気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

きのうの朝日歌壇

2006-11-28 19:21:09 | 朝日歌壇
「お前に短歌があってよかったな」逝く三日前の夫のつぶやき
(町田市 古賀公子)

あたたかな五キロの命抱きながら手はなぜ文字を書きたいのだろう
(鈴鹿市 長谷川光代)

人生の大き区切りと空が言う老眼鏡ついに購いし朝
(和泉市 長尾幹也)

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一首目。病床の夫が遺す妻に「短歌があってよかった」という図。たしかに短歌を続けていると、こころの支えになる。うちの夫は、妻である私に短歌でも水泳でもさせておかないと、うつ状態になるので、仕方ないと思っているようだ。あちらは働いてばっかり。こちらは趣味三昧。このバランスの悪さのツケが回ってきて、どえらいことになる日が来るのを、私は密かに恐れている。

二首目。何より大事な子どもを抱きながら、なんとなく空しかったり、子育ての責任の重さに押しつぶされそうになる気持ちがよくわかる。小さい子どものいる生活でしか出来ない歌を、少しずつでも書いていったら、きっと素晴らしいものになると思う。私は当時そんな思いつきが出来ず、編み物や洋裁に夢中だった。手づくり信仰のようなものもあって、子どものために役に立つことをしなければならないと強迫的に思っていた。

三首目。老眼鏡ですか。そうですね。そろそろ。三句目の「空が言う」というのがいいなあと思った。

画像は先日訪れた貴船神社。


君も雛罌粟

2006-11-23 22:36:30 | つれづれ
ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟われも雛罌粟
(与謝野晶子)

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鞍馬山に移築された与謝野晶子の書斎「冬柏亭」を訪れたとき、がらんとした和室の床の間に晶子の歌の掛軸があった。掛軸の字は晶子のものかどうかわからない。雛罌粟はコクリコとカタカナでわかりやすく書いてあった。
鞍馬山も、貴船も、そのほかあちこち「観光地」という風情で、そこに生活する人のナマの息使いが見えないように感じる。最近の京都はどこもここも・・・。京都人は息を潜めて、ほんまのことは言わへんわ・・・と思うているのかも知れない。


鞍馬の紅葉

2006-11-22 19:18:18 | つれづれ
なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな
(与謝野晶子)

遮那王が背くらべ石を山にみてわが心なほ明日を待つかな
(与謝野寛)

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きょうは、思うところあって、叡山電車(通称・叡電)に乗って小旅行。・・と言っても、うちは沿線なので、ほんのすぐそこ。
しかし、出町柳から来た電車は観光客で超満員。終点の鞍馬まで行って、山道を散策し、貴船に下りてあとはバスと電車を乗り継いで帰ってきた。
途中、与謝野寛、晶子夫妻の歌碑があり、晶子の書斎・冬柏(とうはく)亭もあった。紅葉が美しい。山道は木の根道と言って、でこぼこなので転ばないか非常に緊張しつつ、なんとか怪我もなく無事に帰宅。もっと歌を拾ってくる予定だったのだが、それはなかなか・・・


今日の朝日歌壇

2006-11-20 22:22:33 | 朝日歌壇
診察を待つ人なべて押し黙り音なきテレビの紅葉に見入る
(横浜市 斎藤悦)

朝な朝なコーヒー購う自販機の発する言葉も親しみて聞く
(日高市 国分道夫)

中年の女は突然年をとる茜の空に秋雲の浮く
(横浜市 滝妙子)

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一首目。病院の待合室でのよくある光景。テレビの映す自然の美しさがいつまでも続かないことを、患者は健康への不安を重ねて見ている。テレビの音がないのもより効果をあげている。
二首目。朝の習慣のようにおなじ自販機でコーヒーを買っていると、そのお決まりの声さえも親しく感じられた作者。コーヒーの自販機だとそう罪はないが、病院の自動支払機の「おだいじに」の音声に、わたしはまだ親しめないままだ。
三首目。真実を言いあてた恐ろしい上句である。もういまさらどうしたらいいんだろう。しかし世の中には、妖怪か魔女かと思うほど、年をとっていても綺麗な女の人がいるのである。くやしい。下句は何が来ても、上句のインパクトに合ってしまう気がする。


雨の日曜たそがれて

2006-11-19 17:15:23 | つれづれ
誇らしく黄金(こがね)に繁りし街路樹の銀杏伐られてあとの青空
(近藤かすみ)

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冷たい時雨が降っているので、特にどこへ出かけることもなく日曜を過ごす。
天気が良ければ、御所か宝ヶ池にでも行ったのになあ。
この時期、街路樹が盛んに茂るので、落ち葉になって交通の邪魔になる前に、市からトラックが来て、枝を伐採してしまう。これが始まるとほんとに冬が来るんだなあと感じる。

以前から、半分ほど読んでそのままになっていた小池光『街角の事物たち』を読了。
こんなに面白いのなら、もっと早く読めばよかった。借りている本をつい先に読んで、買ってしまった本は後回しになっていた。
もちろん、リズム考のところは、吉岡生夫氏のすすめもあって読んでいたが、あとのエッセイも面白かった。

ネットで調べると小池さんのエッセイで『短歌 物体のある風景』本阿弥書店というのもあるが、これは今手に入らない本のようだ。そうなるとますます読みたくなって来た。どなたか貸していただけたらありがたいのですが、虫のいい話しですね。
(画像は京都御所憩いの公園のサイトからお借りしました)



バグダッド燃ゆ 岡野弘彦歌集

2006-11-17 00:37:01 | つれづれ
日本人はもつと怒れと 若者に説きて むなしく 老いに至りぬ

地に深くひそみ戦ふ タリバンの少年兵を われは蔑(な)みせず

ひらひらと手をふりて笑う大統領。そのひと振りに 人多く死す

国敗れて 身をゆだねたるアメリカに いつまでも添ひて 世を狭めゆく

いとけなく 母に抱かれてありし日の 歯の疼きすら 恋しかりけり

(岡野弘彦 バグダッド燃ゆ 砂子屋書房)

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府立図書館で借りている岡野弘彦の歌集を読む。
大正13年生まれ。
鋭い社会批評の歌に若さを感じた。
歌の途中にある一字開けや句点の意味がわからないものもあるが、作者のクセなのだろうか。

甘味好き

2006-11-14 21:43:27 | つれづれ
居ても居なくてもいい人間は居なくてはならないのだと一喝したり
(奥村晃作 男の眼)

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いじめが原因の子どもの自殺が連鎖反応のように起きている。ニュースを見るたびに切なくて涙がこぼれる。
そして、ふとこの歌を思い出した。
今の世の中、どこかさみしくて、だれだって疲れている。人に甘えることは、相手の負担になると申し訳なく思ってしまうから?
言っても仕方のないことだから?
そんなとき、私は甘いものを食べる。甘いお菓子はたいてい心を休めてくれる。

短歌人会の久保寛容さんのHPでとうげ歌会が開かれている。月に二回のペースで、今回は五回目。
私は、初回のみ良かったものの、あとはさんざんの結果である。
でも、自分が絡んでないとさみしいから続けるだろうな。
今回は「街」というお題だった。

http://www.rak3.jp/home/user/tukikaede/


きのうの朝日歌壇

2006-11-13 21:25:11 | 朝日歌壇
誘えども趣味は仕事と自慢せし友が工場の閉鎖きょう聞く
(東京都 民辻善史郎)

オールこぎ終えし勝利の男らは声なきままに皆空を抱く
(秋田市 山田愁眠)

ひと朝の濃き紫をとじ込めて朝顔の種はぬばたまの黒
(枚方市 鍵山奈美江)

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一首目。内容がむだなくちゃんと詰められていて意味がきちんと伝わる。気の毒ではあるが、まだ過労死でないだけ救われる気がする。
二首目。ボートレースで勝つまで力を出し切った様子が表現されている。「空を抱く」にもロマンがある。
三首目。花は紫だったのに、たねは黒。ちゃんと分けないと、来年どれがどれかわからなくなる。それもまた楽しみか。

名歌をよむ

2006-11-11 22:29:51 | つれづれ
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
(正岡子規 竹の里歌)

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今日は、小池光の朝日カルチャー千里教室の日だった。
前半は、名歌をよむというテーマで、用意された資料にしたがって、名歌の鑑賞を聞いた。
なるほど・・。私はこの正岡子規の歌を、ずっと「びんにさす」だと思い込んでいた。
藤の花やたたみを歌った歌はほかにもあるだろうが、藤の花とたたみの隙間の空間に目をつけたところにこの歌の発見がある。これは病床にあってなお、俳句短歌に力を注いだ子規ならではの視点に因る。
後半は、お題「電池」の詠草の批評添削が行われた。
あと、いろいろ役に立つ面白いお話をきいたが、これは授業料はらってがんばって通ってるわれわれの特権で、内緒にしちゃおうかしらん。ふふふ。


きのうの朝日歌壇

2006-11-07 13:32:51 | 朝日歌壇
手を握り髪なでるまでに成長すうつつの姑(はは)に付き添う夫は
(宝塚市 寺本節子)

何もかも悲しかったと十歳がたった十歳が死を選びたり
(三島市 渕野里子)

総務課は十二階にありプリンタが始動するたびエビアン波立つ
(調布市 水上香葉)

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一首目。私にはよくわからない歌である。病気で夢うつつの状態にいる姑、つまり夫の母親を作者がふだんは介護していて、息子である夫は何もしない。それがやっと手を握り髪をなでるところまで出来るように成長したということか。大人になってしまった親子は体を触れ合うことなど、ほとんどなく、病気で弱ってはじめて相手の体に触れるというのは、まあまあわかる。親を介護したり、親の老いに向き合うことのなかった私は、こういう歌を読むと、なんとなく申し訳ない気持ちになってしまう。人の気持ちを理解できるほどの人並みの苦労をして来なかったことを、世間に申し訳なく思ってしまうのだ。
二首目。これはすんなり理解できる、こころを打つ歌。十歳が・・の繰り返しが歌を強くしている。
三首目。これは、なんとなくわかる歌。エビアンはペットボトルの水。

短歌人一月号の〆切の詠草、清書して投函。先日の関西短歌人会の歌会記の原稿も投函。ほっとした。
こうして、人さまから頼まれたこと自分でやろうと思っていることが、まあまあ順調にこなせていると、本当にありがたく幸せな気分になる。また、これがちゃんと続けられるだろうかという不安はいつもいつもある。