気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

短歌人7月号 同人のうた

2017-06-28 23:10:43 | 短歌人同人のうた
春を歩く歩調というものあるごとし木橋にスズメ提に人の子
(久保寛容)

足の痛くない国へ行かう 人在らねば声に出て言ひ晴ればれとせり
(酒井佑子)

身籠ると身罷るどれも火を纏い見えぬところも焼き尽くしゆく
(鶴田伊津)

なだり濃き夕闇降ればふうはりと灯るごとくにひとつ傘ゆく
(大谷雅彦)

長谷寺の庭にくれなゐの牡丹(ぼうたん)の咲き盛りをりなまぐさきまで
(小島熱子)

夜の蜂蜜しよくたくのうへのつぼにあり甘をかかへて踞りゐる
(花笠海月)

アイリスのアイのかなしさ美しさすっくと立ちたる茎五、六本
(小林登美子)

病院を出でて大きな街角を曲がればいちめん葉桜の街
(関谷啓子)

絶え間なく散りゆく花と結社誌の我が我がに疲れてしまふ
(倉益敬)

ふりこぼす水乾きゆくときの間をすり抜けてゆく今といふ過去
(高田流子)

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短歌人7月号、同人1欄より。

図書館に本を返しに行くあひだ春風に捲られてゐたシーツ
(近藤かすみ)

岸 岩尾淳子 

2017-06-13 16:13:43 | つれづれ
さりさりとセロファンの風涼しくて「うた新聞」がさ庭にとどく

夕暮れて野球部員の均しゆく土より冬の背すじが浮かぶ

あなたとの仮の宿りはいつまでか秋の野辺なるニトリへゆかな

流転するさなかの家族はさみしくて小さい順にお茶碗あらう

父が締め母が開いてまた締めるしずく止まらぬ栓ひとつあり

葦分けて水ゆくように制服の列にましろき紙ゆきわたる

帰り来て嗽をする音ほろほろと途切れとぎれにあなたがわかる

古本のようなる秋の公園にちいさな人がはこびゆく砂

ありがとうこんなに遠くに連れてきて冷たい水を飲ませてくれて

からっぽの弁当箱をかたづけて職業というは箱のようなり

(岩尾淳子 岸 ながらみ書房)

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未来短歌会、岩尾淳子の第二歌集『岸』を読む。
岩尾さんとはここ数年、神楽岡歌会を中心に親しくしていただいている。

一首目。「うた新聞」はセロファンに包装されてくるので、さりさりという実感がよくわかる。s音の連なりが心地よく響く。セロファンの質感をうまく再現している。さ庭の「さ」のひらがな表記もいい。
二首目、六首目は、職場であった学校の歌。「冬の背すじ」が巧い表現。日暮れの早い冬、部活後の後始末をしている生徒の姿を鮮やかに描く。試験問題が配られて、次々と後ろにまわす様子を、「葦わけて水ゆく」と表現していてこれも景が目に浮かぶ。
十首目は長く続けてきた仕事を辞めるころの感慨と読んだ。充実感と虚しさが入り混じった感覚が伝わる。これと言った職業に就くこともなかったわたしには、眩しい歌だ。

四首目は家族の歌。「お茶碗」という言い方がおもしろい。言葉に「お」をつけると大抵は緩く幼くなってしまうが、ここではうまく行っている。何か問題が
あっても、お茶碗をあらうという日常の家事をだれかがしなければならない。小さい順に、が納得させられる。五首目は、父母の歌。水道の栓から垂れる滴を詠いながら、解決しない問題を背後に感じてしまう。読み過ぎだろうか。取りとめなく続く生活の澱のようなものを思う。八首目の「ちいさい人」はたまたま公園で見かけた子供だろうか。「古本のようなる秋の公園」は匂いが古本のようだったのか、佇まいが古かったのか、秀逸な比喩。

三首目、七首目、九首目は、夫婦の穏やかな思いやりが感じられる。「ありがとう」の感謝のことばは夫への気持ちと解釈したい。
同年代の女性の歌を読む時、そこに危うい相聞があると嫌悪感を持つが、この歌集についてはそれがなかったことが心地よい。穏やかな関係を羨ましくも思う。
岩尾さんの穏やかな歌には、口語の表記が合っている。何げない自然なものを詠いながら、底に深いものを感じる。それが真っ当なことに安心する。読者に負担をかけないことの慎ましさを味わうことができた。
ありがとうございます。これからも仲良くしてね。