気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

鴨脚樹

2008-11-28 01:56:21 | きょうの一首
死ぬひとと死なないひととゐるやうな気がする鴨脚樹(いちやう)並木ゆくとき
(魚村晋太郎 花柄)

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ああ確かにそうだと思わせる納得の一首。何の根拠もないが、死にそうにない人がいる。
でも、若林のぶさんも、宇野千代さんも亡くなった。死にそうにない人もいずれ亡くなってしまう。
夜半、降り出した雨で、黄葉したイチョウも散っているだろう。
イチョウは、銀杏、公孫樹などいくつかの書き方があるが、鴨の脚の樹というのも、葉の形からなるほどと思わせる表記。

日曜も働く夫、泳ぐ妻いちやうの黄金(こがね)はひと色ならず
(近藤かすみ 吟詠辞典)

きのうの朝日歌壇

2008-11-25 18:31:23 | 朝日歌壇
教員かホストになるかで迷う学生(ひと)サービス業どうし矛盾はないと
(東京都 稲葉みよ子)

舞茸のひとひらほどの左手にどんぐりみっつ握られており
(高槻市 有田里絵)

ときをりに立つ砂ぼこり駱駝曳く少年が乗れと眼でせがみをり
(鹿嶋市 加津牟根夫)

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一首目。教員とホスト、異質の職業かと思っていたら、両方ともサービス業という分類になるらしい。目からウロコの落ちる思いで読んだ。学生に「ひと」とルビをふるのは無理な気もするが、そういう無理なルビの作風で押していく人もいるので、これも歌人の個性だろうか。いっそ「やつ」とルビをふっても面白いかもしれない。
二首目。子供の小さく薄い手のひらの喩えとして舞茸は新鮮。舞茸自体が新しい種類のきのこだ。「ひ」が三回出てくるところ、みっつの具体も良いと思う。
三首目。海外旅行のときの歌だろうか。砂地を駱駝で歩くのは、ロマンティックなイメージがあるが、少年にとっては切実な仕事なのだ。
連休に旅に出ていたので、朝日歌壇の寸評がおそくなってしまいました。

海へ行きます

2008-11-20 20:28:27 | きょうの一首
どなたさまか醜きものを美しくして下さるといふ海へ行きます
(若林のぶ 葉山暮色)

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今日届いた喪中欠礼のハガキで、若林のぶさんのご逝去を知った。一月二十九日に亡くなられたようだ。享年八十一歳。
若林のぶさんは、関西歌会の忘年歌会や、全国集会で何度かご一緒した。大きな声でしっかり話しをされる方で、こんな風に年を重ねたいと思っていた。わりと最近、短歌人会を辞められたとは知っていたが、こんなに早く訃報を聞くとは、本当に残念である。
以前、短歌人誌に「わたしは誰でしょう」という企画があって、同人会員の昔の写真から誰かを当てるクイズになっていて、当たった人には本人から賞品が送られる趣向だった。私はこの企画で、若林のぶさんを当てて、歌集をいただいた。その後、年賀状のやりとりをしていたので、遺品を整理されたご遺族から、私にも連絡があったのだと思う。歌集は、全部で八冊か九冊出しておられるのではないだろうか。

「趣味を通じ楽しく対話するなんて馬鹿馬鹿しくはないのかどしや降り」
「倚りかかつてもいいのぢやないのこのベンチ不都合な事は一つづつ終る」
「まだ生きてゐるのかと問ひく汁碗の蜆うつすら眼を開き」
「どこからが肉体なのだ秋の夜をしみじみ揉みぬ掌二枚」
「献体の登録終へぬ一八一○番(いちはちれ)首よりさつさと持ちゆきやがれ」

といった潔い歌に、私は励まされ、憧れて来た。
もう会えないんですね。のぶさん。海へ行っちゃったんですね。
安らかに。

今日の朝日歌壇

2008-11-17 20:59:52 | 朝日歌壇
両頬に胡桃を入れて走る栗鼠ロスの栗鼠らは冬眠せざりき
(舞鶴市 吉富憲治)

天麩羅のあつきころもにつつまれる一膳飯屋の海老のかそけさ
(掛川市 村松建彦)

この秋の花を終えたる金木犀庭木の中に戻りてゆきぬ
(西東京市 中村敬子)

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一首目。作者の吉富憲治さんは、以前アメリカに住んでおられたと思う。朝日歌壇ではお馴染みの名前だ。だから結句が回想の「き」で終わっているのだろう。「・・走る栗鼠ロスの栗鼠らは・・」のリズムが絶妙。ロサンジェルスの温暖な気候が冬眠しない原因だろうが、栗鼠の働きぶり、常にちょこまかと働いている様子が人間を思わせる。それなのに餌を蓄えた場所を忘れたりして、これも人間に似ている。
二首目。一膳飯屋というのが、なんとも懐かしい。そういう庶民的な食堂の海老は本体が小さく衣がぶあついのだ。漢字とひらがなの配分のうまい歌だと思う。
三首目。金木犀の花は独特の強い匂いを発するので、存在感がつよい。その花の時期がおわると、ひっそりと庭木に紛れてしまう。いままでソロで歌っていた歌手がコーラスに戻ったような感覚。「戻りてゆきぬ」と表現したのが巧い。

大皿に天ぷらいつぱい揚げし日は遠くなりけり七時のニュース
(近藤かすみ)

ひきだし

2008-11-15 19:59:20 | きょうの一首
ひきだしを引けど引けざりすぐそばに隠れて見えぬものにくるしむ
(森岡貞香 百乳文)

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難解な森岡貞香の歌にしては、一読でわかる歌。ひきだしの中がゴチャゴチャしているのだ。何かがひっかかって引き出しが引けない。二句切れで、三句以下を見ると、これがなかなか哲学的。「すぐそこに隠れて見えぬもの」とは何だろう。身体に巣食う病気かもしれない。身近な人間の悪意かもしれない。そう思って読むと、深いものがある。
さて、引き出しの歌を言えば、こんな歌もある。
抽出しにたしかに入れたたぶん入れたおそらく入れた入れたと思ふ
(香川ヒサ テクネー)
抽出しはみな少しずつ開いている真昼の部屋に入る蔓の先
(花山多佳子 楕円の実)
女性歌人は、整理が得意で抽出しの中はきちんと片付いているのだろうか。どうもゴチャゴチャしていそうだ。そういう私もゴチャゴチャ派。しかし歌が諸先輩に追いつく日はなかなか来そうにない。

思ひ出せぬことのまはりの引き出しをつぎつぎ開けて暮らす秋の日
(近藤かすみ)

「風通し」創刊

2008-11-13 23:59:06 | 交友録
短歌人の仲間、斉藤斎藤くんが、新同人誌「風通し」を創刊されます。
どんなんかな~?

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「風通し」創刊

説明しよう

●「風通し」とは、一号ごとのメンバーで一号ごとに企画を立ち上げる、
一期一会の「そのつど誌」である。

●第1号の企画は、連作歌会である。

●メンバーは30首の連作を提出し、
インターネットの掲示板でおよそ一ヶ月にわたる
血みどろの相互批評を繰り広げた。

第1号メンバーは

 我妻俊樹
 石川美南
 宇都宮敦
 斉藤斎藤
 笹井宏之
 棚木恒寿
 永井 祐
 西之原一貴
 野口あや子

の9人。


B5版100ページ。
定価1000円(送料込、振替手数料は別)です。

お申し込みは

kaze104@gmail.com

まで。

メールの件名は「風通し購入」とし、

1)お名前
2)ご住所

をお知らせください。
折り返し、お支払方法などお知らせいたします。

よろしくお願いいたします。

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佛飯

2008-11-11 23:53:57 | きょうの一首
朝かれひをはるころ雪の乱れては鳥に佛飯を投げるやう降る
(森岡貞香 百乳文)

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『百乳文』は森岡貞香の第六歌集。これを読みはじめているが、難解。歌の調べが定型に収まらず、わざとひっかかりや「のめりこみ」を作っているようで、すんなり読めない。
あとがきには、「短歌の虚構性をいうことについて、考えることは多々あるのだが、定型とそこに置かれる言葉と言葉がお互いにのめりこみあう、といったところに関心がある」と書いてある。
掲出歌は、朝食の終わるころ雪がたくさん降ってきて、まるで鳥にあげる佛飯のようだ、と読める。読み自体はわりとわかりやすい。佛飯は、仏壇に供えたご飯。これを「お下げ」して来る。冷えたり、干からびていれば、勿体ないが捨ててしまうこともある。鳥の餌にするのは、まことに正しい処理の仕方だと思う。食パンの耳を鳥に投げてやるのに似ている。雪がぼたん雪で、大きかったので、佛飯という言葉が出てきたのだろう。生活に密着した比喩だと思った。作者が真っ当に暮らしているのが読み手に伝わる。
ちょっと季節外れながら、取り上げてみました。


今日の朝日歌壇

2008-11-09 22:52:53 | 朝日歌壇
白菜の苗八方に葉を広げ陽を閉じ込める準備を急ぐ
(蒲郡市 古田明夫)

パソコンの向こうにひとがいるんだとアイスクリーム食べて深呼吸
(小平市 萩原慎一郎)

夜の雨 まだ雨である安堵さで心を音の受け皿にする
(北海道伊達市 今 奈奈)

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一首目。店で売っている白菜しか見ることはないのだが、畑にある白菜はこの時期、出来るだけたくさんの陽を浴びるように葉を広げるのだろう。収穫される前の白菜の様子を思い出させてくれる歌だ。
二首目。パソコンに向かっていると、その向こうにものすごい数の人がいることを忘れてしまいそうになる。こうしてブログに文章を書くと、不特定多数の人に読まれる可能性があるのに、ついプライベートなことをおしゃべりしたくなる。実際、自分自身のこと、家族のことを垂れ流し的に書く日記は多い。またそれをついつい読みに行ってしまうのだが・・。ときどきは冷たいアイスクリームを食べて、深呼吸して、冷静にならなければいけない。
三首目。この歌だけでは、ちょっと意味をつかみかねるのだが、作者の住所が北海道であることから、雪の季節が間近であることが伝わってきた。雨なら音がするが、雪はほとんど音がない。雪が積もると周りの音を吸収して、本当にしんと静かになってしまう。「安堵さ」という言葉にすこし違和感があるが、「心を音の受け皿にする」という表現が新鮮。

だれにでも裸体をさらすマネキンのやうな日記をまた読みに行く
(近藤かすみ 題詠マラソン2004)

蟲のゐどころ 植松法子歌集 つづき 

2008-11-08 01:14:03 | つれづれ
ひとりなるホテルに聖書取り出して羊を一匹づつ放ちやる

「帰るとは心の吹雪」拾ひたる小石を捨ててそこより家路

葉洩れ日を稚鮎のやうに走らせて春をさらさら流るる歩道

333333と博物誌の日ざかりをゆく蟻の行列

歯に沁みるまで冷やしたる塩らつきよう噛みてひとりといふ桃源郷

鳩居堂に春のはがきを選びをりなづな菜の花おのおの三枚

蝶になる夢を見たのか人になる夢を見てゐた蝶だつたのか

(植松法子 蟲のゐどころ 角川書店)

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きのうの続き。いまの日本では、家族と一緒に居ることが幸せと思っている人が多数派。しかし植松さんは、家路につくことに決意が要るような気配で、ひとりで居ることを桃源郷と言っている。なかなか含蓄が深い。どういう経緯でこういう心境になったかは聞くまい。鳩居堂ではがきを選ぶところなど自分の姿を見ているよう。しかしこんなにうまく言い表せない。何度も読み返したくなる歌集だ。

蟲のゐどころ 植松法子歌集 

2008-11-07 00:58:52 | つれづれ
つかみそこねし夢のしつぽが見えさうな 薄らあかりにまなこを閉ざす

昨夜の雨たつぷり吸ひて褐色の千の茸のたてる聞耳

形而下のことがたいせつ夕されば鯖の頭(づ)おとし菊花をむしる

ゆく夏の光あつめて蝶を曳く蟻に寄り処のある羨しさよ

わが家の苦虫いら虫エヘン虫ゐどころややによろしき日なり

青葉闇ぬつて聞えるほととぎす帰るといふことこんなにさみしい

(植松法子 蟲のゐどころ 角川書店)

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植松法子の第一歌集『蟲のゐどころ』を読む。この歌集は、60歳以上で第一歌集を出した人に与えられる筑紫歌壇賞を受賞している。今年は第五回目。前回の受賞者は、短歌人の先輩である木曽陽子さんの『モーパッサンの口髭』だった。
植松さんは、水瓶の同人。人生経験が豊富なだけあって、歌の中に表れる発想の柔軟さに心を動かされた。
一首目。目覚めのときのもやもやを「夢のしつぽ」と捉えたのが面白い。
二首目。茸という字には、耳がある。それが千もあって聞耳と立てているという発想が愉快。
三首目。理屈言ってないで、とにかくご飯ご飯。食べたら気分も変わる。
四首目。寺山修司の「夏蝶の屍をひきてるくる蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず」を思い出す。蝶には寄り処があって作者にはないのだろうか。その気持ち、よくわかる。
五首目。この歌集には虫がたくさん出てくる。エヘン虫まで出てくる。下句の言い回しにユーモアがある。
六首目。下句は作者の本音だろうか。歌集を通じて出てくるさみしさ、孤独を愉しむ心情に共感する。