気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

今日の朝日歌壇

2008-06-30 23:22:14 | 朝日歌壇
寸寸を何と読むかと娘(こ)の問いぬ秋葉原悲しずたずたと読めば
(名古屋市 諏訪兼位)

補聴器は片耳だけにしておいて野のささやきは生で聞きたし
(長野県 沓掛喜久男)

先に逝く夫と決めて妻たちが廻し読みする<おひとりさまの老後>
(筑紫野市 岩石敏子)

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一首目。先ごろの秋葉原無差別殺人事件を題材にした社会詠。これがぱっと歌壇に載るのが、いかにも朝日新聞だと思う。寸寸と書いて、ずたずたと読むとは私も知らなかった。事件そのものも悲しいが、人の心も世の中すべてがずたずたになってきているのが怖い。そういう私もときどき寸寸な気分になるが、犯罪などというエネルギーの要ることをしようとは思わない。そういうときは内にこもるタイプ。この歌でちょっと気になるのは、娘を「こ」と読んでルビを打っていること。実際は娘であっても子とした方が、すっきりするのではないだろうか。
二首目。補聴器を使うと、聞きたい声のほかの雑音が聞こえてきて、つらいという話しも聞く。たしかに、虫の声など自然の野のささやきは、生で聞きたいものだ。
結句、「聞きたし」という願望はよくわかるが、「生のまま聞く」とした方が、歌としては良いような気がする。
三首目。私も知り合いから、この本を借りて読んだ。図書館で予約して待っているといつ読めるかわからないほどの人気本。しかし、家において置くと、夫に「俺が死ぬのを待ってるのか」と因縁をつけられそうで、うっとうしい。これもベストセラーを題材にした社会詠。書名には、二重かっこ『』を使うべきだと思う。

塔の新かな・旧かな特集に関連して、朝日歌壇も、かな使いは「新旧自由」と明記してあった。
私も短歌を始めたころは、よくわからなかったので、新かなを使っていたが、途中から旧かなの魅力に目覚めて、いまは旧かな派。これは今後もずっと変わらないと思う。ゑ、ゐ、ふ・・など旧かなでよく使う文字のやわらかさに惹かれている。・・・と言いつつブログの文章は、とりあえず、わかりやすいように新かなです。

画像は季節の花300のサイトからお借りしています。
「隅田の花火」という名前のアジサイだそうです。

上野千鶴子『おひとりさまの老後』読む 二人でゐてもひとりとひとり
(近藤かすみ)

天泣 高野公彦歌集 つづき

2008-06-25 15:45:06 | つれづれ
一つありし求肥(ぎうひ)を食ひて くきやかに<無>があらはるる夜の白き皿

天泣(てんきふ)のひかる昼すぎ公園にベビーカーひとつありて人ゐず

雷(らい)鳴れば鳴る方を見て教室のわが少女らは敏(さと)き水鳥

六月の滝のほとりに滝守のごとく日すがら濡るる羊歯の葉

母は亡く臍の緒も無しゆでたまごむきつつ思ふ伊予灘の青

月の夜をひつそりあらむなきがらのまだ入らざる白木の柩

滝、三日月、吊り橋、女体、うばたまの闇にしづかに身をそらすもの

(高野公彦 天泣 短歌研究社)

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高野公彦の歌はしんとしていて、叙情を感じさせて、読んでいて楽しい。
一首目。求肥はわたしも好物なのだが、食べた後に現われる皿の白が鮮やか。物がなくなるだけでなく<無>があらわれるという発想が痛快。
二首目。題にもなっている天泣は、雲がまったく見えないのに、雨または雪の降る現象を言う。このベビーカーには、赤ちゃんがいるのかどうかわからないが、天が泣いているという言葉とのつながりを感じさせる。あくまでも静かな光景を思うがどうなのだろう。
三首目。わが少女は、作者の勤務している女子短大の生徒のこと。敏き水鳥がうまい比ゆ。五首目。突如出てくるゆでたまごのつるりとした感触が、初句二句とよく合っている。そして結句は伊予灘の青と意外な展開になっている。
七首目。身をそらすものとして、いくつかあげていて、最後は女体。高野公彦の歌を読んでいて、何歳になっても「男性の目」を感じてしまう。まあ芸術として昇華されてるからいいんですが…。

銀紙を剥がしてチョコをもうひとつ食べる ぎんがみ一枚を生む 
(近藤かすみ)

今日の朝日歌壇

2008-06-23 20:12:41 | 朝日歌壇
人生が全部本番だったこと目まいのように夏茱萸(ぐみ)の花
(新座市 中村偕子)

早苗饗(さなぶり)の果てし厨にただ音す八人家族の食器洗機
(山形県 高橋まさじ)

携帯の「圏外」すこし嬉しくて地下一階の哲学講義
(京都府 敷田八千代)

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一首目。人生にリハーサルはなく、全てが本番だったことを思うとめまいがするようだというわかりやすい一首。結句に夏茱萸(ぐみ)の花を持ってきて、詩情を添えている。
二首目。早苗饗(さなぶり)という言葉を知らなかったので、辞書で調べると、田植えを終えた祝いのことで、夏の季語である。都市生活者にとっては、想像するだけの世界だが、自然に触れて収穫を得るという楽しみも、労働の厳しさもあるのだろう。そのあとの食事はさぞ美味しいのだろう。食器洗浄器が、農作業のあとの家事を軽減してくれている。八人家族というのは、にぎやかで幸せなのだろうか。人間関係が濃そうで私は耐えられそうにない。農家の人みんなが立派に見えてしまった。歌については、早苗饗(さなぶり)という季語をうまく使っているのが良いと思う。
三首目。携帯電話を持っていると、いつもどこかから掛かってこないか気になって、それにすぐ返事しなければならないプレッシャーがあって大変らしい。だから要らないね・・・とうちの家族は言う。はい、要りません。私は退屈な日常が好きなのです。話が逸れました。歌は、下句の地下一階の哲学講義の「硬さ」が効果をあげている。俗世間?から離れてさぞ講義に集中できただろう。

携帯を持たずに咲いて月見草時間長者のいまをたのしむ
(近藤かすみ)