世紀末の閃光

 

 エゴン・シーレ(Egon Schiele)は、耽美と倒錯の世紀末ウィーンを駆け抜けた、画才溢れる夭折の画家。私にとっては、キショい(=気色悪い)もの見たさでつい見てしまう画家。

 神経質にうねる、ぎすぎすとした線描。あけすけで、攻撃的で、切羽詰まっていて、大声で叫んでいるような描写。身をよじってもがく、肉を削いだような屈折した人物像。
 これだけのデッサン力と表現力があれば、これだけのデフォルメが許される。これだけの赤裸々な性描写が許される。
 性への生々しい好奇心と渇望を表わす自画像。彼くらい自画像を描いた画家も珍しい。彼の自画像は露悪的で、強いナルシシズムが感じられはするが、自己顕示欲は不思議と感じない。
 いくらか病的で、美しくも醜くも見えるが、虚飾はない絵。

 外見はヨーロッパのジェームズ・ディーン。早熟でモダンで、内向的で感受性が強く、エゴイスト。多分、女性にはモテただろう。
 かのヒトラーが失敗し、ついには諦めたアカデミーの試験に、16歳で一発合格するが、そのアカデミズムを見限って退学し、早くから独自の世界と美意識を築いていった、クリムトの秘蔵っ子。

 そんな彼が取り憑かれたのは、生と死、そしてエロス。彼は大人になれなかった大人。どうも彼の生と死とエロスには、子供が持つような正直さと残酷さがある。

 彼の父は梅毒で精神を病み、後に狂死している。おそらく母にも感染していたのだろう、母は二人を死産し、長女(シーレにとっては長姉)も脳の病気で亡くしている。
 感受性の強い少年が、父親の狂気と死を目の当たりにする。姉妹のなかの一人息子として、母親との関係に息苦しいものを感じて育つ。自身のなかにも潜むはずの狂気に怯えて暮らす。

 彼が好んでモデルにした、美しい妹ゲルティへの、近親相姦を思わせる憧憬。アトリエに連れ込んでは服を脱がせ、誘拐罪で拘留されたこともあるほどの、多くの少女たちへの執着。
 クリムトから譲り受けた少女ヴァリと同棲しながら彼女を描き続け、けれども結婚する気はなく、エディットとの結婚を機に、これからの逢瀬を誘いつつヴァリを捨てた自己愛。

 ……やっぱり、絵を描ける人格破綻者の一人だったな、シーレ。

 あれだけ迫り来る死を怖れていたシーレだったが、身重の妻がスペイン風邪で死んだ3日後に、同じスペイン風邪で呆っ気なく死んでしまった。28歳の若さだった。

 画像は、シーレ「膝を折って座る女」。
  エゴン・シーレ(Egon Schiele, 1890-1918, Austrian)
 他、左から、
  「横たわる裸婦」
  「エロス」
  「画家の妻」
  「ひまわり」
  「青い川のなかの街」

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ミュシャ美術館

 
 先日プラハに行ったとき、国立美術館で時間を食いまくって、ミュシャ美術館に行けなかった。で、相棒にねだって、滞在を一日延ばしてもらったのだが、その夜中に気分が悪くなって、明け方には吐いてしまった。
 水分を全部吐いて、何を飲んでも飲んだ分だけ、一口飲めば一口分だけ、胃液と一緒に吐く。立っているのがつらいので、横になってめそめそしていると、相棒がからかった。
「きっと水に当たったんだよ。これじゃ、とてもミュシャはMucha(=ムチャ)だね。胸がMuchaMucha(=ムカムカ)してるうちは、おとなしく寝ていることだね。Muchachachacha(=ムハハハハ)」
 ……

 結局、少し寝た後、意を決してホテルを出、ベンチがあれば休み、教会があれば休んで、美術館まで歩いた。
 美術館は旧市街の目立たない一角の、白い建物。どどーんと大きくてたじろいだが、実際には一階部分だけが美術館で、しかも美術館というより博物館という展示内容。こじんまりしていて、絵は少なかった。おまけに、やけに日本人が多い。日本人はミーハーだからな……
 美術館のトイレでも何度か吐いて、座って休むために、一度観たドキュメンタリーを何度も繰り返し観て、スタッフ用の椅子に勝手に座り座りしながら館内をまわった。隅々までじっくり観たと言い切れるが、所要時間は2時間程度。

 チェコと言えばアルフォンス・ミュシャ、と謳い、そのミュシャのための美術館、と謳うのがこれじゃあ、物足りない。その代わり、ミュシャ・グッズを並べた併設のショップがかなり大きい。
 本場プラハでミュシャに触れたい、という願望のために用意された、観光客用のミュージアム、という感じ。
「また、セコいチェコ商法に引っかかってしまったねえ」と相棒が言う。「ま、いいか。本格的な美術館だったら、チマルさんぶっ倒れてただろうからね」

 それでも、モラヴィアチックな衣装を着た油彩画や、鉛筆やウォッシュの素描を観ることができたので、私としては文句はないんだけど。

 画像は、ミュシャ「ヒヤシンス姫」。
  アルフォンス・ミュシャ(Alphonse Mucha, 1860-1939, Czech)

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エゴン・シーレ・アートセンター

 
 チェコにある世界遺産の町チェスキー・クルムロフ。ウィーンの画家エゴン・シーレは、母親の故郷であるこの町を訪れ、アトリエを構えて制作に励んだ時期がある。

 ウィーンに程近いトゥルンに生まれ、ウィーンのアカデミーで学んだが、その保守的な教育方針に馴染むことができずに退学したシーレ。都会に嫌気が差し、チェスキー・クルムロフへとやって来て絵を描く。彼の描いたチェスキー・クルムロフの町は、決して美しくはない、ひなびた感じの何気ない日常の家並。
 が、シーレの絵があまりに卑猥だったため、チェスキー・クルムロフのほうはシーレを受け入れない。彼にとってはここも保守的だった。町から追い出されるようにウィーンに戻ったシーレは、この町を「死の町」と名づけている。

 で、今や世界遺産となったこの町には、シーレゆかりの地として、エゴン・シーレ・アートセンターなんてものがある。

 旧市街の端にある古いビール醸造所だったという建物がそれで、三階の建物が二つ、回廊でつながっている。が、このうちシーレに関するものは半分以下で、これには写真や手紙、シーレの使った家具、デスマスクなどの展示物まで含まれている。
 さて、当の絵はと言えば、ずらりと並んだチェスキー・クルムロフの油彩画らしいキャンバスはみな、一見して印刷物だし、キチンと木額に収められて並んでいる水彩画も、ガラス越しによくよく見ると、これもみな印刷物。

 シーレの絵は、センターの敷地とその付属物すべてを売り払っても、一枚も購入できないらしい。油彩がないのは仕方ないかも知れないが、あのシーレ独特の、伸びやかであけすけな人物画も、一切コピーだったと気づいたときには、かなりがっかりした。
 ホンモノは素描と版画数点。五指で収まる、多分。

「セコいチェコ商法に、まんまと引っかかってしまったねえ」と相棒がボヤく。
 観光客用のミュージアムだな、こりゃ。

 仕方がないからコピーをそれなりに鑑賞したが、身をよじり、もだえるような人物像たちは、見ていて不快になるくらい。陰部をこれでもかと露出した女性像などは、ポルノの商業的なグロテスクさとは異なる、人間の内側と外側を引っくり返したようなあからさまさが持つグロテスクさがある。
 私、女性の性器というのを自分のもよく見たことがないのだけれど、女性器はよく花に喩えられるように思っていたのだが、植物的どころかはるかに動物的だと、今回シーレの絵を見て感じた。

 とにかくウィーンかトゥルンか、そっちのほうに行かないと、シーレの絵をまとめて観ることはできないらしい。

 画像は、シーレ「朝のクルムロフの家並」。
  エゴン・シーレ(Egon Schiele, 1890-1918, Austrian)

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世界は世界へ弾け跳ぶ

 

 当たり前のことだが、ドイツの美術館にはドイツの画家の絵がたくさんある。最初はあれもこれもと、ヘトヘトになるまでゴチャゴチャに観るのだが、そのうちに自分のなかで体系立ってくる。画家の名前、その画家の画風なども、自然に憶わって(これ、名古屋弁)くる。
 で、相棒が最初に憶えたのが、コリントという画家だった。コリントの絵はそれくらい強烈なものがある。

 ロヴィス・コリント(Lovis Corinth)は、マックス・リーバーマン、マックス・スレーフォークトと並ぶ、ドイツ印象派を代表する画家。が、この人の絵は、印象派と呼ぶには落ち着かない。表現主義の先駆者ともされるが、むしろ表現主義そのものと言ってしまったほうが、すっきりする。
 彼の絵が印象派的な明るさを越えているのは、白色を多く使うからかも知れない。黒も平気で使う。しかも筆遣いが粗い。粗すぎる。やけくそのようにすら見える。総じて画面は、ぎらぎらと眩しい。

 解説によれば、コリントは、当時東プロイセン領だったタピアウ(現ロシア領グヴァルジェイスク)の生まれ。早くから絵の才能を見せ、ミュンヘンで絵を学んだ。
 この頃のミュンヘンは、パリに比肩するアバンギャルドの地。コリントは、バルビゾン派の流れを汲む自然主義絵画に共鳴していたが、パリから戻ってくると、さっさとアカデミーを見限り、分離派運動に参加。この時期は画家としてよりも、大酒飲みとして知られていたという。絵描きって一体……

 やがてベルリンへと移り、女性に門戸を開いた美術学校を設立。20歳以上年下の、その最初の生徒シャルロッテと結婚する。このあたり、カンディンスキーとミュンターを思い出すが、彼らはパートナーとしてうまくいったらしい。
 が、脳卒中で左半身不随に。

 けれども、妻の献身的な助力もあって、彼は一年経たずに右手で絵筆を取るようになる。以降、後半生、彼の絵はどんどん崩れていく。あるいは解き放たれていく。まるで脳味噌が壊れたように(って壊れたんだけど)、主情的とか激情的とかと形容される色遣いと筆遣いで、描く、描く、どんどん描く。

 コリントは終生、いろんな主題を描いた。ミューズである若妻らとの家庭の情景、彼らと暮らしたバイエルン・アルプスの麓のヴァルヘン湖畔の風景、聖書や神話、そして、毎年誕生日に自省のために描いたという、骸骨を連れたりヌードの奥さんを抱いたり、鎧を着たりした自画像。
 どれも奇態で荒々しく、けれども現実感がある。子供時代、未亡人の迷信深い伯母が好んで語った怪奇談が彼に育んだ、独特のイマジネーションと「デモニアック(demoniac)なユーモア」が現われている。

 こういうふうな絵を描く画家について私が一番に知りたいと思うのは、一体この人のなかには、どういう世界があったんだろう、ということ。この人の眼には、世界がどう映ったんだろう、ということではなくて。
 だから彼は、表現主義の画家と言ってしまったほうが、やっぱりすっきりする。

 画像は、コリント「ヨッホベルクの傾斜のあるヴァルヘン湖」。
  ロヴィス・コリント(Lovis Corinth, 1858-1925, German)
 他、左から、
  「ベルリン、ティーアガルテンの新池」
  「甲冑を着た老人」
  「ヴァッヘンゼー、新雪」
  「ヒエンソウ」
  「エッケ・ホモ」

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ムルナウの日々

 

 ドイツ表現主義のグループ「青騎士(Der Blaue Reiter)」の女流画家、ガブリエレ・ミュンター(Gabriele Münter)の夫がヤウレンスキーだと勝手に勘違いしていた私。カンディンスキーじゃないの? と最近相棒に指摘されて、確かめてみたらやっぱりカンディンスキーだった。
 つまりこの数年間、私は、ミュンターを自分の都合であっさり捨て去った不実の罪を、間違えてヤウレンスキーに押しつけていたわけ。ゴメンね、ヤウレンスキー。

 自由を愛する裕福な両親のもとで、乗馬やダンス、音楽を愛して育ち、やがて絵を学ぶようになったミュンター。後の彼女の絵に見られる伸びやかさ、心地よい諧調とリズムは、彼女生来のものだったと思う。
 両親の死をきっかけに、2年に渡るアメリカ外遊に出た後、ミュンヘンで絵の勉強を再開した彼女は、画塾「ファランクス」で、11歳年上のロシア人画家、ヴァシリー・カンディンスキーと出会う。師と教え子は次第に親しくなり、塾生たちに隠れて交際、やがて婚約へ……

 が、カンディンスキーにはモスクワから連れてきていたロシア人妻アーニャがいた。妻のもとを去った彼(それでも妻を訪れ続けるが)と共に、ミュンターは長い旅に出る。5年ものあいだ、制作を続けつつ転々と放浪する日々。
 やがて再びミュンヘンへと戻り、ミュンターは二人のためにムルナウに家を買う。「ロシア人館」と呼ばれたこの家で、以降、ミュンターはカンディンスキーとともに毎夏を過ごす。ヤウレンスキーやヴェレフキン、クレー、マルク、マッケらも集うようになり、カンディンスキーは、マルクとともに「青騎士」を結成。

 当初から師カンディンスキーの強烈な影響を受けていたミュンターだったが、ムルナウのガラス絵や木彫り像などの民俗工芸から霊感を得て、独特の、力強く鮮やかな色彩を用い始める。彼女の絵自体はあまり評価されていないのかも知れないけれど、私は昔っから好きだったんだ。
 そして今度はカンディンスキーが、ミュンターのそうした画風から学ぶようになる。

 が、第一次大戦が勃発すると、カンディンスキーはあっさり、故郷モスクワへと去ってゆく。再会を願ってスウェーデンで待ち続けるミュンターだが、カンディンスキーは会おうとしない。そして数年後、彼がロシア革命の渦中、27歳も年下のロシア人ニーナと再婚していたことを知る。
 失意のなか、ミュンターはミュンヘンへ戻る。カンディンスキーもまた、妻を連れてドイツへと戻るが、二度と再びミュンターに会うことはなかった。それどころか、絵筆の取れない彼女に、自分の作品を返せ、と弁護士を寄こす……

 結局は故国ロシアへと帰り、ロシア人妻へと帰ることが自分でもおそらく分かっていた、野蛮と精神美を併せ持つ“ロシア的”なカンディンスキーを、才走り、理屈っぽく、女の教え子に諭されるのをおそらく快しとしなかったカンディンスキーを、なぜミュンターはあんなに一途に愛したのだろう?

 再び伴侶を得て、共にナチス迫害からカンディンスキーの絵を守ったミュンター。が、あのムルナウの家で一人晩年を送ったと聞くと、長生きはしたくないな、と思ってしまう。

 画像は、ミュンター「鳥たちの朝食」。
  ガブリエレ・ミュンター(Gabriele Münter, 1877-1962, German)
 他、左から、
  「黒い仮面とバラ」
  「雪のなかのコッヘルの小屋」
  「人形を抱いた少女」
  「無題」
  「自画像」

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