気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

今日の朝日歌壇

2011-02-28 19:54:59 | 朝日歌壇
おひなさまもうお訣れでございます人形み寺に納めまゐらす
(福井市 甘蔗得子)

わが裡の鬼は遣らはず住まはせて生き難き世の味方とはせむ
(仙台市 坂本捷子)

南中のオリオンの星巡り来て地は密やかに春の息吹す
(高松市 桑内繭)

*******************************

一首目。おひなさまとの訣れ(わかれ)とは悲しい。上句の口語のやわらかい語りかけから、下句の尊敬を込めた文語の言いまわしが、バランスよく収まっていて、内容も涙を誘う。
二首目。わが裡の鬼とはなんだろう。憎しみや嫉妬心だろうか。これを追い払うのではなく裡に秘めて、エネルギーとしようという作者の心意気を感じた。
三首目。天と地を歌った大きな景のうた。時期が来れば、ひそやかに春はやってくる。時期は天の星に統べられているから。

石田比呂志さん ご逝去

2011-02-24 23:32:10 | つれづれ
売れ残りいる店頭の鮟鱇のなかの一尾が仏相を帯ぶ
(石田比呂志 邯鄲線)

******************************

石田比呂志さんが亡くなられた。ちょうど歌集『邯鄲線』を読んでいたところ。
謹んでご冥福をお祈りします。

http://mainichi.jp/select/person/news/20110225k0000m060059000c.html


今日の朝日歌壇

2011-02-21 22:02:10 | 朝日歌壇
言の葉にひそむ情緒をさりげなく削ぎてテレビにテロップ流る
(ひたちなか市 篠原克彦)

高く行く雲と低きを行く雲と交はるときし相触れざりき
(熊本市 高添美津雄)

如月の人形町は吹雪の中幾百の雛皆笑み給ふ
(北本市 郷玲子)

*******************************

一首目。テレビのテロップはニュースを伝えるのだから、情緒は要らない。事実のみを簡潔に伝えるのがよい。短歌を作るときも、情緒たっぷりというのは閉口する。テレビのテロップを見習って、丁度良いくらいではないかと思う。
二首目。選者の永田氏も言っておられるようにリズムが緊密。定型ぴったりに収まっている歌だ。「交はるときし」の「し」がリズムを整えて効いている。雲という自然のものを詠いながら、人間のことを思わせるところが巧みだ。
三首目。情景だけを詠みながら、背景にさまざまなことを感じさせる歌。「笑み給ふ」で、作者の雛人形への尊敬の気持ちがわかる。ただ漢字が多すぎる気がするので、どこかひらがなに出来るところは、ひらがなにしたらどうかと思った。

葦舟  河野裕子  つづき 

2011-02-19 00:55:14 | つれづれ
その身体ひき受けてあげようと言ふ人はひとりもあらず たんぽぽ、ぽつぽ

残すほどの何があらうかこんなにも短い一生は駅間(えきま)の時間

乗り継ぎの電車待つ間の時間ほどのこの世の時間にゆき会ひし君

青葉梟(あをばづく)ほつほーほつほーと鳴く夜に紙に現れる歌を待ちゐる

笑ひ事ぢやないから笑ふほかなくて三分咲きの桜見にゆかうぢやないの

てのひらに木苺ほろろ母のうへに草かんむりの木苺ほろろ

さやうなら きれいな言葉だ雨の間(ま)のメヒシバの茎を風が梳きゆく

誰からも静かに離れてゆきし舟 死にたる母を葦舟と思ふ

しやうもないから泣くのは今は止(や)めておこ 全天秋の夕焼となる

(河野裕子 葦舟 角川書店)

*******************************

河野裕子の晩年の歌の特徴は、自然体ということだろうか。力が抜けているような感じ。
初期の作品とは違ってきている。オノマトペは、ずっと多い。
毎日毎日、たくさん作られたのだろう。



葦舟  河野裕子 

2011-02-16 18:10:40 | つれづれ
あなたには何から話さうタカサブラウ月が出るにはまだ少しある

終点まで乗りてゆかうと君が言ふああいいよ他に誰も居ない

ひとごとのやうにその日も晴れてゐて父は死んだと聞かされたのだつた

わたしらはもののはづみに出会(でお)うたよあんなに黄色い待宵の花

どの人も一度は泣いたに違ひない一様にしづかな眼を眼の奥に収(しま)ふ

ごはんを炊く 誰かのために死ぬ日までごはんを炊けるわたしでゐたい

誰からも遠くに居たいと地下鉄のベンチで電車二本やり過す

慰めも励ましも要らぬもう少し生きて一寸(ちよつと)はましな歌人になるか

ありがたうの「あ」の口の形わたしらに母が最期の挨拶なりき

(河野裕子 葦舟 角川書店)

***************************************

河野裕子の最後の歌集『葦舟』を読む。三度目くらいかもしれない。

あとがきには「五十年ほど歌を作ってきてほんとうに良かったと、このごろしみじみ思う。・・・わたしの人生に於いて何ひとつ悔いるものは無い」とあるが、やはり切ない。
生の声をそのまま投げ出したように見える歌もあり、さすがに巧みだと思わせる歌もあり、読み返してこちらもしみじみした気持ちにさせられる。

今日の朝日歌壇

2011-02-13 19:38:02 | 朝日歌壇
可愛さも可愛くなさも引き受けて日々少しずつ親になりゆく
(東京都 田中彩子)

鬱鬱と枯葉の始末する我に話を聞くよと寄り来る鶲(ひたき)
(佐伯市 西名靖子)

地ふぶきの荒ぶ尻屋崎(しりや)の寒立馬(かんだちめ)よりあひて草を食む五六頭
(相模原市 松並善光)

**************************************

一首目。母親になって日の浅い作者だろう。赤ちゃんは可愛いときもあれば、手がかかって煩わしく思えるときもある。それは一日中そばに居て世話をする立場でないとわからない。「引き受けて」がまことに言いえていると思った。
二首目。初句の鬱鬱の字画の多さで鬱陶しさが伝わってくる。しかし作者がやらないと誰も助けてはくれない。せめてもの慰めは鳥の声であったことを、詩的に詠っている。
三首目。尻屋崎(しりや)の寒立馬(かんだちめ)は、本州最北東端の地である尻屋崎とそこに生息する馬のこと。「地ふぶき」「荒ぶ」「寒」の字が自然の厳しさを伝えている。「よりあひて」で生き物の温みがわかる。

短歌人2月号 同人のうた その3

2011-02-10 16:36:22 | 短歌人同人のうた
あまくさのうるめ鰯の叫ぶ口 体を揃へひらきゐる口
(三井ゆき)

つきつめて思うほどのことでなし時雨れる夜を煮込む大根
(藤澤正子)

いつの日の桜かひとつ褪せたるが『兄国(えくに)』の鳥羽の頁より出づ
(春畑茜)

懐かしき人に会えそうな予感してあてどなく行く故郷の大丸
(栗明純生)

銀舎利に白子干(しらすぼし)のせ掻きこむをわれは至上のよろこびとして
(榊原敦子)

黄葉のともるゆふべや 短詩型文学なべて後悔のごと
(菊池孝彦)

いつよりか「さざんかする」という言葉使われいるを疎ましく聞く
(林悠子)

「落葉」と書きつつふいにうかびくる「落陽」吉田拓郎の声
(庭野摩里)

窓おおうレースの襞をふかくするうつろいやすき秋の光彩
(木曽陽子)

いひぎりの房実は高き梢まで多(さは)なりその色さにづらふ赤
(蒔田さくら子)

夢占の卦は何ならん紅白の蒲鉾抱えバスに乗る夢
(藤原龍一郎)

*********************************

短歌人2月号同人1欄より。

画像はいいぎり。季節の花300のサイトよりお借りしています。

今日の朝日歌壇

2011-02-07 17:55:23 | 朝日歌壇
参道のけやき落葉を踏みゆくに桜木下は桜の落葉
(ひたちなか市 篠原克彦)

寒林にひとりフルート吹いてみる定年近き過去の少年
(島田市 小田部雄次)

岸近き真鴨の群れにパンをやる五歳は小(ち)さき鴨を選りつつ
(堺市 丸野幸子)

*********************************

一首目。けやきの木の下にはけやきの落葉、桜の木の下には桜の落葉。当たり前のことなのに、心を惹かれる歌になっている。気持ちが安らかになる。
二首目。下句にとても惹かれる。いくつになっても少年のこころはそのまま。少年のころにフルートを習っていたのなら、またやりなおせばいい。ある年齢以上になって読み返すと本にも違う感想が生まれるように、フルートの音色も深くなるだろう。
三首目。こういうことって「ある」と感じさせる。自分と似た立場の小さい鴨は、大きい鴨に餌を取られてしまうから、わざわざ小さい鴨にえさをやるやさしさ、労わる気持ち。五歳の具体が効いている。

おじさん IN インドネシア そしてそれから 太田裕万歌集

2011-02-04 00:57:12 | つれづれ
日本語を話すことなく日は暮れて大山椒魚になってしまおう

安全は努力要るべし 終日を鉄板入りの革靴を履く

子のバイク二千円にて引き取られ海の向こうへ働きに行く

激流に棹さすように行くホーム2004年の転勤初日

十二支の端に並んで招き猫ごくごくまれにちゃりんと音する

納豆を賞味期限の過ぎて食う三つのひとついつもそうなる

もうすぐに六十歳になるからに古いかばんも磨いて使う

シュレッダーされし情報小分けして緩衝材に最適となる

そう君はいつも正しいくやしくてこっそりしている朝のスクワット

朝もみて帰りも見たる一円をホームに拾うにぶき白さを

いっぱいの鴨南蛮にほころんで 誰もおらねばスキップしたり

同行の人はときおり父であり義父でもありて祖父母でもある

(太田裕万 おじさんIN インドネシア そしてそれから  ながらみ書房)

***********************************

心の花の太田裕万(ひろかず)さんの第一歌集を読む。
太田さんとは某歌会でほぼ毎月ご一緒している。一見、ゴンチチのゴンザレス三上風の方で、よくお仕事で東南アジアに行っておられることは知っていたが、歌集の後ろの略歴を読んではじめて太田さんのことがよくわかった。

一首目の下句の跳び方は稔典先生の影響だろうか。面白い。
五首目、十二支の端になぜ招き猫がいるのか不思議だが、妙なおかしみのある歌。
六首目の納豆は、だれもが「そうそう」と納得する内容だ。
七首目。本人は気付いておられるのかどうか知らないが、斎藤史の「白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう」という歌を思い出してしまう。こちらは実直。
九首目、十一首目は似た作りの歌だが、ユーモアが感じられる。
十首目は、なんとなく奥村晃作を思わせる。粘着気質というのだろうか。
最後の歌は、四国のお遍路の歌。歌集の表紙は、太田さんの後ろ姿?

それにしても歌集の題がユニーク。自分で「おじさん」というだろうか。おばさんは、まず自分では言わない。関西のおばさんは、おねえさんと言うかも知れないが・・・。
そしてそれから、まだ先は長いし、これからも短歌を続けられるのだろう。

短歌人2月号 同人のうた その2

2011-02-02 22:06:48 | 短歌人同人のうた
紅鉄漿に縁のなかりしたらちねのあはれはなやぐ死に化粧見つ
(杉山春代)

ファックスの滲むインクを凝らし見る訃報いちまい簡潔にあり
(関谷啓子)

来年も生きてることを疑はず木村書店に手帳購ふ
(大橋弘志)

そこにもここにも淋しきひとのゐるけはひ休日の街雲は見おろす
(田流子)

テレビに見て秋篠寺の伎芸天ああうつくしいといひしきみはも
(小池光)

御仏はここにおわすに傍らの説明板へと人は寄りゆく
(諏訪部仁)

母と子はかつてのわれと息子なれば奪はれやすし秋の時間は
(斎藤典子)

子の靴の小さくなりしを教へらる扉の向うへ行く朝のこと
(宇田川寛之)

娘(こ)の側へやや寄りすぎとささやかるバージンロードの道半ばにて
(大森益雄)

幾つもの願い古びて寅年の絵馬は夕日に燃えはじめたり
(渡英子)

*********************************

短歌人2月号、同人1欄から。
子供の成長、家族との別れを詠んだ歌に、自然とこころは惹かれてゆく。