気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

青を泳ぐ。 杉谷麻衣 

2016-09-19 13:43:22 | つれづれ
爪に残る木炭ばかり気になって完成しない風の横顔

少しずつ色を失う街角の胸に息づく信号の赤

運転を終わらせ君が折りたたむ眼鏡の銀が西陽をはじく

あの遮断機まで走るんだ群青が空のすがたで追いかけてくる

ワイパーがぬぐい残した雨つよく光るね駅へ近づくほどに

流星のような一瞬 送信を終えて止まった画面見ている

花の名を封じ込めたるアドレスの@のみずたまり越ゆ

  北へは上がる 南へは下がる
道なりに北へ上がれば北にしかゆけぬかしこき京に暮らせり

  送り火を見た松尾橋
背の高きひとから秋になることをふいに言われぬ晩暉の橋に

同志社今出川キャンパス
絵のなかに閉じ込められに行くように赤い煉瓦の風景に入る

(杉谷麻衣 青を泳ぐ。 書肆侃侃房)

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杉谷麻衣の第一歌集『青を泳ぐ。』を読む。

杉谷さんとは面識がないが、京都市出身の方なので、縁を感じて歌集を送っていただいたと思う。爽やかな相聞、若々しい感性の歌がならぶ。作者の職業や年齢、家族などの情報は消されていて、わからない。歌として切り取られた瞬間が、スナップ写真のように差し出されている。
わたしが一番気にいった歌は、七首目。@がみずたまりに見えるという把握がとてもいい。
八首目からは京都の歌で詞書がある。「かしこき京」という言葉に注目した。「賢」か「畏」だろうか。京都人の他人との距離の取り方には、水くさい感じがある。あまり立ち入らない。「お宅さんはちゃんとしたはりますやろし・・・」と言った無言の圧力を感じることが、間々ある。言われなくともかしこくしていなければならない。京都もいろいろあって、地域によって違うことはよく聞くことではあるが、肯うしかないのだ。
杉谷麻衣さんのますますのご活躍を祈っている。





ぐい飲みの罅 藤村学 

2016-09-14 12:17:31 | つれづれ
疲れ目に効くとしきけばしののめの瞼をあおき檸檬にて圧す

背中からふかい眠りに沈みゆく軟い触りの籐の揺り椅子

三十年使い馴れたるぐい飲みの罅にかぐろき酒焼けの渋

フセインの絞首刑の日わが窓にクレーンの腕がどんどん伸びる

学(まなぶ)という名でよくあそびおもしろうてやがてさびしき還暦がくる

「門灯が切れているね」って言いながら替えようとせぬ三人家族

むらさきの藤村信子は四十年以来(このかた)われの若草の妻

蟻ほどの雄螺子(おねじ)が卓に落ちていてわれの世界のどこかが狂う

せせらぎに架かる木橋のたそがれを美しくするむぎわらとんぼ

十缶の(金鳥渦巻)ことごとく使い切ってもまだこない秋

(藤村学 ぐい飲みの罅 六花書林)

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コスモス短歌会の藤村学の第一歌集『ぐい飲みの罅』を読む。

藤村さんとはお会いした記憶がない。歌は素直で、歌の内容と現実とがリンクしていると読んでまちがいないだろう。六十七歳で、とても家族思いの方。特に奥さまに対する愛情に感心した。いろいろな夫婦があるものだ。六首目の門灯のうたに家族の様子が窺える。
五首目では還暦になった感慨を詠っている。わたしも還暦を過ぎているが、こういう感慨は持たなかった。無事に迎えたことに感謝はしたものの、あ、そうか、というだけだった。
四首目のような取り合わせの面白い歌を、期待している。

ビビッと動く 奥村晃作 

2016-09-08 12:47:57 | つれづれ
二百台以上の自転車現われつ井の頭池の水抜きをして

ジョーンズの一枚の絵のどこ見ても現わし方がカンペキである

妻<すえ>に因む名付けの<スエコグサ>富太郎の碑の巡りを埋む

十万人に二人か三人<本態性血小板血症>を病む身となりぬ

一匹の死魚を貰いて一芸を見せるバンドウイルカを目守(まも)る

「本読んでナニになるんだ、晃作は」ホントに父はそう思ってた

俊敏の佐藤慶子の鳥のごとビビッと動く脳を思えり

レオナルド・ダ・ヴィンチの場合一点の絵画があれば動員できる

大小の筍二本<四本>を知人二人にお裾分けせり

石橋の荒神橋の名称が「荒神橋」と深く彫られて

(奥村晃作 ビビッと動く 六花書林)

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奥村晃作の15冊目の歌集『ビビッと動く』を読む。

著者77歳から79歳までの作品をおさめてある。奥村さんは満80歳になられた。表紙を見ていただきたい。帯の言葉の「独自の歌境」「真面目に邁進するオクムラ短歌」にすべてが込められている。

一首目は、現実にあったことを提示して驚きをそのまま差し出す。二首目は、定型にきっちり収まり、思いがカンペキに表現されている。「カンペキ」のカタカナ表記がオクムラ独自のスタイルだ。三首目。植物の研究で有名な牧野富太郎を詠む連作の一首。四首目、長い名前の病名を入れるために字余りになっている。字余りの重さに意味がある。五首目。バンドウイルカの芸を見たときの歌。「死魚」という言葉が強烈だが、実際にそうなのでそのまま詠んで、言葉が活きた。下句の句跨りのリズムが良い。
六首目。「反面教師」と題された一連から。実家の様子がわかる。辞めた勤め先、親の職業、所得の歌があり、いまでは珍しい題材の歌だと思った。
七首目。佐藤慶子さんとオクムラさんは夫婦。この一連に「メダカ愛強き吾妻は餌をやり過ぎ水が濁って次々死んだ」という歌がある。似た者夫婦という言葉を思ってしまった。
八首目は、その通りだろう。展覧会をめぐる、という題で美術作品に触れる歌も面白く読んだ。九首目は筍の歌。こういう題材は説明したいことが多くなり、定型に収まりにくいものだが、ピシリと決まっていて過不足ない。十首目は、京都観光の一連の歌。わたしも荒神橋を渡ることがよくあり、親しみがあった。蛇足ですが、近藤のうたは「川を越え西へ東へゆく人をたひらに渡す荒神橋は」。
歌集末尾のうたは、「八十の誕生日今日つつしみて御先祖様の霊(みたま)に告げる」。
歌集を出して一区切りついたが、奥村さんはますます邁進される。信じて疑わない。