気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

冷蔵庫

2007-12-31 22:21:08 | きょうの一首
天然の冷蔵庫だなを聞きたくて父と市バスにゆられとります 
(斉藤斎藤 渡辺のわたし)

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大晦日の京都は、めちゃくちゃ寒くて凍りそうだ。ましてわが家は、京都のチベットと呼ばれる辺境の地にある。
洗濯物を干すと、タオルがすぐに板になってしまいそうなくらいに寒い。
そして、斉藤斎藤の歌を思い出した。これは、題詠マラソンの冷蔵庫のお題で作った歌でもある。天然の冷蔵庫だな・・・という父の口癖を知っていて、聞きたいと思うところに父との深い関わりが垣間見える。市バスという設定も庶民的だ。

今年も「気まぐれ徒然かすみ草」を読んでくださってありがとうございました。
来る年も、ぼちぼち続けたいと思います。よろしくお願いいたします。
ほな、良いお年を~♪

冷蔵庫の空いた隙間に詰めるクセあらたまらぬままひよいと年越す
(近藤かすみ)


ファミコン

2007-12-30 22:02:13 | きょうの一首
   子供より電話あり
ファミコンはいつ買つてくれるかと電話にておもひつめたる声で言ひけり
(小池光 日々の思い出)

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『日々の思い出』は、昭和六十一年十月一日から始まっている。
この歌は、明けて昭和六十二年一月六日に作られたもの。
当時、ファミコンが流行り始めて、このころから子供の遊び方が劇的に変化した。
わが家も、このあたりで子供にファミコンを買い与えたような記憶がある。小池さんも同じようにお子さんにねだられていたのだ。いまやゲーム機はどんどん進化して、もう私にはわからない。あの電子音の音楽の繰り返しが耳についてとても辛かったことを覚えている。

ところで、さっき帰省した娘が、兄とのプレゼントと言って、私に脳のトレーニングが出来るゲーム機を渡してくれた。ゲームも携帯電話も縁がないと避けてきたけれど、折角のチャンスなので、やってみようと思う。短歌を考えるとき、高度に脳を鍛えているつもりなのだけど、まだ足りないのかな。はまりそう♪

負うた子が母なるわれに与へしは脳を鍛ふるといふゲーム機
(近藤かすみ)

あきたこまち

2007-12-27 20:27:08 | きょうの一首
雀らに寒日(かんじつ)いかに餌台(ゑさだい)にあきたこまちのつぶを散らばす
(小池光 寸感 短歌1月号)

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小池さんのブログで、雀に米粒をやることが話題になったことがあった。
雀は賢い鳥で、コシヒカリは食べるがササニシキは食べないとセンセイはおっしゃる。コシヒカリとササニシキを混ぜて撒いた場合、残りがササニシキだとどうやって判断するのか、私にはわからなかった。謎のままである。
今月の角川短歌を見ると、この出来事が歌になっている。歌では、米粒はあきたこまち。たしかにここは音調を整えるために6音のあきたこまちがふさわしい。助詞の「に」が続くが、これは考えがあってのことだろうと、じっくりと読んだ。

ぶぶ漬けにしはりますかと訊いてみる京に生まれしええにょぼなれば
(近藤かすみ)

わからざるままに

2007-12-26 00:50:23 | きょうの一首
わからざること殖やしつつわからざるままに焉らん夫婦なるもの
(小高賢 日々往来 短歌1月号)

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角川短歌1月号は、新春五十歌人競詠五○○首という特集で、読みごたえがある。
その中で、ふとひっかかったこの歌。そうか、こういうものなのか・・・。
世の中のご夫婦はみなそれぞれ事情があるだろうが、一緒に並んでおられるのを見ると、どのカップルも円満そうに見える。それは人前での演技なのか、そのままの自然なすがたなのかわからない。わからないままでもいいじゃないかという歌を読むと、こころがほっとする。

熟年の夫婦に「普通」などあらぬ 枝豆の殻が皿に山盛り
(近藤かすみ)

今日の朝日歌壇

2007-12-24 13:50:36 | 朝日歌壇
行けなくてしまったままのチケットは空席が見た夢の香りす
(大牟田市 宇土純子)

球体の表面積も体積も今はおぼろに地球儀を拭く
(舞鶴市 吉富憲治)

電飾など無かった頃はぐっすりと冬眠できてた欅の並木
(下野市 若島安子)

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一首目。音楽会か映画のチケットだろうか、空席が見た夢というのがありそうななさそうな不思議な感覚を喚起する。香りす・・という収め方に余情を感じた。
二首目。地球儀そのものをこのごろ見ることが少なくなった。入学祝として学習机の上の地球儀が定番だった時期もあった。作者はそんな机で球体の表面積や体積の求め方を学んだが、いまはおぼろになってしまった。当時を懐かしく思い、地球儀を大切にされているのがわかる。
三首目。木々に施される電飾は、クリスマスの今がピーク。たしかに遠目に見ていると綺麗なんだが、木にとってはありがた迷惑なのだろう。

短歌に関わってきて思うことは、日常のちょっとしたことをいかにうまく掬い取るか、それを言葉にするかということだ。新聞歌壇には、わかりやすい歌が取られやすい。
もっと感情の深い部分に触れるような歌がいいと思うときもあれば、自分の気持ちを代弁してもらったわかりやすさに納得することもある。
いろんなタイプの歌に触れて、いろんなタイプの歌に挑戦しつつ、自分のスタイルが築けたら理想なのだけれど。

今年のはじめ、友達にGoogleEarthのことを教えてもらい、自分でもその題材の歌を作っていたら、小池さんも短歌6月号で連作を発表されていた。
新しい題材を求めて、目を広げなければと思う。

パソコンの画面の地球がぐんぐんと迫るGoogleEarthで墓参
(近藤かすみ)

ゆふがほの家 馬場あき子 つづき

2007-12-20 00:49:33 | つれづれ
ゆふがほに人待つ女もゐなくなり待つとなけれど夫帰りくる

ゆふがほの家にパスタは茹で上がり誰か来てゐる秋のあかるさ

福袋みな持つて乗るひるでんしや福は膨らんでゐてみな同じ型

コンビニの夕べのひかり寒に入りあな青し青年の購ふ針と糸

人柄は人格よりもなつかしく木犀の香がしているゆふべ

(馬場あき子 ゆふがほの家 不識書院)

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一首目。夕顔はなんとなく人待ち顔をしているように見える。女性もそれぞれ忙しくて、ぼんやり人を待っているような女はいなくなった、という意味だろうか。
夕べ、夕ぐれは歌になりやすく「夕暮れ短歌」という言葉さえあると聞く。確かに私もよくこの手を使ってしまう。
四首目。コンビニも今は歌の材料になりやすい。コンビニで針と糸を買う青年の孤独が伝わってくる。
五首目。人柄という言葉の温かさ。人格というと硬い感じがする。人柄が良いというのは、最高のほめ言葉だろう。そしてまた、ゆふべである。

コンビニで売るものどれも割高で夕べスーパーに買ふ伊右衛門茶
(近藤かすみ)

ゆふがほの家 馬場あき子

2007-12-19 01:14:24 | つれづれ
人生の裏道にふと出たやうな白萩は庭に咲きしだれたり

動かざる予定のなかに割り込みしたそがれ清兵衛とゐる夜である

をみなごは敵(かたき)つくらず年の順に何気なくいぢめるものといふなり

夕ぐれは森の深さが濃くなりてまだ知らぬ闇われに近づく

急速にこんなに駄目になつた国土砂降りによむ『万葉集』あはれ

(馬場あき子 ゆふがほの家 不識書院)

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馬場あき子の二十一番目の歌集を読んでいる。
二首目など、たそがれ清兵衛が出てきて面白い。忙しいなか、つい本を読んだのか映画を見たのか「ゐる夜」というのがいい。
三首目も、女というのはそういうものだと思わせる。イジメには、鈍感または鈍感であるふりをして流すのが処世術である。
五首目。上句が身にしみる感じ。

あからさまに勝つても負けても生きにくし幾つになつても女はをんな
(近藤かすみ)

今日の朝日歌壇

2007-12-17 20:35:32 | 朝日歌壇
熊に遭い張手されたと言う人が生彩放つ待合室に
(盛岡市 山内仁子)

黒猫は絵になりすぎて絵に出来ず絵にできぬとも絵のような猫
(土岐市 澤田安子)

日本の二十二歳が一斉におんなじ黒を着ている怖さ
(京都市 敷田八千代)

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一首目。病院の待合室なのだろう。熊に張手をされて怪我をした人が武勇伝を語っている。その様子が生彩を放つというのが言いえて妙。生彩という言葉を久しぶりに見た気がした。
二首目。理屈っぽい歌ではあるが、なるほどそうだと納得させる歌。短歌の形式の中にストーリーがうまく納まっている。
三首目。一見してわかるリクルートスタイル。それぞれ事情があるだろうから、二十二歳とは限らないと思うが、これも二十二歳と言い切ってしまって、歌が強くなっている。花山多佳子の歌で、息子の黒服姿が怪しいと言った内容の歌があったのだけど、いま見つからない。

鴨脚樹

2007-12-15 23:57:56 | きょうの一首
死ぬひとと死なないひととゐるやうな気がする鴨脚樹(いちやう)並木ゆくとき
(魚村晋太郎 繭 短歌往来3月号)

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そんなはずはないのに、何故かそうだな・・・と納得させる力のある歌。鴨脚樹と書いて、いちやう(いちょう)と読ませるのも面白い。いちょうの葉は、鴨の水掻きのついた脚のようにも見える。旧かなの「ゐ」が存在感を持っている。
毎年、京都の街路樹のいちょうは、落ち葉が交通の邪魔にならないように早めに伐られるのだけれど、今年はまだその光景を見ない。もう自然に任せるのだろうか。

秋と冬をへだて公孫樹の枝を伐る人ら来ぬまま師走も半ば
(近藤かすみ)

「母さん」と・・

2007-12-14 01:17:10 | きょうの一首
「母さん」と庭に呼ばれぬ青葉濃き頃はわたしも呼びたきものを
(佐伯裕子 あした、また)

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理由あって、歌壇のバックナンバーを読んでいる。7月号の「日常詠の魅力」という特集でこの歌を見つけた。以前、この歌集は読んでいたので再会ということになる。
作者は、母であって「母さん」と呼ばれるとともに、子でもある。いくつになっても「母さん」と呼んで、甘えてみたいのが人情。この気持ちよくわかる。一首の真ん中に「青葉濃き頃」と漢字の多い、濃い部分をつくって「わたし」はひらがなにしているのも良い。子からわたしへそして母へ、甘い懐かしいような感情が流れている。