気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

ゆき、泥の舟にふる  阿部久美 

2016-08-17 19:31:22 | つれづれ
晴夜から晴夜へ渡る泥の舟ふたり漕ぎつつ歌唄いつつ

わがうなじそびらいさらいひかがみにわが向き合えぬただ一生(ひとよ)なり

灯のともる薄闇の街抱き寄せて海が最後に暮れてゆきたり

人を待ち季節を待ちてわが住むは昼なお寂し駅舎ある町

つよい雨聞こえる夜のくるしみは人を壊すか<壊す>と思う

等身を映すか夜の窓ガラス 緋(ひ)も朱(しゅ)も紅(こう)もわれに似合わず

笹舟はつつましきもの運ぶふね 氷菓の箆や死にたるほたる

飛ぶときのカモメの脚の行儀良ささらにさびしく敬語用いる

百の川あれば百回濡れる脚 探しに来よと声によばれて

行先に背を向けて漕ぐ小舟なりきしむ声とは悲鳴/歌/息

(阿部久美 ゆき、泥の舟にふる 六花書林)

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短歌人同人、阿部久美の第二歌集『ゆき、泥の舟にふる』を読んだ。

阿部久美さんは、北海道留萌市在住。歌集を読んで作者のこころは見えるが、職業や家族構成などは巧みに隠されていて、よくわからない。わかる必要もない。言葉が丁寧に選ばれていて、読むのに時間がかかった。その時間が濃密でありがたいものに思われた。
ブログに載せるとき、ルビが上手く載らず、カッコで表記することになって申し訳ない。

最近の歌集を読みながら思うことだが、作者の個性、短歌観がさまざまでどこに焦点あてるのがいいのかわからない。最近読んだユリイカ8月号の特集で紹介されている短歌、新聞歌壇、結社誌に載る短歌、それぞれが目指すものが異なる。また、その場のなかでも個性が異なる。しかも、思ったことをツイートする人と、ブログにアップする人とではスピードが違う。言葉がどんどん読み飛ばされる感じがする。
しかし、わたしは阿部久美さんとは同じ場で短歌を作っていて、そのことを光栄に嬉しく思った。いまは批評のようなことを書いても、虚しく感じられて、細かく書くことを躊躇してしまう。この場の読者の方に任せて、わたしは余計なことを言わない方がいい気がする。歌集から、ここに転載するとき、間違いがないことを祈りつつ、阿部久美さんに感謝したい。