気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

バスを待つ 牛尾誠三 

2016-04-17 14:56:24 | つれづれ
バスを待つ見知らぬ人にも辞儀をする少年のゐて春のゆふぐれ

飛行船が浮かんでゐればいいのにな目覚めて狭き部屋の窓開く

十時発町なか行きの京都バスは敬老パスで満席となる

冬の夜の仕事帰りの坂道は立ち止まつては星を見る場所

少しづつ荷の減つてゆくホームレスと荷の増えてゆくホームレスがゐる

バス停に着くまで立つなといふ声が聞こえぬように老い人ら立つ

このごろはお寺の前の掲示板に書いてあるやうな歌作りをり

何気なく首をさはるとセロテープ貼られてをりて故のわからず

デパ地下で上司を見かけ目を逸らし上目づかいに人ごみに入る

俯いてゐては短歌が生まれぬと見上げた空に虹の架かれり

(牛尾誠三 バスを待つ 六花書林)

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短歌人所属、牛尾誠三の第一歌集『バスを待つ』を読む。

牛尾さんは私と同じ地域に住んでいる。バスの路線が一緒なので、何度かバスや近所でお会いした。
この歌集は集題を『バスを待つ』としたように、バスに纏わる歌が多い。もっと言えば、左京区岩倉から町なかへ行こうとすると、京都バスを利用するのが便利。叡電もあるが、駅がこの地域の南部にあり、やっぱり京都バス、という選択になる。

一首目。少年はたまたま見かけただけだろうが、律儀さが牛尾さんの性格を表していているように思えた。昔の自分のすがたと重ねて見たのかもしれない。
三首目、六首目は私も実感していること。三~四十年ほど前宅地化が進んだ岩倉は、いまや高齢者の町となっている。「町なか」という言葉に親しみを覚える。やはり岩倉は、町でありながら町とは言いにくい部分もあり、出町や河原町は町なかと思えてしまう。町なかの表記は、町中とすると漢字が続くので、それを避けた配慮だろう。
五首目は、ホームレスと呼ばれる人にも性格の違いがあることを、荷に注目することで出来た発見の歌。なるほどと思わせる。
九首目の何となく知り合いを避ける気持ち、とてもよくわかる。挨拶をしないと失礼だろうな、と思いつつ、人ごみに紛れる方が楽なのだ。少し罪悪感も持ちながら。
四首目、十首目のような歌を読むと読者としてほっとする。真面目な人間は、そうでない人間にとって、鬱陶しい存在らしい。かく言う私も某俳人氏には鬱陶しがられているようだ。
細かいことが気になり、気を病む人は歌人に多い。短歌に向いているとも言える。定型に嵌まっていることで安心できるのだ。俳句は、短すぎて却ってものが言いにくい。

歌集全体に老いを意識した歌が多く、その点で損をしている気もする。黙ってたら年なんかわからない、短歌は虚構だ、と近ごろの私は思うのだが、どうだろう。しかし、牛尾さんは正直で誠実なお人柄だから、老いの感慨を詠っていて、それでいいのだ。共感する人も多いはずだと思う。
ますますのご健詠をお祈りします。

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1 コメント

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Unknown (teruo)
2016-04-18 00:29:35
納得です。

なにごともそうであるように、
よい書き手がよい読み手に出会うことはおよそ奇跡にちかい。
出会えなかった多くの書き手に、なにより、書くこともできなかった多くの魂に合掌。
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