気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

ラディゲの齢 高橋ひろ子 つづき

2008-03-30 18:01:26 | つれづれ
異次元へ子供をひとりづつ送り出ししんとしている秋の公園

帰れなくなるかもしれぬこの場所に座つて夕陽を見てしまつたら

長生きはしないといふが口癖でくはへ煙草が蛍火のやう

もうみんな忘れただらう我の子の変声まへの神のごとき声

お母さんは小さくなつたと息子が言ふ小さくなつて消えてなくなる

指先に力を込めて折り上げて紙飛行機は紙より軽い

(高橋ひろ子 ラディゲの齢 砂子屋書房)

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子供を産んで育てるのに、たくさんのエネルギーを使った母親は、子離れするのにそれと同じだけのエネルギーが要るという説を聞いたことがある。
一首目の「秋の公園」は、作者そのものだろう。しんとしているが、木々は美しく紅葉している。
六首目の「指先に力を込めて…」も心をこめて子供を育てたと、私には読めてしまう。それなのに、紙飛行機は紙より軽く飛んで行ってしまう。
三首目は、だんなさまを詠ったのだろう。男の人は、長生きはしないなどと言って甘えたいのだ。
子育ての後の人生をいかに充実させるか、私たちの年代の持つ課題だ。

山折りと谷折り幾たび重ねしか紙ひかうきはあけの空飛ぶ
(近藤かすみ)

ラディゲの齢 高橋ひろ子

2008-03-29 00:45:39 | つれづれ
破らずに四月のままにしておけばカレンダーのめぐり花散り止まぬ

大声を出さぬ家族と言はれつつ昼餉に啜るひやむぎの音

待つといふかたちあらはに垂れてゐる冬のぶらんこ鉄の匂ひして

わがかつて過ぎたるやうにわれの子が過ぎけるレイモン・ラディゲの齢

影を買ふ男が来るといふ月夜庭の芝生のぬれぬれとして

子が眠り夫が眠りキッチンのバケツに馬鈴薯の芽の伸びる音

(高橋ひろ子 ラディゲの齢 砂子屋書房)

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高橋ひろ子さんは、某超結社の歌会でのお友達。
以前出された第二歌集をいただいた。

高校生のときに読まれたラディゲの『肉体の悪魔』に衝撃を受けた文学少女だったことが想像される。
ラディゲは17歳ころに、『肉体の悪魔』を書き、20歳で亡くなっている。高橋さんは結婚し、主婦として三人のお子さんを育てられた。
この歌集には、家族を中心として生きて来られた軌跡が詠われている。二首目に「大声を出さぬ家族・・・」と書かれているようにひっそり穏やかに暮らしておられるのだろう。しかし、カレンダーの歌や、影を買う男の歌から、高橋さんがやはり心の中に詩をもって生きておられて、単なる主婦だけで済まない魂を持っておられることがわかる。

思ひではときをりわれを泣かしむるいつか娘と歩きし小道
(近藤かすみ)

谷崎萌え

2008-03-26 18:41:07 | きょうの一首
春琴の闇の温みに手を添へて昂まりゆきぬ佐助の指は
(短歌4月号 公募短歌館 米川千嘉子選 秀逸)

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一月に芦屋市谷崎潤一郎記念館に行ったときに作った即詠。
数年前、谷崎に嵌っていて、法然院のお墓も見に行った。いつか彼の小説群を舐めるように読んでみたい。画像はそのとき撮った書斎風景。

放課後の木琴鉄琴手風琴春琴慕ふは温井佐助ぞ
(近藤かすみ 題詠マラソン2004 お題・木琴)

今日の朝日歌壇

2008-03-24 21:19:32 | 朝日歌壇
瞬(まばた)きを二つ三つして春の陽は少し明るむ梅の香のする
(鳥取市 山本憲二郎)

故里も昭和も遠し朝霧の川を渉りし牛たちの影
(岡山市 奥西健次郎)

素裸のマネキン五体積み込んで小型トラック雪の街ゆく
(京都市 吉岡節雄)

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一首目。春らしいきれいな歌。春の陽のまぶしさが「瞬きを二つ三つして」で、具体的に表れている。結句に梅の香も持ってきて、春らしさを強調した。リズムも良いと思う。
二首目。故里も昭和も遠いことの例として、後半部分の具体がある。今はもう牛たちが朝霧の川を渉ることはないのだろうか。望郷の思いが感じられ美しい一首。
三首目。京都には、マネキンや理科の教材を製造する会社があって、これは実際に見たものを詠ったのだと思う。マネキンだから素裸でも寒いはずはないが、なにかうら寂しさを感じる。雪の街の寒さが際立ってくる。

だれにでも裸体をさらすマネキンのやうな日記をまた読みに行く
(近藤かすみ)

<数字>を詠みこむ

2008-03-22 22:55:40 | つれづれ
日本に二千五百の火葬場はありてひたすら遺伝子を焼く
(松木秀 5メートルほどの果てしなさ)

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短歌研究4月号の<数字>を詠みこむという特集で、荻原裕幸さんが挙げておられた歌。そうか、日本には二千五百もの火葬場があるのかと、改めて知る。今まで、親族の葬儀で行ったことのある火葬場はいくつあるだろうかと考えるが、思い出したくないのか、ほとんど忘れてしまっている。生き物の亡骸は遺伝子でぎっしりなので、火葬場はひたすらそれを焼く場所なのだ。松木秀さんの歌は、抒情というよりも、思わぬ発見を提示して読者にあっと気付かせる歌が多い。
この歌集の題名にも5という数字が入っていて、しかもアラビア数字なのが彼らしい。

短歌研究は、私がはじめて買った短歌総合誌で、ずるずると定期購読し続けている。今年から編集者が替わったらしく、すこしずつ新味が感じられる。短歌人の人がよく登場していて、不遜ながら、なんとなく応援したくなる雰囲気。千円は、やっぱり高い。詠草欄に投稿するための三角のシール?が要るので取っているとも言えるけれど、こちらはなかなか思うように行きません。

ひとの歳を数ふるときはかりそめに昭和八十二年と思ふ
(近藤かすみ)

短歌をとめ

2008-03-22 00:27:13 | きょうの一首
「草原情歌」歌声酒場にうたひけり素朴な短歌をとめなりし日
(蒔田さくら子 短歌研究4月号)

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きょう届いた短歌研究4月号から。「草原情歌」は中国の歌のようである。それを歌った若い日のことを思い出している。「短歌をとめ」という言葉は、はじめて聞いたが、なかなか情趣のある言葉。あなたもわたしも短歌をとめ。なんと麗しいことでしょう。

凛としてそのこゑ鈴をふるごときさくら子さまは短歌をとめぞ
(近藤かすみ)

間違ひ電話

2008-03-19 01:33:40 | きょうの一首
母さんとわれを呼びたる後黙すこゑあどけなき間違ひ電話
(百々登美子 短歌往来3月号)

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きょうの一首で、取り上げようと付箋を貼っていたところ、先日の山中智恵子を語る会で、たまたま百々登美子さんと近くの席に座った。かなりのご高齢に見えたが、発言もその内容もしっかりしておられた。短歌人に所属しておられたこともあったらしい。「小池光さんは知らなかったけれど、若林のぶさんは知っています」などと話しておられた。

あどけなき間違ひ電話の歌は、電話の向こうの子供が決まりの悪い様子でいるのが想像できて、可哀相なような可愛らしいような微妙な感じを捉えた歌である。こんなときなんと言ったらいいのだろうか。センスの問われる場面だ。

「お母さん」とたまに電話をかけてくる娘のこゑは昔のままで
(近藤かすみ)

きのうの朝日歌壇

2008-03-18 00:52:27 | 朝日歌壇
ちっぽけな豊かさに未練があるのかと加藤登紀子の古きテープに
(埼玉県 吉野ミヨ子)

話しかけるわれより国会中継が大事な夫は声をさえぎる
(沼津市 森田小夜子)

その昔ユトリロ愛する人と居て耳の形を忘れずにいる
(金沢市 西出佳子)

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一首目。加藤登紀子は、私より少し世代は上だが、東大出の歌手として一世を風靡し、その後も長い人気を保っている。赤い風船、知床旅情、ひとり寝の子守唄などヒット曲は多い。私は「灰色の瞳」が好きだ。彼女の生き方を支持し、羨む女性も多い。この作者が聴いたのは、何の歌だったのだろう。テープというのも、今となっては、懐かしいツールだ。
二首目。共感できる歌。男の人より女の方がおしゃべりなのか、妻の多くは、夫に話しを聞いてもらえないという不満を持っている。何気ない言葉のキャッチボールをしたいのに、それも叶わないのは夫婦としてさみしい。それで、夫婦の会話をあきらめて趣味に目覚めたころに、濡れ落葉になって纏わりつかれたら、うんざりする。ふだんから、ちょっとした会話を楽しめる夫婦でいたいのだが、現実はきびしい。一番いいたいことを言わずにほのめかせるのが良いらしい。疲れる。
三首目。ユトリロを愛する人を愛する作者という二重構造の歌。間に具体として、耳の形がうまく入っている。

わたくしの話しを聞かぬ老い馬はときをり鼻をふふんと鳴らす
(近藤かすみ)

帆柱

2008-03-17 01:27:45 | つれづれ
かりがねを湖(うみ)より仰ぐ髪ぬれてゆふぐれは樹にかへる帆柱
(山中智恵子 みずかありなむ)

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砂子屋書房主催の「山中智恵子を語る会」に行って来た。難解と言われている歌人で、よくわからなかったが、小池さん、大辻さん、魚村さん、江戸雪さん、前川佐重郎さんらのお話しを聞いて、おぼろげな姿が見えたような見えないような・・・。
パネラーの方々の選ばれた歌を読み返して、一番気に入ったのが、この歌。湖は琵琶湖のことだろうか。二句切れの歌。「髪ぬれて」がつややかさを感じさせる。下句、かっこいいフレーズ。

運命は

2008-03-14 01:02:02 | きょうの一首
運命はしづかなる牡馬(ぼば)のかたちしてとある日の朝わがそばに立つ
(小池光 滴滴集)

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砂子屋書房から『続々小池光歌集』が出たこともあって、滴滴集を再読。いままで気がつかなかった歌に目を引かれる。
この歌は、怖い歌だ。夢という二作一連のうちの一首だが、死ぬときの「お迎え」がある朝やって来るということ、と読める。それは牡馬のかたちをしているというのは、作者の夢の出来事である。
私事であるが、義母がホスピスで亡くなる前、カウンセリングをしてくれていた人に「夢で灰色の服を来た男の子が迎えに来た」と話したそうだ。わたし自身は聞いていないが、あとで彼女に教えていただいた。本当にそんな男の子が迎えに来たのだろうか。わたし自身のときは、だれがどんな恰好で現れるのだろう。

死ぬときは枕元まで母が来て卵ごはんをひとくちくれる
(近藤かすみ)