気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

短歌人10月号 秋のプロムナード

2010-09-30 23:29:08 | 短歌人同人のうた
青海湖つづく車窓にかほ寄せて異国の青に染まりゆくまで

天に近き湖としてヤムドゥク湖あらゆる青の形容こばむ

(高田流子 拉薩へ)

色浜に原発三基老いて立つ 漂着したるハングルの擦れ

太刀魚を焼けば少女の思い出は 模造真珠のやうに剥がるる

(西王燦 裸のランチ(俳諧))

つゆ草をコップにさせば鳥かごに目白鳴きいし朝のなつかし

四っつ角(すみ)しゃんと伸ばして父が吊るみどりの蚊帳のすずしきむかし

(木曽陽子 カンナの夏)

プーアール茶の香りただよひ夕暮れはふるき鞄のほとりより来る

ありがたうさよならだけでことたりて海のいちにち短くをはる

(金沢早苗 シャンパングラス)

塀を越え凌霄花の下がり見ゆ心浮き立つ言葉きかせよ

竹籠に一輪だけの木槿(むくげ)なり千の言葉をかけてやりたし

(檜垣宏子 風来人)

テノヒラに滴る水が消してゆく死者のことばも遠街の雨も…

「十二階…」告げればそこは部屋のまえオカエリと言う傘が一本

(青柳守音 種子を拾う…)

タフマンの広告のうへ闇と光の狎れ合ふところ清き白雲

秋草をごつたに束ね供へけり笠松競馬場内埒のへに

(酒井佑子 三伏)

ひぐらしの百の絶唱その中にわれの弱音も一つまじれり

丸めたる屑原稿をまた広げ汚れペン先ぬぐふ立秋

(大森益雄 歌も夏枯れ)

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短歌人10月号、秋のプロムナードから(前半)

まとめて読んでみて、面白かったのは今回は大森益雄さん。

きょうの朝日歌壇

2010-09-27 19:35:50 | 朝日歌壇
アルバムと古き手紙を取り出して母を偲びぬ秋の夕暮
(アメリカ 郷隼人)

山道にありをりはべりいまそかり団栗は皆己れの形
(可児市 前川泰信)

老眼はときに優しき視力なり「ぼんやり」という安らぎも在る
(広島県府中市 内海恒子)

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一首目。まっすぐで何もわからないところのない短歌。めずらしい気がするくらいまっとうな作り。作者は最近、お母様を亡くされたらしいが、その感慨がそのまま出ている。こういう歌を作らなくなってきている私たちは何を目指しているのか、考えてしまう。
二首目。団栗のそれぞれの形から、「あり」という動詞のいろいろな言い方を呼んできて面白い作りになっている。
三首目。老眼がはじまったら、ちょっとぼんやりして暮らすぐらいが丁度いいのかもしれない。いつから私たちは「ぼんやり」の楽しみを置いて、こんなに忙しくなったのだろう。忙しくしているつもりでも「天然のぼんやりのまま」で、気の利かない私のような人間もいるのだけど・・・。

乳房雲  田中教子  つづき

2010-09-24 00:09:22 | つれづれ
鴨肉を捌(さば)けばくらき胸の中かつて飛びたる空がひろがる

刃の先にひらかれるとき肉体を離れし我が海辺を歩く

指先のかすかな塩の味はひに生ある今の不思議を思ふ

生きものの命を食べてその分をながらへわたる八月の朝

顔のうつるスープのおもて掬(すく)ひつつ不安もともに飲み込んでゐる

朝のパン鳥と分かちて遠い日の母との会話を思ひ出したり

目の奥がキシキシと鳴る 人生は思はぬところに穴が開いてゐる

とげだらけの言葉をうけてきた一日 鞄(かばん)の奥のしめりが重い

バットを手に周囲のものをことごとく壊したくなる夜のあり

駅舎より一車両分をはみ出して終はる線路に春がきてゐた

(田中教子 乳房雲 短歌研究社)

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短歌に表現される事柄と作者の実人生は、必ずしも重なるものでないことは、十分承知しているが、病気のこと以外にもハードな人生を強いられているように見える。歌にすることで自分を客観視し、ほかの人に知られても大丈夫というギリギリのところで表現されているのだろう。最後に引用した歌のような「春がきてゐた」というような明るい終わり方の歌を読むと、ほっとすると同時に応援したくなる。

乳房雲  田中教子

2010-09-21 22:50:30 | つれづれ
神の手に乳房落としし我が姿 慣れるしかないひとひらの鬱

虎の背を吹きゆくかすかな風の中 見えない明日を私は生きる

じわじわとのびつづけてゐる犀(サイ)の角 生きるといふは意識せぬこと

隣人の不幸を窺ふやうにして柵に寄りゆくカンガルー一頭

おだやかな眼差しかへすキリンたちいつも遠くが見えてゐるから

乳垂れの銀杏の下をゆく夕べ我に欠けたる乳房を思ふ

アスパラの緑の茂みにひそまりて人目をさけたい冬の一日

動物園の回転扉はじまりもをはりもあらずまはりつづける

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銭湯のやうなしめり気ほのぼのと動物園前駅を降りれば

現(うつ)し世(よ)と隠(かく)り世(よ)の間(ま)をキラキラとひかりつつ降るひなたあめ

薬剤の副作用としてどんよりと重たい身体をひきずる鼠

夕空へとびたちさうなすがたして通天閣に灯がともりゆく

(田中教子 乳房雲 短歌研究社)

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第三回中城ふみ子賞の受賞作「乳房雲」五十首を、巻頭に置いた田中教子さんの第二歌集を読む。
田中さんとは、何度か歌会でご一緒したことがあるが、明るい印象の方で、重大な病気で苦労されたことなど感じさせないパワフルで素敵な女性だ。

実際に、乳がんで亡くなった中城ふみ子の業績を記念して始まった「中城ふみ子賞」の受賞者に乳がんの経験者が選ばれたときには、「つき過ぎ」じゃないの?という思いがよぎったが、実際にその作品を読むと、作者の田中さんが動物園を訪れて、さまざまな動物を観察して歌にしながら、自分の心と向き合い、気持ちを整理し、迷いながらも前向きになっていく過程が読みとれて、受賞されたことも納得できた。
アララギ派に所属しておられて、写実を旨とした歌を学んでおられるので、読みやすくすんなり言葉が読み手に迫ってくる。嫌みがない。
また、歌集の右ページには、縦書きの短歌が、左ページにはその英語訳が載せられていて興味深く読むことができた。
引用した前半の八首は「乳房雲」五十首から、後半の四首は「ひなたあめ」の一連から。

最近の短歌の賞を獲得した作品を読んで、その良さや歌の解釈にわからないことがあり、私の考えややり方は古いのか、どこかずれているのだろうかと感じることがあったが、田中教子さんについては、こころから拍手を送りたい気持ちになった。
彼女は「捨て身」で短歌に立ち向かっている。「夫に気がね」していては、スカっと良い歌が出来ないのは当然!・・・と反省する。

今日の朝日歌壇

2010-09-20 11:29:33 | 朝日歌壇
観覧車回る晩夏の駅にいて呼びもどせないものに手を振る
(相模原市 岩元秀人)

陣痛のあいまに見やる夏花火もうすぐ会えるおまえに会える
(神戸市 小島梢)

病む猫の無心に化粧する朝よ一日延ばしぬ安楽死のこと
(オランダ モーレンカンプふゆこ)

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一首目。作者が思いだしている観覧車は、恋人と乗ったのか、家族と乗ったのか、いつのことかは詠われていない。しかし、観覧車は確かに人の遠い思い出を引き出すものなので、読む方も想像力を刺激される。「観覧車」、「晩夏の夏」が呼びもどせないものへの思いを喚起する。結句、「手を振る」と積極的になっているが、わたしなら「見てゐる」くらいにおとなしくしてしまうだろう。
二首目。お産の前の病院の窓から、花火が見えたのだろう。つらい陣痛に苦しみながら、産まれてくる子どもに会えることの期待を詠って共感を呼ぶ。この夏花火の思いでを、いつか作者は、子どもに話し、親子の思いでになっていく様子が想像される。「会える」を重ねたことが効果をあげている。
三首目。オランダでは安楽死が認められていると聞くが、病む猫であっても同じことなのだろう。猫が無心に化粧する様子から、作者の心に安楽死への戸惑いが生まれたのだろうか。短歌なので「病む猫の」となっているが、「病む猫が」「病む猫も」とする方が、強い表現になるような気がする。

ひるがほ

2010-09-15 00:07:40 | きょうの一首
くつきりと折目ただしく蕾みゐるひるがほのやうな日傘をひらく
(河野裕子 体力)

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河野裕子さんの歌には、よく昼顔と日傘が登場する。『ひるがほ』という歌集もあるくらいだ。
この歌では、「ひるがほ」に至るまで、丁寧に昼顔の描写がされて、そのあと昼顔が日傘になって、ぱっとひらく。「ひるがほ」「日傘」「ひらく」の「ひ」音の重なりが明るい。漢字とひらがなの配分も絶妙。

短歌人9月号 同人のうた その3

2010-09-13 21:19:20 | 短歌人同人のうた
日もすがら水琴窟の音を聴くいつ最高の私を出会う
(武藤ゆかり)

沈丁花匂わば止まる家族より呼びかけられし者の如くに
(渡部洋兒)

ワンピース、ツウピースと数えつつタイの若者鮨握りおり
(岡崎宏子)

びわの木に登れば樹上は子らの天下(くに)飽くなく頬ばり種子飛ばしけり
(石川昭子)

カタカタと鳴るはゴッホの絵ノ具函麦秋の空青澄み透る
(新谷統)

父母逝きて夫も逝きたるわれのこと身軽と言へり鴎が誘ふ
(檜垣宏子)

花札や博打に似合う風体と元より思い力士見て来ぬ
(林悠子)

鉄橋で二人の会話は途切れたり水も草生も夏のきらめき
(木崎洋子)

気が弱くなっているのだ手のひらに食後の薬たしかめながら
(吉岡生夫 吉の字は土の下に口)

山水画にうねりのぼれる径あれば小さき人の歩みが見ゆる
(斎藤典子)

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短歌人同人1欄から。

すっきりとわかりやすい歌が好きだ。


今日の朝日歌壇

2010-09-12 18:42:59 | 朝日歌壇
一二○円の入場券を買う発車するまでの時間を買う
(奈良市 杉田菜穂)

無風の夜眠れぬ子を抱きブランコへここだけに吹く風を求めて
(東京都 黒河内葉子)

百歳の不明者ありて今更に淡きこの世の遠花火みる
(八王子市 三沢愛子)

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一首目。「買う」で終わる事実を二つ素っ気なく並べた歌。句またがりあり、字足らずありで読みにくいが、なぜか魅力がある。下句は8+6=14音で、辻褄はあっている。この不安定さが恋の危うさを詠んでいると思うのは、作者に加担しすぎかもしれない。
二首目。今年は熱帯夜が多かった。その上、風がないと眠れない。ブランコは庭にあるのか、近くの公園にあるのかわからないが、そこまで行く気持ちもわかる。「ここだけに吹く風」というのが素敵だ。
三首目。百歳の不明者と遠花火の取りあわせが良いと思った。
夕べ、死に直面した母親が、家族に囲まれて最期の一日を過ごすというテレビドラマを見た。あれは「テレビドラマ」と思わないと、やってられない。いつどこで死ぬかわからないけれど、それは考えないことにしている。

短歌人9月号 同人のうた その2

2010-09-08 21:10:49 | 短歌人同人のうた
あんず飴買つてきてねと声がする姉の命日すずかぜが吹く
(高田流子)

絵葉書のことば滲みて届きたり整理のつかぬ思ひのやうに
(宇田川寛之)

炎帝が没するまであと一時間 のうぜんかづらは花咲きやまず
(小池光)

単独のメダカ水藻に寄りゐしが二尾加へてよりよく動くなり
(蒔田さくら子)

テロリストにも革命家にもあらず桜桃のジャム甘く煮詰めて
(武下奈々子)

悪くない心地ありたり飼ひ猫がしつとりとわが足を踏みゆく
(岡田悠束)

仕事してる場合ぢやないぞ知らぬ間に八分咲きなるむすめの乳歯
(本多稜)

自打球を当てたる時の悔しさに何処か似ており怒ると言うは
(山本栄子)

ひしひしと闇が押し合うわれの部屋呑まれるまえに灯つけたり
(関谷啓子)

聞く耳を持たぬ人のその耳は次第に小さくなってゆくべし
(岩本喜代子)

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短歌人9月号同人1欄から。

台風のあと、すこしだけ涼しくなった。今夜はエアコンなしで眠れそう。


今日の朝日歌壇

2010-09-06 22:09:01 | 朝日歌壇
失業し金がないから棚経を読みに来るなと電話のかかる
(三原市 岡田独甫)

裕子さんゆうこさんホオズキ朱(あか)く色づきし夏の最中の悲しき訣れ
(富岡市 森平恵子)

パンの耳捨てしを恥じぬみみだけで一日生きしとふ歌人いづくに
(成田市 神郡一成)

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一首目。事実そのままを歌にした即物的な短歌だが、訴えるものが大きい。最近、ニュースで知る高齢者の行方不明や遺骨発見の端緒は、ここにあると思った。
二首目。先月亡くなられた河野裕子さんへの挽歌。選歌をされる永田和宏さんも、評の欄にご自分の思いを書いておられた。河野裕子さんは、それだけ多くの人に愛された歌人だった。歌としては、初句が呼び掛けになっていて十音。「裕子さん」一回だけなら、五音で定型に納まるが、ここは二度呼ばずに居られなかった思いで十音になっている。結句の「悲しき」も、歌会などでは「言い過ぎ」と批判されるところだが、悲しいんだから、それを言っても当然だろう。定型に納まらない思いが、裕子さんの挽歌にふさわしい。

三首目。これは、ホームレス歌人として朝日歌壇で話題になり、その後消息のわからなくなっている公田耕一さんのことだろう。ネットで調べると、
2009年1月5日に「パンのみで生きるにあらず配給のパンのみみにて一日生きる」という歌が掲載されている。

九月に入っても治まらない暑さ、根の深い不景気、いやな予感がして仕方がない。