世界をスケッチ旅行してまわりたい絵描きの卵の備忘録と雑記
魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-
酒と煙草と絵と画塾
リュブリャナの国立美術館で、初めてアントン・アズベ(Anton Ažbe)の絵を観た。
実直な写実。絵に語らせる描写。アカデミックなだけではない生彩さと力強さがある。
アズベって、名前だけはよく見かけるんだよね。誰だったっけ?
……思い出してみると、彼がミュンヘンで開いていた画塾には、青騎士のカンディンスキーやヤウレンスキー、ヴェレフキン、芸術世界のペトロフ=ヴォトキン、グラバーリ、ドブジンスキーなど、当時のロシア人画家が一世代まるまるつめかけていたんだった。
アズベがスロヴェニアの画家だったとは、知らなかったな。
イヴァナ・コビルカと同じ時期の画家。が、絵画史においては、画家としてよりも教師として評価されていて、自身の絵はそれほど多くは残っていないのだという。
では、教師としてはどうだったかと言うと、その学び舎を巣立った新しい画家たちが、彼の思い出を、奇態なる出自、風貌、性向などを交えててんでに回想しているものだから、もう教師というよりも、得体の知れない謎の師匠。ちょっと調べてみた私なんかには、この画家、訳が分からない。
以下は受け売りなのだが、面白かったのでまとめておく。
シュコフィア・ロカ近くの農村で、農家に生まれた双子ちゃん。弟のアロイスは健常だったのに、アントンのほうは生まれつき手足が不自由だったという。父親が結核で死に、母親は気が狂ってしまって、幼くして孤児に。
脚は萎縮、背骨は歪曲したアントン少年は、農作業には不向きだろう、と商家に徒弟に出される。が、数年後にリュブリャナに出奔、そこで職業画家に出会って、絵を学ぶことに。
さらにウィーン、ミュンヘンのアカデミーで学び、肖像画で稼いでいたが、30歳のときにミュンヘンに画塾を設立。チェーンスモークがたたって咽喉癌で死ぬまでの13年間、鷹揚に生徒を受け入れた。
さてその生徒たちが証言した師匠の姿は、なんともはや……
まず、短脚短躯で細面なのに頭はでかい。酒ばかり飲んでいるものだから、広い額は一面、赤く脈打つ静脈の網目に覆われていて、顔まで赤く、老けている。栗色の髭をウィルヘルム2世風にきちんと手入れし、最高仕立ての黒服を着た名士と言われるかと思えば、みすぼらしくだらしのない格好の案山子とも言われる。
結婚にも家庭にも無縁で、家を持たずに画塾とパブとを、杖を突き突き行き来する。画塾のソファで生徒たちの絵に埋もれて眠り、あるいはパブで酔っ払って眠る。簡素な生活の内実がこれだ。
唯一の人間的なつながりは、双子の弟アロイスだったが、これも、アロイスの倹約家の細君が、アントンはタバコに火をつけるのにあまりにマッチを浪費しすぎるわ! と非難したことで、断たれてしまう。
自分を語らず、他人とも交わらず、もしかしたら中身は凡人だったのかも知れないのに、世間からは、常人には理解できない孤高の変人と見做されていた、孤独な画家。
これだけの生徒を輩出し、これだけのエピソードがあれば、コビルカと違って、制作を怠っても文句は言われないらしい。
画像は、「黒人女の肖像」。
アントン・アズベ(Anton Ažbe, 1862-1905, Slovene)
他、左から、
「半身の裸婦」
「少女の肖像」
「バイエルン男の肖像」
「村の聖歌隊」
「ハレム」
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