気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

窓に寄る 中野昭子 

2016-11-10 14:31:20 | つれづれ
両の手をまつすぐあげてバンザイをくり返すとき運動となる

羽音して見上げたるとき鳥の足が胴のなかへと引き寄せられる

やや暮れてきたるしづけき水面の花を真鯉が吸い込みたりき

この椅子は古くなりしかば日向にて猫が眠りにくるときをまつ

犬用の紙おむつゆゑあいてゐる小さき穴に尻尾を入れる

あらあらと言ひつつわれの転びたるをわれは笑ひて娘わらはず

酸欠の鯉のくるしき顔思ふ夜(よ)のまだあけずまだ夜(よる)あけず

同じもの喰はせ育てし娘ふたりチンパンジーとオランウータン

明け方を父と思へば母もまたあけがた逝きし朝顔のあさ

上下させ見むとしみたる天眼鏡やつぱり見えぬ父の戦争

(中野昭子 窓に寄る 角川書店)

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中野昭子の第六歌集『窓に寄る』を読む。

中野さんとは「鱧と水仙」でご一緒している。先日もある会で会ったとき、目の悪くなった私に寄り添ってくださり、本当にやさしい方だと思った。こういう接し方をしてくれる人は身のまわりにいない。

さて、歌はとぼけた感じである。二首目のバンザイの歌に特徴がよく出ている。中野さんならではの「味」がある。こういう歌をつくる人は貴重だ。六首目、七首目もそうだろう。六首目は、作者が転んだことについて、自分の感覚と娘さんの感覚のちがいを表している。本人にとっては、「あらあら」であっても、娘さんにとっては介護の入口かもしれない。
この歌集では、十八年間を一緒に暮らした犬のゲンちゃんの死が、丁寧に描かれている。猫もよく登場する。ペットを飼ったことのないわたしには、犬用のおむつに尻尾用の穴のあることなど知らなかった。これに目をつけて歌にするところが面白い。
二首目。鳥の足、動いている鳥の細かいところが本当に見えたのだろうか。三首目の真鯉は、花を吸い込んだのだろうか。そこは問題でなく、そう言ってしまえば歌になる。心の目で見たのかもしれない。読者は信じるしかない。
また、七首目の下句の表現の繰り返しに注目した。夜中に目が覚めて眠れなくなった感じがよく伝わる。他にも繰り返しのコトバがよく使われていた。作者の意図があるのだろう。
十首目には、「父の戦争」という言葉がでてくる。以前の歌集で、お父さまの、戦争とそのための足の障がいの歌があった。永遠に「詠わずにいられない」テーマなのだ。



心と舞 角谷喜代子 

2016-11-09 00:46:54 | つれづれ
無意識に数えて歩く公園の柵の杭今日は一本足りない

駅五つ向こうに決まりし子の新居かかる距離もて暮らさんとする

賞味期限とうに過ぎたる卓上の七味唐辛子やっぱり辛い

ここからは本音の話コーヒーに落とすミルクの描く渦巻き

胎内に巴の形にありし子ら一対の光となり現るる

些細なる束縛のひとつ髪留めを外しゆっくり横たわるなり

証明できる何も持たねば私でない私がいる郵貯窓口

クロスワードの枡目埋まらずそれはそれ夕餉の秋刀魚を焼く時間なり

自然死と言える義父母のよき死なり街川ゆるりと花筏ゆく

バス、こだま、地下鉄、南海電車経て降り立つ雨の羽衣の駅

七人家族の時経て減りたり秋鮭の二切れパック買いて戻りぬ

(角谷喜代子 心と舞 本阿弥書店)

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好日所属の角谷喜代子の第二歌集『心と舞』を読む。角の字は、クの下に用だが、「角」の字しか出ない。すみません。

角谷さんとは、数年前に香川ヒサ氏のカルチャー教室で一緒だった。歌はわかりやすく、歩んできた人生そのものが載っている。歌から実人生を推測して間違いはないだろう。「長男の嫁」として七人家族を支えた。集題の『心と舞』は、双子のお孫さんの名前から取られている。三人のお子さんの結婚、百歳近い義父母の看取り、遍路の旅・・・とずっと専業主婦として生きてこられた。短歌が唯一、はみ出したことだったのだろう。こんな立派な昭和的な生き方もあるのだと、大変だっただろうなあ、と感心した。
しかし歌のなかでは、一首目の「一本足りない」や六首目の「束縛のひとつ髪留め」と、本音が垣間見られる。ここに安堵すると共に、歌に託すテクニックを持った歌人だと思った。三首目の七味唐辛子の歌はモノの真理を言って鋭い。
四首目は、初句二句でズバリと言っておいて、コーヒーにあとを託す。渦巻きが、後は流れに任せる気持ちを上手く暗示している。八首目では「それはそれ」として、主婦として食事の支度にかかる。とてもよくわかる。十首目は、結句の羽衣の固有名詞が効いている。

いままで角谷さんとそんなにゆっくり話をしたこともなかったが、歌集を読んで彼女の人生がわかった気がした。そして、歌のうまい人なんだと改めて思った。これからは、優等生はやめて、もっともっと踏み外して生きてもいいんじゃないだろうか。いつの間にか、主婦であることから外れてしまった私の素直な感想である。

うたがたり 小谷博泰 

2016-11-02 13:00:53 | つれづれ
ゆで卵の殻をむきつつ一人なり旅の朝はやき駅前のカフェ

いちめんに広がる海と思いしが眼鏡して見ればただのすりガラス

日が暮れて二つの月が浮かびおりうしろの月にありしふるさと

天国の花屋ならねど棚ごとに冬のビオラが咲きあふれおり

川底を這うている蟹を見下ろせばわれを見上げて笑う顔あり

縄とびの波のしだいに速くなりころがって出たわれは白髪

大橋の六間通りの夜鳴きソバ屋ときどき狐のしっぽが見える

仏壇の奥に金色(こんじき)の都あり役(えん)の小角(おづぬ)が空を過ぎゆく

こなごなに鏡が砕け散ったとき何百となく僕の飛び散る

夜深く覚めれば雨が降っている耳鳴りのなき静かさのなか

(小谷博泰 うたがたり いりの舎)

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結社「白珠」同人、「鱧と水仙」同人の小谷博泰の第九歌集『うたがたり』を読む。

一年ほど前に歌集を出したところだが、歌が溜まったので次の歌集を出すとのこと、羨ましい限りである。歌そのものはすんなり読めて、わかりやすい。それぞれの連作にストーリーがあり、作者の顔がほの見える。
たとえば、五首目。蟹と目が合ったと読んでまちがいないだろう。結句に「笑う顔」とあるのが面白く、作者の自意識が出ている。九首目の下句にも、作者があらわれる。割れて砕けた鏡の欠片に自分の姿が何百もあるとは、恐ろしい。作者自身が崩壊する感覚。十首目では、耳鳴りに悩まされている姿が想像できる。
七首目の「狐のしっぽ」、九首目の「仏壇の奥」など、作者自らの想像、妄想?の世界がひろがる。あるときはユーモアを醸しだし、また土着的な不思議な世界を展開している。