気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

データ消失

2008-12-31 12:46:35 | つれづれ
けさ、パソコンと立ち上げてみると、大事なデータが消失していました。
マイドキュメントが空っぽ。音楽も写真もメールソフトも見当たりません。
復元を試みましたが、今のところ、うまくいきません。

要するにまっさらなパソコンが、かなりくたびれた様子でここにあります。
このブログにかなりのものは残っていますが、やはり落胆しました。
また再出発です。

みなさま良いお年をお迎えください。


冬がきてゐる

2008-12-29 23:53:50 | きょうの一首
「もなか種 丸山商店」ひめやかに看板ありて冬がきてゐる
(小池光 或る日、われは 短歌1月号)

***********************

角川短歌1月号のうたい始め 新春四十五歌人競詠から。いかにも小池さんらしい歌。
もなか種は、和菓子のもなかの餡子のことだろう。それを作っている丸山商店は、ひっそりとしてしもた屋のような風情だ。頑固な主人としっかり者の奥さんと二人で守ってきた職人の店だろう。古びた看板がそっと掛けてある。周りもそんなに流行っていない理髪店や、喫茶店がほそぼそと営業している。空を見上げれば今にも雪が降りそうな気配だ。
冬が来ている歌としては、茂吉の「電車とまるここは青山三丁目染屋の紺に雪ふり消居り」を思い出す。どちらも固有名詞の効いている歌だ。


空晴れて

2008-12-24 23:30:07 | きょうの一首
舌の上に切手置くとき空晴れて昭和のにほひかなしくするも
(小池光 電柱のある風景 短歌研究1月号)

**********************

きょうは年賀状の仕上げに、たっぷりと切手をなめてしまった。70枚分。あすもあと何枚かなめる予定。スポンジを濡らして使えば清潔なのに、つい手近な自分の部品を利用してしまう。便利だ。昭和のころは、そんなに清潔に拘らずに、切手など平気でなめていたような気がする。私は昭和の人間だから、切手をなめるのも平気。小池さんもついなめているんだろう。そんな昭和の大雑把さを懐かしむこころ。「かなしく」は「悲しく」よりも「哀しく」か「愛しく」の意味だろう。三句目の「空晴れて」で、歌が明るく展開してゆく。

遠つ国へゆくエアメールにさくら咲く アラビア糊のほのかな甘み
(近藤かすみ)

今日の朝日歌壇

2008-12-22 12:28:52 | 朝日歌壇
一枚の絵から見えない手が伸びて引き込まれたある花の下ゆく
(吹田市 豊 英二)

4Bの芯やわらかく手先より気持ちほぐれて無防備な午後
(広島市 大堂洋子)

諦めてどこかに捨ててきた尻尾トカゲはうしろをふり向かずゆく
(館林市 阿部芳夫)

*********************

一首目。絵を見て引き込まれたことを「手が伸びて」という表現をして、歌が強くなった。結句でその絵が花の咲いている風景を描いたものだと、明かされるのも面白い。
二首目。無防備な午後をいうために、4Bの芯という具体を持ってきたのが手柄。読者を十分納得させる。
三首目。トカゲのことを詠いながら、実は作者自身の後悔や諦めを詠っている。作者は本当は後悔していて、ふり向かないトカゲを羨んでいるように読める。私はこんな悩みがあって後悔してます、と言わずにトカゲに仮託するのが、短歌らしい。トカゲのカタカナ表記も軽くてよい。

今週も、ホームレスの公田耕一さんの歌が載り、彼への返歌らしき作品も載った。朝日歌壇という場で、たくさんの人がつながっているのがわかる。
短歌の場は、ほかにもいくつもあって、目指すところが違うのか、好みの問題か、それぞれ微妙に評価が違っている気がする。私の目指すのは、どこだろうかと思いつつ、朝日歌壇も読む。ほかの場も読む。

拾ひたる唐楓の葉いちまいを手帖に挟む沙をぬぐひて
(近藤かすみ)

眠つてよいか  竹山広  つづき

2008-12-18 23:42:04 | つれづれ
死ぬときは死ぬとかならず言つてよと泣きゆきし妻しづかになりぬ

歩む日を疑はず妻が上げくれしズボンの裾のこの三センチ

くちなはがくねくねと泳ぎくるやうにひねりあげたる一首を仕舞ふ

出で合ひて一生連れ添ふ芸のなさ手の先触るる近さに寝ねて

被爆時刻のサイレンを聞く最後かと鳴り終るまで耳に納めつ

おそろしきことと思へや二十首の依頼を受諾する欲のあり

歌三首さらりとできて気分よし朝(あした)しつかり飯食ひたれば

(竹山広 眠つてよいか ながらみ書房)

* *********************************

八十八歳の夫に添うて看病をする奥様も、きっと八十歳を越えておられるのだろう。ダイヤモンド婚を迎えるということだから、結婚して六十年。お互いに感謝の気持ちがあるから、続くのだ。ズボンの裾あげの歌、病人に希望を持ってもらうことがいかに大事かよくわかる。私はこういうことを出来るだろうか。自信がない。
当然のことながら、歌を詠むことに支えられて、一日一日を大事に過ごしておられるのがわかる。歌に生かされることの尊さを感じる。

眠つてよいか  竹山広

2008-12-17 00:16:19 | つれづれ
一年に一、二度むすぶネクタイを結びをり渡世円満のため

朝刊の第一面に息つぎの口おしひらく金メダリスト

びつしりと空の羊ら寄り合へりよき死を死にしたましひのごと

崩れたる石塀の下五指ひらきゐし少年よ しやうがないことか

一瞬にして一都市は滅びんと知りておこなひき しやうがないことか

死んだあとのことなど知るか西遠くばら色の秀をかざしゆく雲

あな欲しと思ふすべてを置きて去るとき近づけり眠つてよいか

********************************

大正九年生まれ、今年八十八歳の竹山広の最新の第九歌集。あとがきによると、前歌集『空の空』を出してまもなく、脳に出血があり、さらに二ヵ月後、再出血という事態を招き、行動の自由を奪われたとある。ダイヤモンド婚を迎える奥さまの献身的な看病で、歌作を続けておられるが、ここで七首目に引用した結句「眠つてよいか」に今の思いは集約されているのだろう。どれもすんなり読める歌で、作者の思いが伝わってくる。
短歌人の同人で亡くなられた武田英男さんも竹山広のファンだったなとふと思い出した。

今日の朝日歌壇

2008-12-14 23:34:08 | 朝日歌壇
駅の裏文房具売る蛍雪堂ちいさき灯りともりて日暮れぬ
(豊中市 佐伯久光子)

まなかいにひとりごちつつキーをうつ夫の孤独を見ている孤独
(新発田市 和田 桃)

車椅子押せば押さるるままとなりこんなに素直な妻だったのか
(東京都 太田良作)

**************************

一首目。蛍雪堂という文房具店の名前がありそうでレトロでとてもいい。わたしが子供のころは、学校の前には必ず文房具店があったものだ。それは山口開新堂とか、大原文照堂などという名前だった。ガラスの引き戸を開けてはいると、ノートや鉛筆や消しゴムがところ狭しと並んでいて、わくわくする空間だった。日が暮れると店に灯りがついて、そこが浮き上がって見えるのだ。この歌でそんな文具店に呼び戻される感覚を持った。

二首目。下句に「孤独」が二度出てくるが、その性質はちがう。むつかしい表情をしてパソコンに向かっている夫はそんなに孤独ではないように思う。それを見ている妻の孤独の方が深い。しかしそれぞれがそれぞれのパソコンで、パートナーの知らぬ相手と心を通わせているということもあり得る。まあ夫婦は仲が良いことに越したことはないが、それぞれの趣味や仕事を尊重し、プライバシーには立ち入らないことが、結局円満の秘訣だと思う。見ぬもの清しの精神で。たまには焼き餅を焼いて欲しい気もしないでもないが、度を越して、干渉するのは勘弁して欲しい。

三首目。これも夫婦の歌。どちらかが病気になり、身体の不自由が出てきてはじめて相手にたいする感謝や思いやりが出てきたのだろう。だが、病気になってよれよれになる前に、一緒に旅行したり、楽しむことをしておかないと、急に仲良くなんて無理な話。妻も家庭全体のことを思えばこそ、口うるさくもなる。家庭を顧みない妻は、却って従順だ。これはけっこうコワイぞ・・・。

夢やはらかし

2008-12-14 00:59:30 | きょうの一首
さくら咲くその花影の水に研ぐ夢やはらかし朝(あした)の斧は
(前登志夫 霊異記)

*******************************

きょうは、現代歌人集会の総会にお邪魔して櫟原聰氏の講演「前登志夫の世界」を聴講させていただいた。
今年4月5日に亡くなられた前登志夫の作品については、短歌研究6月号でも追悼特集があったが、ゆっくり読めていなかった。きょうはヤママユの櫟原聰氏の講演を聴き、おぼろげながらも前登志夫の短歌の世界がわかりかけて来た気がする。
短歌以前に詩人でもあり、エッセイもたくさん書いておられる。吉野の山人という面が強調されるが、強い美意識をもって作歌して来られたのだろうと感じた。
きょうの一首にあげたこの歌の美しいこと。硬質な斧をこんなに夢のようにやわらかく綺麗に詠えるのだ。「夢やはらかし」という感受性に惹かれた。

栗鼠

2008-12-11 01:24:39 | きょうの一首
私の方がきっと正しい 証明をしたがる栗鼠のしっぽをつかむ
(細溝洋子 コントラバス)

***************************

何故ここで栗鼠が出てくるのかはわからない。場面もはっきりとはわからない。
想像するに、会議のような場面で、自分の意見を主張したいけれど、それをするといろいろ立場が悪くなるので、うやむやにした方があとあと都合がいいという場面ではないかと思う。栗鼠は勢いよくちょこまかと動くので、正論を主張したがる自分と重なる。しかし作者はオトナなので、栗鼠のしっぽをつかまえて正論を言わない。うやむやにしたまま我慢している。ここで栗鼠を出すところの諧謔が歌の肝であり、作者の優れた個性だ。「正しい」のあとの一字開けは必要。

今日の朝日歌壇

2008-12-08 22:52:22 | 朝日歌壇
(柔らかい時計)を持ちて炊き出しのカレーの列に二時間並ぶ
(ホームレス 公田耕一)

窓のない職場で一日暮れてゆく消化試合のような人生
(藤沢市 辻千穂)

焼きたてのフランスパンを胸に抱きゆっくり帰る黄落の径(みち)
(宇治市 山本明子)

******************************

一首目。まず住所がホームレスとなっていることに驚いた。名前もペンネームなのかもしれない。パーレンに囲まれた(柔らかい時計)は、皿のように見える。作者が生活している時間も、縛られることなく柔らかいのだろう。記号の使い方に、なかなかのテクニックを感じる。作者の名前や住所を含めて、何割が本当だろうと考えるのは下世話な読み方だろうか。
二首目。窓のない職場から、全体に閉塞感を感じさせる歌。消化試合のような人生とは、なんともさびしい。しかし作者はその合間に短歌を作っているのだ。仕事が人生すべてでもないし、そのあとが楽しみだということを実はわかっていて、こういう歌を作っているのではないか。そうであって欲しい。
三首目。こちらはささやかながら幸せそうな歌。数年前『黄落』をいう介護をテーマにした小説がベストセラーになった。黄落は、単に木の葉や果実が黄ばんで落ちるだけでなく、人生の後半という意味も想像させる。美しく紅葉または黄葉して散っていく木の葉に自らを重ねてしまうのは、私だけではなさそうだ。

あかあかとライトアップに照らされて紅葉散るまで咲かねばならず
(近藤かすみ)