り、フランス留学もさっさと切り上げて、分割ポーランドへと舞い戻る。

 ギリシャ神話や聖書、古典文学などの多様な主題は、彼のなかでポーランドの民間伝承へと転換される。国際的に名声を得、定期的にパリやミュンヘン、ウィーンを訪問、イタリア、ギリシャ、トルコにも旅行、だがそこで触れた異国情緒は、祖国ポーランドのイメージを豊かにするにすぎない。
 こうして独特のイマジネーションが覚醒し、解き放たれる。マルチェフスキの世界は、一度眼にしたらもう間違えようがない。

 だが晩年にはビジョンを失い、美術アカデミー教授を務めたクラクフにて死去した。

 画像は、マルチェフスキ「復活」。
  ヤチェク・マルチェフスキ(Jacek Malczewski, 1858-1929. Polish)
 他、左から、
  「雲のなか」
  「牧歌」
  「キマイラの毒の井戸」
  「キリストとサマリアの女」
  「ポーランドのハムレット」

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美しきパリの孤独

2015-05-02 | 月影と星屑
 

 エドガー・ドガ(Edgar Degas)は、印象派の画家として括られるのが常だが、他の印象派たちとは随分と趣が異なる。

 陽光降り注ぐ空の下、風と大気に触れながら、移ろいゆく光と影を画布に描き留める。そんな印象派のレッテルを、ドガは嫌う。
 彼の関心は、もっと人工的な、小暗い光。戦争で視力を弱めた彼には、自然の光はまぶしすぎたのだろう。
 引きこもりには、引きこもりのまなざしというものがある。ドガはアトリエを出ず、知り尽くした対象を、熟考を重ねて、入念に描き出す。しかも斬新に大胆に、それでいてスナップショットのようにさりげなく、通りすがりに不用意に垣間見たような構図で。

 そんなふうに描けるのも、デッサンを愛していたからこそ。古典的な、正統的な、力強い輪郭線。もともと線描の力を信奉していたところが、新古典派の大家、老アングルから貰った言葉で、その方向は決定的となった。線を描け、記憶によってでもいい、自然を見ながらでもいい、とにかくたくさん線を描け。
 線の美しさというのは具象画ならではの魅力だ。画家は線で形を追い、それが造形となる。

 古典的な伝統手法を重んじつつ、けれどもドガ自身の関心は、都会の日常生活にあった。舞台や稽古場の踊り子たち、競馬場の馬と騎手、働く女や入浴する女。洒脱だが、うらぶれたパリの風俗。

 法律の勉強を放り出し、画家を志したドガを、芸術を愛好していた資産家の父親は、パトロンよろしく支援する。貴族的なムッシュ・パリジャンなドガは、洗練されたパリを好み、ボヘミアンの気風を毛嫌いする。そんなドガが親交を持ったのは、すでに名声を得た上流階級出身の若手画家、ブルジョア趣味芬々たるマネだった。
 内気で気難しく偏屈で、不器用で非社交的な、辛辣で冷笑的な皮肉屋のドガ。もともと全然違うスタイルだから当然なのだが、モネやルノワールとはやがて不仲になり、最後まで印象派として仲を取り持っていた長老ピサロとまで、彼がユダヤ人だからという理由で、ドレフュス事件以来決裂した、右翼的な反ユダヤ主義者のドガ。

 生涯、女性とは深刻な関わりを持たず、美しい女弟子、メアリー・カサットへの愛情も、恋愛とはならなかったという。そう言えば、ドガの描く女性はみんな、男性本意の視線を受けてはいるが、肉体に対する描き手の思い入れは、一切感じられない。ドガは現実の人間を描いたが、現実の人間を愛したわけではなく、描くことを愛したのだろう。

 父が死んでからは経済的に困窮し、ますます隠遁していく。晩年は視力も衰え、絵は描けない、金もない、友達もない、という不幸のなかで、憤怒や鬱を突発する。やがてアトリエを退去させられ、孤独な老人として死んでいった。

 ……こうしてみると、ドガって人格破綻者だな。でも、自分の信念で一貫した絵を描くんだから、立派だな。

 画像は、ドガ「エトワール」。
  エドガー・ドガ(Edgar Degas, 1834-1917, French)
 他、左から、
  「ダンス教室」
  「ポーズを取る踊り子」
  「アブサン」
  「アイロンをかける洗濯女たち」
  「浴後、身体を拭く女」

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貧しきプラハ

2015-02-18 | 月影と星屑
 

 昨春、くも膜下出血からまんまと生還した相棒は、今春こそはアウシュヴィッツに行くんだ、と意気込んでいる。で、その心の用意だと言って、図書館からナチス関連の本をわんさと借りてきて、読んでいる。で、私にもそれがまわってくる。
 そのなかの一冊、ローラン・ビネ「HHhH」。「ハイドリヒがやって来る、ハー、ハー、ハー」……なんちゃって、実際には、“Himmlers Hirn heißt Heydrich(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)”という意味で、ナチのユダヤ人虐殺の首謀者・責任者だったラインハルト・ハイドリヒの暗殺計画「類人猿作戦」の行方を書いたもの。私、今度猫を拾ったら、きっと「ガブチーク」って名前にすると思う。
 で、この本の舞台がプラハだったせいで、しばらくのあいだ、心がプラハに舞い戻っていた。

 プラハ駅に到着して、てくてく歩いて、ヴァーツラフ広場に出たとき、初めて一国の首都に来たーッ! と実感したものだ。
 チェコ史の節目に必ず登場するというヴァーツラフ広場。その名は、広場に設けられたヴァーツラフ像に由来するらしい。現在は、ヨゼフ・ミスルベクによるヴァーツラフ騎馬像がある。

 このヨゼフ・ミスルベクは、チェコ・リアリズムを代表する有名な彫刻家で、チェコ現代彫刻を創始したとされる。彼は、当時、彫刻部門のなかったプラハ・アカデミーで絵を学んでいる。のちに自らアカデミーで教鞭を取り、生涯のほとんどをプラハで過ごした。

 なので、国立美術館にあるミスルベクの絵は、この彫刻家ヨゼフの絵かと勝手に思っていたのだが、実際はその息子の絵だった。

 カレル・ミスルベク(Karel Myslbek)の絵が館内で眼についたのは、その類の絵が他になかったからだと思う。彼が描いたのは、貧しい人々の生活や労働という、いわゆる社会的リアリズム(social realism)が取り上げるテーマ。
 
 カレルが画家の道に進んだのは、父ヨゼフの希望に反したものらしい。カレルは言語学を学びつつ、偉大な父に隠れて、ほとんど秘密裏にアカデミーに通って画業を積んだ。
 19世紀末、デカダンに影響されながら、ボヘミア近代絵画の先駆者の一人ミロシュ・イラーネクとともに、田舎で制作する。おそらくこの頃には、印象派風の陽光あふれる明るい色彩で、チェコの田園風景を描いていたのだろう。

 が、その色彩は徐々に暗澹としたものになっていく。陰気で憂鬱な色彩が、色彩に劣らぬ意気消沈しそうなテーマを彩る。
 それらは、スペイン旅行の際にゴヤから影響を受けたものだという。カレルは当時の都市プラハを暗示する、虐げられた民衆の悲劇と不運、そして苦悩と絶望のエモーションを、モニュメンタルに深刻に描き出す。家で、街路で、仕事場で、誰に振り返られることもなく、隅のほうに追いやられ、見捨てられて死にゆく人々……

 真面目で繊細な人だったのだろう。自身、第一次大戦から受けた衝撃があまりに深く、苦悩と絶望に耐え抜けずに、45歳で自ら命を絶った。
 
 画像は、ミスルベク「建設現場での事故」。
  カレル・ミスルベク(Karel Myslbek, 1874-1915, Czech)
 他、左から、
  「流浪の民」
  「霊安室にて」
  「黒いピエロ」
  「物乞いたち」
  「闘牛」

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静穏な野獣

2015-01-27 | 月影と星屑
 
 
 サガン原作の「厚化粧の女」という映画に、マルケが描いたという贋作が出てきた。開け放たれた窓を背に、裸の女がこちらを向いて、両腕ごとテーブルに身体をもたせかけて座っている。といっても、その身体は両腕から上半身しか描かれていない。そして、背後の窓から、マルケらしいトロンとしたブルーの海が覗いている。
 マルケって、海やセーヌ川など水辺を描いた風景画が多いけれど、裸婦も結構描いているんだよね。おフランスな映画にはマルケチックな絵が似合う。

 アルベール・マルケ(Albert Marquet)は、野獣派(フォーヴィスム)に括られるフランスの画家。私、野獣派の画家ではマルケが一番好きなんだ。マルケのハズレな絵には、今まで一度も出会ったことがない。

 虚弱で内気、けれども自然が好き、絵も好きだったマルケ。母親は、実家の土地を売り払って金を作り、絵を学ばせるために彼をパリへと送り出す。モローの教室で同窓のマティスと出会い、終生の友となった。
 マティスと親しかったもんだから、官展に反撥的なサロン・ドートンヌ展にも出品し、一緒になって「フォーヴ(野獣)」と呼ばれて注目を集めることに。

 フォーヴィズムは、原色を多用した強烈な色彩が特徴だといわれる。確かに、短命だったフォーヴの時代、画家たちの絵には、マティスに影響されたらしい原色が、目立つっちゃあ目立つ。
 が、フォーヴの時代を過ぎてみると、画家たちの色彩はとても調和がよい。ドンゲンにしてもデュフィにしてもヴラマンクにしても、最もその画家らしい卓越した絵が、フォーヴを過ぎた時代に登場する。もともとフォーヴィズムというのは、色彩を、フォルムに従属させることなく、画家の主観的な感覚を表現する力として重んじるのだから、こうした画家各々の、舌を巻く色使いは、フォーヴの真骨頂なのかも知れない。

 で、マルケなのだが、野獣派にあって、初期からさほど野獣ではなく、穏やかで落ち着いた画風だった。それは、色彩は感情の表出だとされた、その感情そのものが、マルケの場合、穏やかで落ち着いていたからなように思う。

 原色のイメージがある野獣派のなかで、マルケの色彩は中間色。グレーがかったミルキーな青が、私のなかでのマルケ色。
 ニュアンスに富んだ柔らかな色調は、どちらかというと地味で、うっとりと淡いノスタルジーを感じさせる。画家が愛着する、いかにもフランスらしいパリの街路や港の情景は、人物も建物も、クロッキー的に、ほんの数えるほどのタッチで表現されている。マティスいわく、「フランスの北斎」。

 写実的でない分、説明的でなく、けれども写実泣かせの存在感、臨場感を持った、独特の詩情。マルケってやっぱり、稀有な画家。

 絵が売れるようになってからは、好んで旅をしたマルケだけれど、生涯、金にも名声にも関心がなく、贅沢もせず、絵については勤勉だった。
 生まれ持った余裕というものがあったんだろう。要するに、人間ができてたんだろうな。

 画像は、マルケ「ナポリ湾」。
  アルベール・マルケ(Albert Marquet, 1875-1947, French)
 他、左から、
  「サン=ミシェル橋」
  「パリのトリニテ広場」
  「マルセイユ港」
  「アルジェの風景」
  「赤いストッキング」

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