気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

メメント・モリ

2005-09-30 22:15:17 | つれづれ
アカルイが含まれているアルカイダ明るく楽しく街を壊せり

年齢をより若くする化粧品をリフォーム詐欺の一種とおもう

メメント・モリ、メメント・モリと繰り返せば森進一が泣いているようだ

(松木秀 短歌人10月号)

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短歌人10月号を読みすすむ。このごろ、松木秀さんの日記を毎日読んでしまう。
これは春畑茜さんのブログ経由で読むようになった。
一首目。カタカナ書きの「アカルイ」の持つ意味を考えさせる。
二首目、三首目、発見の歌。確かにそうだと共感する。森進一ってこのごろずっと泣いているイメージ。

ところでネットの日記やブログは、微に入り細にわたり自分のことを書くものらしい。すると、不特定多数のうちの一人になってしまうので、却って本人が特定できない。私はブログを書いてだれかに読んでもらいたいと思う反面、自分のこと(家族のこと)を垂れ流し的に書くことに抵抗がある。短歌関係以外の知り合いに、近藤さんって、こんなこと考えているんだ・・・と言う読まれ方をすると困る。だって、私は「あの近藤さんの妻」で、夫は「あの近藤の夫」なんだよ。


本当はちがうんだ日記 穂村弘

2005-09-28 22:04:59 | つれづれ
恋人が凍りつくわがはつもののしらがはなげを手渡した朝
(穂村弘)

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穂村弘「本当はちがうんだ日記」(集英社)を読む。
現実に馴染めなくて、40歳代になりながら独身で主食は菓子パンだったという穂村さんも、歌人・エッセイストとして着々と活躍。この本の172ページに「・・・、妻が私の手元を指さしている。」というのがある。あ、よしだかよさんだ。そう言えば、ミナト点鼻薬というのがあったが、このキャラクターが穂村さんそっくり。髪型はちょっと違うけど。

うちはまだ短歌人10月号届きません。「届」で一首作らんとあかんけど届かへん。

悪茄子

2005-09-27 20:20:22 | つれづれ
はつ夏の湖面のごとき灰皿に煙草の尖はしづかに触るる

悪茄子の花になりたしこの夏を食べて寝てひとの歌をけなして

すでにもう大きく負けてゐるやうで風にさやげる樟の木に寄る

(栗木京子 木でありし日の 短歌10月号)

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短歌10月号の巻頭グラビア、栗木京子の写真と歌を楽しむ。
すべて手に入れたように思える彼女が「負けてゐる」というのも妙なのだが、このひとはこういう言い方をする。ポーズをとっているのだろう。

夕方、テレビを見ていて「ブログ」のことを取り上げていた。「ブログは簡単な日記」という切り口で、育児日記のようなものをつけている人を紹介していた。自分のことをあれこれ書いて、さあどうですか・・・というスタンスが人気があるようだ。写真を出して情報漏れとか、気にならないんだろうか。子供が誘拐されたら、どうするの?「自分のブログ作りに夢中だけど、親や夫の親には見て欲しくない」と言う声もあった。

私は同年代の人のブログを見て、その「普通」っぷりに感心したり、私ってダメだと思うことがしばしばある。ホントのことじゃないかもしれないのにね。
(画像は悪茄子 季節の花300のサイトからお借りしています)


今日の朝日歌壇

2005-09-26 21:24:20 | 朝日歌壇
早々に骨粗鬆症になりました早口言葉のごとき文来る
(明石市 材木強子)

箱に生れ箱に育ちて鈴虫はひと秋鳴きて鳴きて死にたり
(横浜市 笠松一恵)

眼鏡屋に眼鏡をえらぶ文庫本茂吉の歌のるび読みながら
(山形県 佐藤幹夫)

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一首目。骨粗鬆症という言葉の音は、確かに言いにくい。その上に「早々」にとつけてますます言いにくくしておいて、早口言葉にしたのが面白い。また作者の名前が、材木強子さん。なんと言う符合。

二首目。箱の中で一生を終える鈴虫。井の中の蛙と言うが、それも良いのかもしれない。「鳴きて」の繰り返しが強く読む人に訴える。

三首目。作者が眼鏡を誂えるとき、試しに茂吉の文庫本を読むというのが短歌好きらしくて好ましい。るびは「ルビ」とカタカナなのかと思っていたが、ひらがなでも良いのだろうか。

夢冷え 大塚寅彦

2005-09-25 23:08:42 | つれづれ
夢冷えの秋の未明や独り身に老いてゆくこと行(ぎやう)にかも似む

アカリウムあかねさす夏暮れゆくを水母ら透ける身を重ねあふ

白き肌きはだたすため喪の色を纏ふ女人か水母なす日傘(かさ)

(大塚寅彦 夢冷え 短歌10月号)

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秋の日は短く、朝寝坊するとすぐ日が暮れる。
夢冷えという言葉をはじめて知った。綺麗な言葉だが造語だろうか。「夢冷えの秋の未明や」でノックアウトされる。
アカリウムは水族館(aquarium)のことだろう。あかねさすと対にしたいために、アクアリウムとせずにアカリウムにしたのだと思う。
あわあわしく夢のように美しい歌。

薄墨を流せるごとく秋の日は暮れて家路をゆく人を押す
(近藤かすみ)


短歌10月号

2005-09-24 19:10:36 | つれづれ
つつましき花火打たれて照らさるる水のおもてにみづあふれをり

(小池光 バルサの翼)

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角川書店の短歌10月号を買う。完全保存版大特集小池光。
近所の書店には置いてないし、取り寄せて待たされるのはイヤなので、出かけたついでに探す。その本屋は、よく名前の変わる店だ。短歌・俳句の棚を見ると、単行本の歌集は一冊もなく、文庫本の「サラダ記念日」「現代の短歌」「俳句歳時記」などが並んでいる。平積みもない。情けない。とにかく、この10月号があってよかった。

題詠マラソン2005(71~75)

2005-09-23 23:29:12 | 題詠マラソン2005
071:次元
水中と陸上 次元が違ふから人は意識を変へねばならぬ

072:インク
何もかも揃はぬと怒るパソコンがインクを買ひに行けと夜更けに

073:額
両の眼を飾る額縁つなぐため鼻梁を渡る飴色の橋

074:麻酔
麻酔より還るあなたを待つ夕べゆりの花びんをもとにもどそう

075;続
「継続は力」と信ずる夫の頭をななめうへから見てはならない

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75番の歌の三句目は「つまのづ」と読んで欲しいのだが「おっとのあたま」と読む人が多いだろう。
短歌特有の言葉使いは、わかりにくい。それなのに、こういう言葉を選んだとき「この世界に慣れてきたのね」という自己満足があったのかもしれない。
ところで、育毛促進剤は効くのか効かないのか?おそろしくて言えない。



現実入門 穂村弘

2005-09-22 21:58:27 | つれづれ
さみしくてたまらぬ春の路上にはやきとりのたれこぼれていたり
(穂村弘 現実入門)

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穂村弘のエッセイ「現実入門」を読みはじめる。
短歌に興味を持ち始めた2001年ころ、日経新聞の穂村さんのエッセイを楽しみに読んでいた。
「このばかのかわりにあたしがあやまりますって叫んだ森の動物会議」という歌に感心し、これなら私だって、出来ないことはないと妙な勇気を持ってしまった。それがこんな深みにはまるとは、当時は思ってもいなかったのだが・・・

てのりくじら 枡野浩一

2005-09-21 22:28:02 | つれづれ
無理してる自分の無理も自分だと思う自分も無理する自分

結果より過程が大事「カルピス」と「冷めてしまったホットカルピス」

野茂がもし世界のNOMOになろうとも君や私の手柄ではない

(枡野浩一 てのりくじら 実業之日本社)

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先日、ブックオフで「てのりくじら」を105円で入手。定価は1000円。すでにどこかで読んだ記憶があるが、それはだれかにあげてしまってわからなくなった。装丁が可愛い本なので、つい買ってしまう。枡野短歌には本質をぐっと突く歌がある。COOL!

ときどき人に「無理してませんか?」と尋ねられる。だけどやりたいことならやっぱり無理してしまう。出来たら無理じゃなくなるから。


今日の朝日歌壇

2005-09-19 22:52:44 | 朝日歌壇
炎天を咲きつぎ咲きつぎひおうぎのゆっくりとぬばたまとなりゆく
(新潟市 太田千鶴子)

逝く者を逝かしめ月はゆるゆると山より出でて山に沈みぬ
(夕張市 美原凍子)

新しき藁焼く匂い夕暮れにひそひそ秋は地を這うて来る
(徳島市 上田由美子)

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一首目。ひおうぎの花が時間をかけて、黒い艶やかな実になっていく様子がゆったり詠われている。下句は句跨りでひっかかりがあるがそれにも妙を感じた。われわれ女性もゆっくり咲きついで行きたい。
二首目。人の死を、月の出入りという自然の現象にうまく仮託していると思う。
三首目。藁を焼く匂いを知っているような知らないような気がするが、自分の嗅覚に定かでない感覚をも刺激される。下句の「ひそひそ秋は地を這うて来る」が良い。作者が徳島の方だし、「這うて」は「ほうて」なのだろう。
田畑、山、海といった自然のものに、子供のころあまり触れて来なかった私には、うらやましいような歌。自然のものはテレビで見ただけのようなかすかな記憶しかなくて、テレビのことはよく覚えているのだ。