気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

八十の夏 奥村晃作 

2017-09-24 00:31:59 | つれづれ
独り異質の短歌を詠み来て変らざる我の短歌を我はよしとす

包丁の刃を石に研ぐ一定の角度を保ち三度に分けて

右の手の中指頰にわずか触れ弥勒菩薩は微笑みいます

ゾウを見てゾウさんと呼びトラを見てトラさんとふつう人は呼ばない

池水に立つ青鷺が細き脚泥から抜いて一歩踏み出す

ライオンが檻から抜けて会場に飛び出た場合われ等どうする

「あと何回桜見れるか」などと言う発想哀し八十のわれ

ビニールの傘が地面に張り付いて骨みな折れて雨強く打つ

黄金の八十の年代(とし)、傘を差し時には濡れて歩いています

コンクリの壁面固し 軟球のボール投げ込む一〇〇球に決め

(奥村晃作 八十の夏 六花書林)

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奥村晃作の十六番目に最新歌集『八十の夏』を読む。
奥村さんは昭和十一年うまれで、現在は八十一歳。八十歳のときの一年間の歌を収めて『八十の夏』を出版した。文字通り、八十歳の一年間の記録となっている。

一首目。誰のものでもない自分の個性を発揮して詠む短歌への言挙げ。二首目。二句切れの歌。角度、三度の「度」が別の意味を持ちながら、音としては四句め、五句めでリフレインする。定型ぴったりなのが心地よい。
三首目。細かいところまでよく見ている。微笑みいます、のやわらかい言い方が魅力的だ。
四句目。そういえば、トラさんとは言わないと気づかせる発見の歌。こういう歌は奥村さんしか詠まない。逆に「ふつう」って何だろうと感じる。
五首目。丁寧に青鷺を見て、表現しているのが魅力。
六首目。木下大サーカスという一連から。過去の作品に「もし豚をかくの如くに詰め込みて電車走らば非難起こるべし」がある。現実のことから、もし何かが起こったらどうしようという不安が心を過ぎり、それを歌にする。わたしも似た不安を持つことがあり、よくわかる。
七首目。「あと何回桜・・・」という発想はよくある。よくあるからと、歌にするのを止める歌人は多いだろうが、これを敢えて行うのが奥村流。「見れる」は「ら抜き言葉」だが、押し通す。
八首目は強い歌。これでもか、これでもか、と重ねるように描写して、雨の強さを言う。それが歌の強さになる。
九首目。八十歳であることを黄金と言ったのが、素晴らしい。下句にも説得力がある。「歩いています」に実感がこもる。
十首目。八十歳でこんなに強い運動をする人が他にいるだろうか。アンソロジーにある「くろがねに光れる胸の厚くして鏡に中のわれを憎めり」に戻って読むと、味わいが深い。
ますますのご健詠を祈ります。

八十を越えて終電・終着の駅でタクシーに乗る愚か者

やはらかい水 谷とも子 

2017-09-14 01:17:55 | つれづれ
やはらかい水を降ろしてまづ春は山毛欅の林のわたしを濡らす

雨はもう止むんだらうな木の下のリュックに鳴つたサクマドロップス

カップ麵のふたに小石をのせて待つ今日のもつとも高いところで

木の影とわたしの影のまじりあひとても無口な道となりたり

夕焼けにひとりひとりが押し出され鞄さげつつ下りゐる坂

壮年の弟の首うなだれて「ごめん」と言ふうちおとうとになる

木とわたし話すことなどもう無くて霧にからだを湿らせてをり

なんだらうこのしづけさはと思ふときほたるぶくろの花のうちがは

袋から出したものなど口に入れコンビニのイートインコーナーにゐる

ふくろ買ひふくろ断り自転車の籠にふくろのあらは放り込む

(谷とも子 やはらかい水 現代短歌社)

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未来短歌会、谷とも子の第一歌集『やはらかい水』を読む。

谷さんとは、五年ほど前から参加している神楽岡歌会で、ほぼ毎月ご一緒している。神楽岡歌会に参加できることになって初めてのとき、同じように初参加で緊張していたのが谷さん。飾り気のない人柄でなんでも言い合う友達だ。谷さんは山歩きをする人で、それが歌の題材として生きている。

一首目、山毛欅の林で濡れる身体から、季節を感受する。三句目の「まづ春は」が効いている。二首目は、サクマドロップスの具体がリュックで鳴っていて、こちらまで嬉しくさせられる。三首目。山に登る人は、そうか、高い所でカップラーメンを食べるのか。蓋に小石を載せるのがユーモラス。下句がいい。この三首は「苔の花」と題された巻頭の一連。登山の様子がいきいきと描かれている。

四首目、七首目も、登山のうた。山道を歩くとき、声を出すことはない。静けさの中で作者と自然は一体となっている。五首目。夕方の仕事を終えての帰り道を、ひとりひとりが押し出され、と詠む客観性が良い。六首目は、弟=人間の出てくる歌。大人になった弟が謝るとき、ふと表情が子どものころに返った気がした。「壮年の弟」「おとうと」の表記にしっかり気配りがされている。
九首目の「袋から出したもの」は菓子パンだろうか。急いで食事をする感じが上句にうまく言い表されている。十首目。「ふくろ」の繰り返しに、ドラマが展開される。ふくろに注目しながら、人間が見える。

モノを通した描写が巧い作者であるが、やはり自然詠に魅力がある。現代ではどうしても人工的、観念的な歌が多く、その点で、自然に入って行って、対話できるということは貴重だ。また、文語と口語の混合、旧かなで書く口語表現ということにも注目した。

沢の面のひかりをうすく削ぐやうにカワトンボゆく前へ前へと

風のおとうと 松村正直

2017-09-03 00:41:06 | つれづれ
鎌を持つおとこと道ですれ違うおそらくは草を刈るためのかま

ここに来るまでの歩みを巻きもどし頭のなかに傘をさがしぬ

あこがれとあきらめとあり天秤はまたあこがれに少しかたむく

子のためと言ってわれらがなすことのおおかたは子のためにはならず

らんかんをかんかんたたく傘の音ひびきて子らの下校の時刻

缶詰の中に知らない町がありカラフトマスの中骨がある

道を聞くひとと教えるひとといて日はかげりゆく秋の三叉路

この世では出会うことなき大根と昆布をひとつ鍋に沈めつ

もうわれを待つこともなく祭へと駆けてゆき子は参道に消ゆ

にんじんの新たな面を次々と生み出してゆく俎板のうえ

(松村正直 風のおとうと 六花書林)

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松村正直の第四歌集『風のおとうと』を読む。

さまざまな短歌の場でお世話になっている松村正直さんの歌集。2011年から2014年までの作品をまとめた一冊になっている。

一首目。こわい歌である。下句から、もしかしたら別の目的に鎌を使うのかという連想をさそう。二首目。よくある経験である。傘をなくしたとき、言われればまず頭のなかから探しているのだ。
三首目。前向きで共感できる歌。こういうときに負に傾くと、わたしはがっかりしてしまう。
四首目。まったくそのとおり。五首目。「かんかん」の音をよく響かせている。k音の重なりの乾いた感じ。小学生って、なんで昔からこういうことをするんだろう。
六首目。昨年『樺太を訪れた歌人たち』を上梓し、樺太にことさら関心を持つ作者。缶詰の中にも町を見つける。樺太への愛がある。

七首目。道を尋ねるという行為を、聞くひと、教えるひとという両面から見ているのが面白い。下句は季節感がある。ほかにも物事の表と裏を見る歌があった。
八首目。この大袈裟な言い方に笑ってしまう。九首目。ひとり息子が成長していく姿を嬉しく、また寂しく見ている。親であっても歌人であるから、わが子をも客観的に見る。
十首目。まな板でにんじんを切っているだけのことでも歌にする力。

歌数は505首と多いけれど、飽きることなく読める。一読わかる歌だが、中身は深いところに届く。薄味でありながら、コクがあると言える。
2014年までの作品だから、その後の活躍を思うと、いずれ次の歌集を出すための助走かと思われる。短歌の実作と評論や文章にますます活躍する松村さん。

もう相当前になるが、府立図書館の前のベンチに座ってられるのを見つけて、おしゃべりをしたことがあった。何を話したのかは忘れてしまったが、あれがわたしにとって大事なひとときだったと、今も思う。ベンチはなくなってしまったが・・・。これからもよろしく。

もう死んだ人とこれから死ぬ人が向き合って立つ秋の墓苑に