気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

今日の朝日歌壇

2006-08-28 12:35:41 | 朝日歌壇
消えゆきし「ゑ」の字はどこに孫の知らぬ杳き明治の曽祖母よしゑ
(伊勢原市 宇佐美正治)

薊野にあまた真白き蝶群れて汽車はハルツの夏山に入る
(ドイツ 西田リーバウ望東子)

缶詰めの酸素吾が為たずさえて乗鞍岳にこま草を賞(め)ず
(相模原市 尾崎裕美)

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一首目。いまは余り使われなくなった「ゑ」の字が明治生まれの曽祖母の名に残っていることを素材にした。たしかにそのとおりで、私も短歌に関わることがなかったら、ほとんど使うことがないだろう。杳き明治というのも良い表現だと感じた。
二首目。作者はドイツ在住の人。さわやかな旅情をさそう一首。ここ数年遠出するのは、歌会関連で、純粋な旅をしてないな。どこか遠くへ行ってみたい。
三首目。缶詰めの酸素というのは、缶を開けたらすぐに拡散してしまうのじゃないだろうか。何か拡散しない方法を施してあるのか。こま草というのは、実際に見たことはないが、いつか切手の図柄になっていて、それを大事に使っていた記憶がある。


向日葵の眼

2006-08-19 00:36:18 | つれづれ
生きの緒のすさまじきかな群れ咲ける向日葵の眼にわれはたぢろぐ

正しいと思はぬ言葉に頷けば心はるばる遠流のごとし

また一つ灯りの消えしマンションの部屋は闇にて闇にあらずや

くづれたるものの嵩とはこれほどか牡丹のはなびら両手にあまる

いつも正しいことばかり言ふ人とゐてわたしは含羞草のやうなり

(山本枝里子 向日葵の眼 雁書館)

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歌集の題名になった『向日葵の眼』は、一首目から取られたらしい。生命力の強い向日葵に見つめられるように思う作者の感性を私は理解できる。この歌集を読んで、思い出したのが道浦母都子のこの歌。「うたは慰藉 うたは解放 うたは願望(ゆめ) 寂しこの世にうたよむことも」道浦母都子・夕駅

短歌を作るとき、どんな言葉を選ぶか、どんなリズムにするか・・・考えるときの間合いに個性があらわれる。一番言いたいことを言わずに、ひと呼吸置くと言うのは、こういうことかな・・・なかなか出来ないけれど。

向日葵の眼 山本枝里子歌集

2006-08-16 21:16:38 | つれづれ
さびしさは林檎の中にもあるらしき噛めばときをり木の香りする

われを包めばそよともせざるブラウスが夕べの風に翔ぶかたち見す

改札機に切符入れたる束の間を試されてゐるわれかと思ふ

歌によりひらかれてゆくわれのありたつたひとつの心をひらく

ゆふやみの菜の花畑あかるくてどこに逃げてもわたしはわたし

(山本枝里子 向日葵の眼)

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人生のさまざまな苦難に出会いながら、歌に添うことで救われている作者と思われる。作者には、ほかの人が自分より立派に見えるという傾向があるようだ。私もときどきそんな気持ちになるので、共感するところがあった。

きのうの朝日歌壇

2006-08-14 00:09:20 | 朝日歌壇
逃げた亀さがす張り紙おさな子は甲羅の欠けもしっかり描く
(春日井市 伊東紀美子)

どこからが故里の空廃村となりてますます澄み透る空
(伊那市 小林勝幸)

反戦の歌など作る有り余る食とものとに日々囲まれて
(坂戸市 山崎波浪)

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一首目。飼っている亀がいなくなって、張り紙をはってまで探す子供は、亀に愛着があり、その特徴をちゃんと見ている。作者もその子をよく見ている。
二首目。この歌から思い出したのは、奥村晃作の「どこまでが空かと思い 結局は 地上スレスレまで空である」。故里,、廃村という考えが入っている分、ちがってはいるけれど。
三首目。八月は、なおさら今の暮らしのありがたさを思う。申し訳なくて、つらくなる。


青人草

2006-08-13 00:35:41 | つれづれ
月光に空耳ならぬ軍楽や青人草の一茎の乱

そのかみの子規の喀血くれないの花鳥風月就中不死鳥

韻文にのみ賭けるそのフェイクなる象徴として真冬のかもめ

樟脳の匂い嗅ぎたる恍惚の古き茶箱の大礼服よ

(藤原龍一郎 楽園)

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藤原さんの歌を読んでいて、この人が「新かな」であることを承知しているが、なんとなく残念に思うこともある。旧かな派の私としては、ここを置き換えるとどうなるだろうなどと不埒なことを考えた。私の旧かなも覚束ないものではあるが・・・
青人草という名前に惹かれて調べたが、画像はなかった。落ち着いて辞書で調べると(民衆を生い茂る草にたとえていう)民衆、庶民とあった。こんなことも知らなくて恥ずかしい。


楽園 藤原龍一郎歌集

2006-08-12 00:22:56 | つれづれ
根岸より地下鉄を二度乗換えてりんかい線で子規居士来れ

ジャズソング口笛で吹く洒落男この月光の値千金

黄昏に沈む世界のよろこびを五感に享けて果てし、と告げよ

圏外という人生をうべなえと液晶画面に175R

地下鉄に地下鉄の神都バスには都バスの神が憑きて静謐

(藤原龍一郎 楽園 角川書店)

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短歌人会の夏の会で、サイン入りで『楽園』を購入。帰りの乗り物の中で、ざっと読んでまたゆっくり読みなおしている。
題詠マラソンで知っている歌もあって嬉しい。
藤原龍一郎氏の特徴として、次のようなことを再確認。
読書量、知識が多いので、それを生かして古いものと新しいものを繋いでいる。俳句とのコラボレーション。体言止めが多い。固有名詞の多用。マニアックな芸能ネタが豊富(175Rは、イナゴライダーだったか)。フレーズの繰り返しが効果を生む。
表紙のデザインは、都会のイルミネーション、高速道路、高層ビルの林立を思わせる。
にぎやかな歌集だ。


長崎原爆忌

2006-08-09 19:58:16 | つれづれ
人に語ることならねども混葬の火中にひらきゆきしてのひら
(竹山広 とこしへの川)

この川の水に重なりゐたる死者一日おもひ一年忘る
(竹山広 千日千夜)

一分の黙禱はまこと一分かよしなきことを深くうたがふ
(竹山広 射禱)

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角川短歌8月号の「歌人のいる風景・竹山広自選五十首」から、特にこころ引かれた歌。なんのコメントも出来ない。ただ鑑賞したい。

きのうの朝日歌壇

2006-08-08 20:06:03 | 朝日歌壇
主人在宅症候群の妻を持つ男がクラス会に来ており
(茨木市 瀬川幸子)

冷房の効きたる店をたどりつつ日暮を待ちて帰るほかなし
(長崎県 中上鉄郎)

極楽図より地獄図の念入りに描かれいるに見惚れて飽かず
(武蔵野市 野口由梨)

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一首目。主人(または亭主)在宅ストレス症候群のことだろう。ストレスを入れると言葉が長くなりすぎるので、これでわかる。主人とは夫のこと。夫は厳密には主人ではないが、主人と立てて言っておくと、不本意ながらコトがスムーズに運ぶ。配偶者が空気のような存在で、夫婦で一緒にいて気楽なんていう夫婦が、本当に居るのだろうか。そんな幻影を描くしかなく、それに縋っていると真実を見る目が曇っていく。でも真実は恐ろしくて見ないほうが良いのだ。せいぜい別々に出かける場所を作るべきだ。私は出かける場所、一杯あります(笑)
二首目。よく効いている冷房というのは、親切なのか嫌がらせなのか、わからなくなる。快適と思える温度は人によって違うのだが、他人の設定した「快適さ」に順応すると、身体も自分で判断しなくなる。それで後から疲れが出る。こわいことだ。だれかの策略か。
三首目。外から見ているかぎり、地獄図の方に心ひかれて見惚れるのは人間の習性だろうか。こういうことを言うと品性が卑しくなるので、控えなければいけないが・・・


あの夏の

2006-08-03 16:49:29 | きょうの一首
あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ
(小野茂樹 羊雲離散)

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小野茂樹のこの歌は、瑞々しい相聞として有名。でも私は、この歌から幼かったころのわが子を思う。小学生くらいの子供を見ると、ふっとうちの子じゃないかと思う。もうふたりとも大人になっていて、こんなところに、子供の姿で居るはずもないのだが・・・


訃報

2006-08-01 22:25:01 | つれづれ
ふりかかる火の粉を払い払いのけ背筋をぴんと生きてゆかまし
(鶴見和子 心の花6月号)

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社会学者の鶴見和子氏が亡くなられた。遠くからあこがれていた人だった。
こころからお悔やみを申し上げます。