気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

モーパッサンの口髭 つづき

2008-01-31 00:40:17 | つれづれ
ユーモレスク流れる夜はビクターの犬もしずかに耳を澄ませる

シナトラの唄声きけば沁みてくる若樹でありし頃のアメリカ

ひっそりと螢のように口づけすモジリアーニとその恋人は

横たわる「裸のマハ」より一瞥の視線を受けぬ旅人われは

曲折なき日々の渚に聞こえくるサラ・ブライトマン群青の声

デージーを摘みて小さな瓶にさす遥か赤毛のアンのこころに

折れまがりヒースは茂る 寒々とE(エミリ)・ブロンテに生理痛あり

(木曽陽子 モーパッサンの口髭 砂子屋書房)

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木曽陽子さんは、大体小池光さんと同年代らしいので、私より数年お姉さまということになる。歌に出てくるカタカナの固有名詞は、昭和の時代の郷愁を誘うものだ。
一番新しいのが、サラ・ブライトマンでこれは平成。
E・ブロンテの歌は、短歌人誌で見たのだろうか。記憶に残っている。生理痛にインパクトがあった。嵐が丘を読んだ記憶はあるが、それは子供向けの全集の一冊で、抄編だったと思う。

歌集 モーパッサンの口髭 木曽陽子

2008-01-29 23:38:47 | つれづれ
淋しさを逃さぬように聴いている霙降る夜のチャイコフスキー

遥かなる眼差のまま倒されし巨像レーニンその後を知らず

ほの甘き果肉は旅情をくすぐれり巴里の朝に食む世紀末の梨

草原(くさはら)に一脚の椅子棄ててあればつくづく椅子というものを見き

サイモンとガーファンクルが聞こえきて水のようなる街の夕暮

教科書に見しモーパッサンの口髭が性のめざめと言わば言うべく

(木曽陽子 モーパッサンの口髭 砂子屋書房)

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新年歌会でお会いした木曽陽子さんの第一歌集を読む。
この『モーパッサンの口髭』は、第四回筑紫歌壇賞を受賞している。
旅行詠や美術館の歌、海外文学など、カタカナの固有名詞の入った歌が多い。おしゃれで上品な印象を受ける。ときおりお父さま、お母さまの歌があるが淡い歌。
一首目。淋しさというとマイナスのイメージだが、それさえも逃さないようにする感性の奥深さを感じる。
四首目の椅子の歌。棄てて在るからこそ人の目を引く椅子。
六首目。木曽さんは、永遠の文学少女なのだろうが、性のめざめも詠うところは、やはり大人。
教科書、モーパッサンという言葉があるので、いやらしさがない。


今日の朝日歌壇

2008-01-28 19:48:07 | 朝日歌壇
着ながしの会津八一の憩いいし佐久間古書店ついに店を閉ず
(新潟市 山田昭義)

帰省して語尾にうつりし方言のなくなる前に日常は来る
(高槻市 有田里絵)

母の字で播き時書きし花の種まかれざるまま十三回忌過ぐ
(福山市 武暁)

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一首目。新潟は会津八一のゆかりの地。去年の夏、新潟市を訪れたとき、会津八一のことについて講演を聴いた。当時にしては体格の大きい人だったらしい。佐久間古書店という具体名が生きている。
二首目。お正月に帰省して一時方言に戻っても、また日常に戻ると方言を忘れてしまう。故郷の方言に浸る間もなく、帰省の終わるさみしさ。
私の場合、帰省する子を迎えはするが、自分自身帰省するところはない。それもまたさみしいものだ。
三首目。十三回忌にお母様の家から、古い種が出て来た。子供たちはそれぞれいそがしく、その種を播いて花を咲かせる余裕がないのだろう。
母の字(筆跡)と残された種に出会った作者の切なさが伝わってきた。

あの世へは持つてゆけない本棚の蔵書はこの世の道しるべなり
(近藤かすみ)

今日の朝日歌壇

2008-01-21 22:18:28 | 朝日歌壇
フランス語講師の喋る度(たび)ゆれる銀色の樅の木のイヤリング
(藤沢市 大塚繭子)

赤き実は鵯上戸(ひよどりじょうご)烏瓜蔓梅擬(つるうめもど)き 初雪の峡
(千曲市 松林のり子)

歪なる経済大国日本は社会も人も不機嫌に見ゆ
(大和市 水口伸生)

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今日は大寒。雪はまだ降らないけれど、風が冷たく凍てるような寒さだ。

一首目。リズムが良くおしゃれな歌。作者のお名前もお洒落。
二首目。赤い実の植物を並べただけでも、結句の初雪から白と赤の色の対比が想像できて美しい。
三首目。生活の実感のある歌。だれもが「自分は損をしている気がする」と思っているのじゃないだろうか。明らかになるべきことが曖昧だから、幸福も不幸もよく見えないような気がする。

画像は鵯上戸(ひよどりじょうご)。季節の花300さまのサイトからお借りしています。

街路樹はこずゑの先まで飾られて光の粒をふるふる揺らす
(近藤かすみ)

花柄 魚村晋太郎 つづき

2008-01-19 01:02:25 | つれづれ
うつむいて時雨のなかに火をつくるひとてのひらで火をまもりつつ

これ以上くづしたら誤字になりさうな具合に偏と旁 抱きあふ

届かない手紙のやうにカムチャッカより来て橋にまふ百合鷗

殺されて眼のうつくしいさかなたち錦小路を烏丸はぬける

もうあれは終つたんだと夢のやうな花柄のシャツ着て俺が言ふ

消えるのが正しいのかも知れなくてデッキに銀の受話器をたたむ

コピー機にひかりはうごく約束をしたつてきつとまもれないけど

死ぬひとと死なないひとがゐるやうな気がする鴨脚樹(いちやう)並木ゆくとき

自転車でゆけない場所とゆける場所へだててあさの虹は出てゐる

(魚村晋太郎 花柄 砂子屋書房)

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歌集の題『花柄』は、5首目の夢のやうなシャツから取られたのだろう。以前金魚?の柄のアロハを着ておられるのを見たことがある。どこかの歌会でご一緒したときの詠草で記憶のある歌に出会うと、ふと嬉しくなる。終わりの二首は歌のつくりが似ているが、後半にひとひねりあって、なかなかこういう風にはうまく出来ないものだ。上句と下句の微妙な距離の巧みさ。道具立てのセンスが良い。


花柄 魚村晋太郎

2008-01-17 23:21:28 | つれづれ
空に近い枝の方から色づいて鴨脚樹(いちやう)は冬に傾ける耳

仙人掌はねむらないのと言ひながら小さな鉢を窓辺にはこぶ

台風の近づく午後を落ち合つて雨のはじまるまへに別れる

忘れるのと思ひ出さなくなることのあはひをわたる色鳥の声

手放してから諦めるまでの日日 鉄路は雨に濡れて交はる

おわかれを言つて別れたことがないガム嚙みて手にあます銀紙

一緒に来た瓦斯が別別の穴を出て湯をそそのかすやうに春の夜

(魚村晋太郎 花柄 砂子屋書房)

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魚村晋太郎第二歌集『花柄』を読む。まずは前半から好きな歌。
旧仮名でありながら、口語表現が多くやわらかい。何かと何かの間のもやもやした感情を歌っている作品に引かれた。歌のなかに出てくる具体もおもしろい。
なんとなく歌に艶というか色気がある。


獨孤意尚吟  清水房雄 

2008-01-16 20:01:04 | つれづれ
人類の運命などは思ふ無し朝の散歩のただのろのろと

老心をゆさぶりたてて詠まむとす今日注文の新作二十首

老いて得る心安らぎなど有る筈なし苛立ち傷つき来る日も来る日も

九十まで生きよと言ひ来し子の一人あと三年と気づかぬらしく

ださいたまには仮名書きがよく似合ふしてやつたりな彼のお歴々

すべて具象は抽象をめざすといふ一句ばさりと巻を伏せて立ちたり

在るものを在るがまま言ふ倦怠に耐へざるものは去りゆきたり

すぐ前に近づける死を歌はむか歌はむか人笑はば笑へ

(清水房雄 獨孤意尚吟 不識書院)

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清水房雄の第十一歌集を読む。アララギを経て、青南編集委員。
この歌集のとき、八十代後半だが、大正4年生れでいまや九十二歳か。歌集もあと二冊出ている。わかりやすくて気持ちにすんなり落ち着くのが良い。アララギの気概を感じる。


きのうの朝日歌壇

2008-01-15 01:32:29 | 朝日歌壇
除雪機の油拭かむと古シャツを裂けば夏日の汗が匂いぬ
(群馬県 眞庭義夫)

石蕗(つわ)の花やさしき路地に心和(な)ぐイルミネーションの街歩み来て
(東京都 柴田佳美)

「みぎいせみちひだりなら道」伊賀越えの鍵屋の辻にたつ道標
(名張市 山縣みさを)

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一首目。四季のあるこの国で、自然を相手に働く人の汗の尊さを感じさせる歌。ご苦労様と言いたくなった。
二首目。クリスマスのイルミネーションを年があけても、そのまま点けている場所が多い。華やかさはもちろん良いのだが、路地に入って大人しそうな石蕗の花にほっとするという気持ちはよくわかる。
三首目。名張市にお住まいの作者の近くに、実際にそのような道標があるのだろう。その土地ならではの歴史や暮らしが感じられる。伊賀の忍者が活躍しそうな場面で鍵屋というのも面白い。

日の暮れて帰り来たれば夫をらず留守電にその声のみ残る
(近藤かすみ)

歩く 河野裕子歌集

2008-01-11 01:13:57 | つれづれ
さびしさよこの世のほかの世を知らず夜の駅舎に雪を見てをり

枯れ切れぬこの梅の木の半身が今年も咲かすしらうめの花

小さき鍵は大きな秘密を守るため帽子箱のやうなものに隠す

ひき出しの中はぼんやり梅月夜 うちの子がまだ子供だつた頃の

滾る湯に菠薐草を放ちたりわつと噴きくるヨモツヒラサカ

(河野裕子 歩く 青磁社)

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河野裕子の歌集を再読した。この時期、大病をされ心細くなっておられたのがわかる。この歌集の歌が読まれた時期の裕子さんといまの私は同年代。子供はおとなになって離れてゆき、身体に弱い部分もあらわれてくる。ご近所でときどき姿を見かけることもあり、偉い歌人さんなのに身近な存在に感じられた。


家長 小高賢

2008-01-09 00:48:35 | つれづれ
はげまして書類に見入るイトーキの椅子に支える一日長し

われに出来子規果たせざるものは何五月闇なる真夜に腕くむ

勤務(つとめ)より帰りし部屋を充たしたる酸ゆき蜜柑の香は浄かりき

息かけて眼鏡の玉をティッシュとううすき時世の紙にて磨く

鴎外の口ひげにみる不機嫌な明治の家長はわれらにとおき

夕餉おえ子は王と化しファミコンの地球を救う闘いに赴(ゆ)く

暴力は家族の骨子-子を打ちて妻を怒鳴りて日日を統べいる

(小高賢 家長)

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小高賢作品集を少しずつ読んでいる。『家長』は第二歌集。サラリーマン(編集者)として働く哀感を詠った歌に共感できた。
歌集の題にもなった鴎外の口ひげの歌は、特に有名。
しかし、七首目に取り上げた暴力の歌は、いただけない。フィクションとして詠んだ歌なのか、本心なのかわからないが、私にはこれを歌集に載せるという神経が理解できない。何か深い思惑があってのことだろうか。