色彩の宇宙

 
 

 プラハの国立美術館(ヴェレツジニー宮殿館)には、チェコの画家フランティシェク・クプカ(František Kupka)の絵が大量に展示されている。この人の絵は抽象画なのだが、抽象画を不得手なはずの私たち、時間を忘れて魅入る、魅入る! カンディンスキーとは大違い。
 おそらくクプカは色彩のことも、形態のことも、よく理解していたのだと思う。そして、彼独特の精神世界をはっきりと持っていたのだと思う。

 クプカは抽象絵画を描いた最初期の画家の一人。けれどもクプカのような抽象画は類を見ない。クプカの絵には生命の動きがある。時間の流れがある。カンディンスキーなんかよりもはるかに音楽性がある。
 カンディンスキーの絵は作り出されたものだが、クプカの絵は生まれ出たものだ。そういう感じがする。

 クプカは早くから超自然や心霊の世界に傾倒している。彼にとって美の追求は、霊的な異世界の追求の延長にあった。霊媒だった彼だから、交信するように画面に精神の世界を描き出そうとするのは当然のことだ。
 占星術や錬金術、秘教、オカルトにまでのめり込み、それらと同じものとして天文学や化学、光学、哲学をも極めようとする。初期に描かれた絵は寓意的、象徴的で、途方に暮れる迷宮のような幻想と神秘の空間。

 抽象化へと向かうともうあっという間で、現われたのは色彩を伴う形態の、あるいは形態を伴う色彩の乱舞。生命が細胞分裂するように色と形が発生し、不可逆的に変容していく。部分が緊密な連関を持ちながら全体を形作っていく。あるいは合理的な認識のように、直線と曲線が秩序正しく全体へと連続していく。
 自らの絵を色彩の交響曲と呼び、自らをその作曲家と呼んだ自負は侮れない。クプカ、凄。

 画像は、クプカ「活発な宇宙」。
  フランティシェク・クプカ(František Kupka, 1871-1957, Czech)
 他、左から、
  「生命の原理」
  「金銭」
  「大聖堂」
  「線、面、深み」
  「創生Ⅰ」

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花飾りの帽子の令嬢

 

 「青騎士」には二つのカップルがあった。一つはカンディンスキーとミュンター、もう一つはヤウレンスキーとヴェレフキン。前者の関係は分かりやすいのだけれど、後者の関係はよく分からない。 
 ヴェレフキンはヤウレンスキーの良きパトロンだった。これは確か。そして恋人でもあった。多分。

 マリアンネ・フォン・ヴェレフキン(Marianne von Werefkin)は裕福で教養豊かなロシア貴族の令嬢。父は将軍、母は画家。
 ヴェレフキンの画才に気づいた両親は絵のレッスンを受けさせ、後には巨匠レーピンに個人指導してもらえるよう計らった。
 狩猟の際に誤って自分で自分の利き手を撃ち、指をぶっ飛ばしてしまったヴェレフキン。不自由になった手を、長い長い時間をかけて粘り強くに訓練し、再び絵を描けるようになるまで回復させる。そう、この人には不撓不屈の意志があった。
 写実の腕は成熟を見せ、“ロシアのレンブラント”とまで評判されるように。

 こんな彼女が、師匠レーピンに紹介された弟子志願のヤウレンスキーに、救いようもなく魅了されてしまう。
 自分の画業をほっぽり出して、歳上の貧乏士官で画家卵ヤウレンスキーの、絵と生活の両面倒を看始める。父親が死ぬと早速、彼を連れて、当時ドイツ美術の拠点だったミュンヘンへと転居、二人の家はたちまち、世界中の芸術家たちの集うサロンとなる。

 ヴェレフキンは、ヤウレンスキーが女癖の悪い浮気男だということを、当初から承知していたという。が、彼女がミュンヘンに同伴したメイドのヘレーネに、彼が手をつけて、子供を産ませる結果に到ったのは、さすがにショックだったらしい。
 じきにヴェレフキンが十年来中断していた画業に復帰したのも、画家を支え画家に尽くす道ではなく、画家自身としての道を、再び歩もうとしたからのように思える。

 第一次大戦が勃発すると、ヴェレフキンはヤウレンスキーとその愛人・子供とを伴ってスイスに亡命。けれどもロシア革命以降、ヴェレフキンはヤウレンスキーに贅沢な生活を提供できなかった。
 やがてヤウレンスキーは新しいパトロンを見つけてドイツに戻り、ヘレーネと結婚することでヴェレフキンと離別した。

 ヴェレフキンはスイスに残った。マッジョーレ湖畔のアスコーナが、貧困の晩年、終生の住処だった。

 ああ、ヴェレフキン。淑女然としていないのに、いつも花飾りのついた帽子をかぶっているところが可愛らしい。名前もスナフキンに似ているところが好もしい。

 画像は、ヴェレフキン「秋(学校)」。
  マリアンネ・フォン・ヴェレフキン(Marianne von Werefkin, 1860-1938, Russian)
 他、左から、
  「青衣の女」
  「スケートをする人々」
  「ビアガーデン」
  「田舎道」
  「自画像」

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大きな顔しちゃって

 
 
 帰国の日、ドイツのヴィースバーデンにて、駅へ向かう途中、国立美術館に出くわした。前面にでかでかとヤウレンスキーの絵が掲げてある。
 ややっ、ヤウレンスキー先生! すかさず相棒が茶々を入れる。
「あ、チマルさんが無実の罪を着せてたヤウレンスキーだよ!」
 ……私、カンディンスキーとヤウレンスキー、それぞれ作品も略歴も間違いなくインプットしてるのに、ミュンターとのエピソードだけなぜか勘違いして、ミュンターを捨てたのはヤウレンスキーだと思い込んでいたんだよね。ま、どっちも似たり寄ったりだけど。

 ヴィースバーデンはヤウレンスキーが住んだ地。その日は空港に急いでいたし、どうせ月曜日なので休館だったのだが、こりゃ、罪滅ぼしにもう一度来なくちゃ、だな。

 ロシア出身の画家アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー(Alexej von Jawlensky)は、同じロシア人ということで、かのカンディンスキーとも交友があり、「青騎士」にも参加している。
 その美意識が自分にはどうしても分からない、という画家はたくさんいる。ヤウレンスキーもその一人。彼の絵を好きではないのか、と問われたら、「いや、そうでもない」と答えそう。なのに、彼の絵から何を感じるか、と問われたら、「さあ、よく分からん」と答えそう。そういう画家。

 ヤウレンスキーというのは、生涯ほぼ一貫して、人間の頭部(Kopf)を描き続けた。彼の人物画は、最初のうちはルオーの描線やマチスの色彩を思わせるものだったところが、だんだんに顔だけがクローズアップされていく。頭の上部も首許も収まり切らないほど、画面いっぱいになっていく。眼も鼻も口もフォルムはシンボル化され、それがますます抽象化されて、最後にはモアイ像のような、イコンのような、顔文字のような定型へと行き着く。
 彼がそんなにも顔ばかり描いたのが、どうした霊感やら天啓やらによるものなのか、私には分からない。単なる顔フェチだったのなら頷けるのだが……

 モスクワの士官学校に入学するが、余暇には絵を描き、トレチャコフ美術館に通って独学で絵の勉強。帝国士官になると、任地サンクトペテルブルクでアカデミーに通ってさらに勉強。
 巨匠レーピンの紹介で裕福な貴族の令嬢マリアンネ・フォン・ヴェレフキンを紹介され、弟子を志願する。

 なぜヴェレフキンがヤウレンスキーを受け入れたのか、よく分からない。とにかく以降、彼はこの女パトロンに絵と生活の両方の面倒を看てもらいつつ、行動を共にする。ミュンヘンに出、黙々と画業に勤しみ、やがてカンディンスキーらと親交を持ち、一時期はカンディンスキーの画風の模作を牽引、さらに「青騎士」に名を連ね、……云々。
 第一次大戦が勃発するとスイスに亡命、精力的に「顔画」を描く。その後、ヤウレンスキーは一人ドイツに戻り、ヴィースバーデンに居を構えて結婚。献身的なパトロンだったヴェレフキンと未練なく決別した。

 が、関節炎と麻痺が進行して思うように絵が描けず、ナチスによって「頽廃芸術」の烙印も押されて、ウィースバーデンでの彼はひっそりとしていた。ひっそりとしたまま死んでいった。

 画像は、ヤウレンスキー「女性の頭部」。
  アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー(Alexej von Jawlensky, 1865-1941, Russian)
 他、左から、
  「スペイン娘」
  「赤い帽子をかぶったショッコ」
  「彼と彼女」
  「驚愕」
  「抽象的頭部」

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動物たちの眼差し

 

 昨年の夏、山を見たいという相棒がドイツのバイエルン・アルプスに沿って旅行計画を立てた。そのなかに、コッヘル・アム・ゼーという小さな町があった。
「コッヘル? 聞いたことあるな。何だっけ?」
「しっかりしてよ、チマルさん。マルクの美術館に行きたいって言ってたでしょ」
 そうでした! コッヘルはフランツ・マルクが住んだ町で、マルク美術館がある。
 
 フランツ・マルク(Franz Marc)は「青騎士(Der Blaue Reiter)」のなかで最も好きな画家の一人。考えてみれば私、「青騎士」の絵って結構好きなのよね、カンディンスキー以外は。

 マルクはひたすら動物を描き続けた。物質主義社会で人間が失ってしまった精神。動物たちはそうした精神を体現した無垢な存在だ、と捉えたマルク。
 マルクの動物たちは平穏に暮らしている。けれどもそれは、人間がこうあれかしと望む牧歌的な平和はない。動物たちはどこか怯え、うろたえている。何か大きな力を前に、うなだれている。不穏で凶暴な存在に、身をすくませている。

 厳格で敬虔な家庭で育った、内気で感受性の強い少年。画家だった父からは絵の手ほどきを受け、母からは強い信仰心を教えられて、マルクは牧師になるために神学を学んでいたところが、突如、画家を志す。家族は大反対。成功するだけの才能なんてありそうにない、という冷たい言葉。
 で、この繊細な男マルクは、失敗への不安と恐怖、自己への不信に、絶えず鬱々と悩まされる。結婚式の夜、花嫁を置き去りにして逃亡してしまった、というエピソードも聞く。

 けれども精神を探求し続けた人というのは強い。マルクの動物たちは、彼の親愛の情の対象以上に、自然の守護者、自然の精神性と霊性の体現者として、彼のなかの真実を引き出して彼を導く汎神論的な存在だった。
 カンディンスキーとともに「青騎士」を結成、その年鑑の序文でマルクは、「芸術においては真実を愛する精神によって創り出されるものは常にすべて本物である」と述べている。

 青は男性的で精神的、黄は女性的で官能的、赤は物質的、……と、それぞれの色彩に象徴的意味を見出す独特の色彩哲学の上に描かれた、非写実的なきらめくような色彩の塊。主張のない線が繰り返され、有機的なリズムと動感を残してフォルムは埋葬される。
 死の苦痛が魂を堕落させることはない。死は破壊ではなく解放なのだから。……こうしてマルクは、精神絵画としての抽象絵画へと向かっていく。精神の調和に満ちた黙示録的な世界が現われる。

 その先にどんな絵の世界があったのだろう。第一次大戦が勃発すると、マルクは志願して従軍、戦死した。
 画家として活動したのはわずか10年。36歳の若さだった。

 画像は、マルク「小さな青い馬」。
  フランツ・マルク(Franz Marc, 1880-1916, Germany)
 他、左から、
  「馬の小品」
  「青い馬」
  「戯れる猫」
  「狐」
  「眠る馬」

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カレワラを描いた画家

 

 昔、亡き友人が、「どこか森と湖しかないところで何かに没頭できたら最高だろうな」と呟いたことがある。
 以来、私は森と湖の国を探している。ノルウェーあたりがそうなのだろうと勝手に思い込んでいたのだが、どうも世間では、森と湖の国と言うとフィンランドを指すらしい。

 フィンランドの画家アクセリ・ガッレン=カッレラ(Akseli Gallen-Kallela)はフィンランドの国民的画家。シベリウスが同国の民族叙事詩「カレワラ」を題材に作曲したように、ガッレン=カッレラも生涯、「カレワラ」の連作を描き続け、民族的アイデンティティを喚起した。

 私は「トゥオネラの白鳥」くらいしか知らないのだが、相棒はシベリウスのその手の曲を全部知っていて、自分のことを、武術・魔術ともに優れ、ハンサムで陽気で我儘な女たらしの神、レンミンカイネンだと思っている。
 読もう、読もうと思ってまだ読んでいない「カレワラ」だが、以前、図書館のリサイクル会場で児童版のものを見つけたので、つい持って帰ってきた。で、読まないでいるのを、あるとき突然、相棒がペロリと読んでしまった。さすがレンミンカイネン。

 子供の頃から絵の道に進もうと決めていたガッレン=カッレラは、反対していた父親が死んだ途端に画学へと転向。パリでは同郷の画家、アルベルト・エーデルフェルトとも親交を結んだ。
 妻とともにカレリア地方を旅行し、その頃から「カレワラ」のための取材を始める。「カレワラ」はもともと、カレリア各地に伝わる伝承を編んだもの。カレリアはフィンランド人にとって原風景であり、精神的な故郷なのだという。

 「カレワラ」のロマンチックな情景を描いていたガッレン=カッレラだったが、娘の病死をきっかけに、神々の戦いや復讐、死、等々へと絵のテーマが激化。パリ万博では、ロシアからの祖国独立を訴えるメッセージがはっきりと見て取れるフレスコ画を描いて、国際的な名声を決定的にした。1918年には自身、フィンランド内戦に参加している。

 彼はアフリカに行ってはそこの原始美術、アメリカに行ってはそこの原始美術に傾倒しかかるのだが、すぐに、フィンランドこそが我が霊感なのだ! とはたと気づいて、祖国へと帰っていく。
 ガッレン=カッレラに限ることではないが、祖国への誇り、その祖国が抑圧されることへの忍耐と悲憤には、物凄いものがある。

 画像は、ガッレン=カッレラ「巨大な黒キツツキ」。
  アクセリ・ガッレン=カッレラ(Akseli Gallen-Kallela, 1865–1931, Finnish)
 他、左から、
  「少年と鴉」
  「サンポの鍛造」
  「サンポの防衛」
  「レンミンカイネンの母」
  「カイスリッコ」

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