気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

シジフォスの日日 有沢螢 

2017-12-28 01:14:54 | つれづれ
今日手術しなければ死ぬと言ひ切られ夜桜の下(もと)運ばれてゆく

痰だけは正岡子規に負けるまじ日に三箱のティッシュを空ける

日日に詠む歌を書きとる術もなくそらんじてはまたそらんじてをり

「短歌人」出詠のため枕辺に看護師長立ちき十五分間

万象の凝れるごとき曇天に白き腹見せ百合鷗飛ぶ

歌の友が集ひて歌を語るときわが病床に花咲くごとし

冬の日の訃報は悲し 竹田圭吾 田村よしてる デヴィッド・ボウイ

良きことの知らせのあれば裸足にて春の坂道駆けたきものを

見舞ひくれし酒井佑子の頰ずりにいのちの砂の熱く流れ来

寝たきりで法令線も消えたれば吉祥天女のごとしと言はる

(有沢螢 シジフォスの日日 短歌研究社)

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短歌人の先輩、有沢螢の第四歌集を読む。

螢さんは、短歌人の校正をコンビでしていた仲間だ。病気になる前の数年間、わたしが初校をして、つぎの蛍さんに送っていた。ときどき電話がかかってきて雑談のあとに、いくつかのアドバイスがあった。校正の経験のなかったわたしはそこでずいぶん多くのことを教わったものである。

そんな螢さんが病に倒れられた。頭脳ははっきりしているのに、動けずあちこちが痛む状態。新年歌会で上京しては、お見舞いに訪ねた。そして。必ずこちらが励まされた。

一首目。緊急を要する場面で、夜桜が出て来て詩になる。二首目。正岡子規に対抗しようとする心意気よし。子規よりずっと重症なのに。
三首目。四首目。頭に浮かんだ歌を、言葉をすぐに文字にできないもどかしさ。
書きとる看護師長の緊張も伝わる。
六首目。螢さんのところには、歌の友が集まる。歌集には、多くの歌友、歌集名が登場する。彼女の存在が人を引きよせるのだ。
八首目は、素直な心情なのだろう。心を打つ。
車椅子でさまざまなところへ出かける姿は頼もしい。在宅療養を支える親友の長谷川さん、介護スタッフとの信頼があるからだが、堂々としている姿が魅力だ。不条理な病であっても。くじ引きのように誰かがそれを引き受けなければならない。存在そのものが、周囲に力をくれる人である。

われもまた神を許さむ動かざる手足に窓の虹を見上げて

そらみみ 宇田川寛之 

2017-12-20 15:13:01 | つれづれ
私語のなき朝の列車に乗り合はす昨日と違ふあまたの人と

地下茶房の柱時計の鳴りわたり親しかりけり過去とふ時間

化粧せぬきみの母なるやさしさよ若葉の午後はみどりご囲み

子に寄り添ひ昼寝したりきわれと子は同じ寝相をしてゐしといふ

参道をひとはあふれて去年よりわづかに大きな熊手を買ひつ

葉桜のしたを駆けゆく子の背(せな)の見えなくなりぬ見えなくなりぬ

「あはれしづかな」と突然に子はゆふぐれの祈りの言葉のやうにつらねる

ゆふやけて一人遊びを覚えたる子はいつしんに鶴を折るなり

子の放るバトンは秋のあをぞらに弧を描きたり歓声のなか

階段の濡れてゐたれば遠くまで行きたし夏の荷物を置いて

(宇田川寛之 そらみみ いりの舎)

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宇田川寛之の第一歌集『そらみみ』を読む。

宇田川さんは、短歌人の編集委員として、毎月の雑誌の編集と発行に関わっておられる。ボランティアではあるが、引き受けた限りは全力を尽くすのみであることを教えられた。感謝しています。わたしの歌集を出版するにあたっても大変お世話になった。はじめての歌集ということ。意外な気がするが、自分のことは後回しになってしまうというのが、宇田川さんらしい。

一首目、二首目は三十歳代の歌。都会的な乾いた感じがあって好ましい。三首めは子供さんが生まれたときの歌だろう。みどりごとその母である妻を見る目がやさしい。若葉の午後がなんと爽やかなことか。こうして親となり、家族となっていく。五首目は、歳末に商売繁盛を願ってのことか。「わづかに大き」の慎ましくも希望を抱く感じが良い。
六首目。子どもの成長を、頼もしくも、ちょっとさみしく見る。「見えなくなりぬ」の繰り返しが効果をあげる。七首目。歌人の夫婦の会話に出たのであろう。有名歌を暗唱している子に驚く。あれは祈りの言葉だったんだと気づかされる。
九首目は、一瞬の輝きを短歌として捉えた。
十首目の「夏の荷物」はなんだろう。家族との幸せな生活や充実した仕事があっても、ふと、あてのない旅に出たくなるような心を思う。短歌という枠のなかでの表現を選んだ人は、どこか定型から外れたい気持ちと、収まっていることの安寧の間を、彷徨うものかと感じた。

無名なるわれは無名のまま果てむわづかばかりの悔いを残して

去年マリエンバードで 林和清 

2017-12-10 13:39:38 | つれづれ
虫襖(むしあを)といふ嫌な青さの色がある暗みより公家が見詰めるやうな

そこには何もないと知りつつ探しに行く類語あるいは冬のヒラタケ

個室居酒屋でずつと話を聞いてみたいお湯割りの梅を箸で突きつつ

足音に呼応して寄る鯉たちの水面にぶらさがるくちくち

歌人ていふ嫌なくくりだこんなにも君と俺とはちがふぢやないか

ひろすぎる座敷にふとんの流氷の上に一夜をただよふばかり

ゑのころが根ごと抜かれて死んでゐた人と人には悪意も絆

ちいさいひとがいくにんも座つてゐたといふジャングルジムの鉄の格子に

からうじて夜をささへてゐた白い燈(とも)しが消えて千年の闇

廃市より来たやうな男 配達の判子を請うて鷺の香はなつ

(林和清 去年マリエンバードで 書肆侃侃房)

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林和清の第四歌集『去年マリエンバードで』を読む。
林さんとは神楽岡歌会でお知り合いになった。玲瓏に所属の実力派歌人で、カルチャー教室の人気講師として活躍されている。古典、和歌、源氏物語に詳しい。

一首目。「嫌な」「公家」が林さんのキーワードかと感じる。物凄く観察眼の鋭い人で、詰まらないことを言っても絶対に相手に恥をかかせるようなことはない。気配りされる人なので、その分おそろしい。公家の目とはどんな目なのか、想像するしかないが、なぜか想像できてしまう。
二首目は、類語と冬のヒラタケの取り合わせが面白い。
三首目は「浩宮」という一連から。浩宮という呼び方からピンと来るのは、ある年齢以上だろう。おふたりの居酒屋での会話、襖の影で聞いてみたい気がするが、いつまでも本音は出ないだろう。そこに至るまでの駆け引きがすごいだろうな。こう書きながら自分の卑しさが恥ずかしくなる。
五首目。まさにその通り。短歌には人柄が表れやすい。こんなにちがう君とはだれか。すぐに多くの名前が思い浮かぶ。
六、七、八首目は、不穏な空気のある歌。作者の闇をはしばしに感じさせつつ。芯のところは絶対に言わない。闇はわたしの闇でもある。読みながら自らを思うとき、すこし痛快になった。「悪意も絆」は大好きなフレーズ。
九首目、十首目は、24時間 ~200X年のある一日~ と題された百首。時折挟まれる詞書に時刻が書かれて、作者の一日を記録する形で詠まれている。虚実綯い交ぜになっているのだろう。国鉄野(こくてつの)という言葉など、面白く読ませてもらった。

塚本邦雄はサル年だつたといふ話題 鯉の甘煮の骨吐きながら

死ぬ人の歌のはうが身に刺さるとうからとうから秋の実が落つ