気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

今日の朝日歌壇

2008-03-10 20:01:44 | 朝日歌壇
根気よく優しく猫に嫌がらせせよとの区報猫ならねど嫌
(横浜市 松山紀子)

触れゆくも触れざるもあり咲き長けし紅梅めぐり淡雪しずか
(福岡市 宮原ますみ)

「空きを待つ」その空きの意味思いけり特別養護老人ホーム
(銚子市 小山年男)

************************

一首目。横浜市の区報には、そんなことが書いてあるのかと妙に感心した。つい猫のところを人と入れ替えて読んでしまいそうになる。結句は、作者の心情なのだが、言いすぎの感がある。「回覧板に」とか「隣りよる来る」とかするとどうだろうか。
二首目。綺麗な歌。触れゆくもの、触れざるものが、人であるようにも読める。紅梅と雪の色の対比が美しい。
三首目。特別養護老人ホームの空きは、入居者の死を意味するのだろう。先日、70代の女性と話しをする機会があったが「85くらいまでば、なんとか家で過ごして、あとはホームのお世話になって5年くらいかな」と軽くおっしゃる。そんなものかもしれない。返事に困ってしまった。

ホームとは家庭とふ意味その人の住みよきホームであれよと願ふ
(近藤かすみ)

ごく自然なる愛 小島ゆかり歌集 つづき

2008-03-09 22:20:07 | つれづれ
どしやぶりを避けて入りたる中華店じやんじやんじゆッと火を使ひをり

「死ぬときは一緒よ」と小さきこゑはして鍋に入りたり蜆一族

うやむやにしてやりすごすこと多しうやむやは泥のやうにあたたか

秋天(しうてん)に一脚の椅子置かれありものおもふ神の空席として

糞をする犬をつつめる陽のやうなごく自然なる愛はむづかし

(小島ゆかり ごく自然なる愛 柊書房)

*************************

小島ゆかりの歌集のつづき。
一首目。中華料理店の勢いのある様子が伝わってくる。「じやんじやんじゆッと」が実感があって、うまい。思い切りがよい。
二首目。想像力の豊かな食べ物の歌。蜆やあさりは好物だけど、思えば残酷な料理だ。ふだんから料理している人だからできる歌だと感じる。
三首目。これもよくわかる歌。もう綺麗事では済まされない状況なのだろう。
四首目。綺麗なうた。神の空席というのにエスプリを感じる。
五首目。歌集の題にするのだから、作者の気に入った歌なのだろう。わたしには、もうひとつピンと来なかった。歌に糞という言葉を使うのが、まず照れくさい。犬も猫も飼ってないからわからないのかもしれない。

飼ひ犬が死ねばその日はちよつと泣き次をさがすとあの人は言ふ
(近藤かすみ)

ごく自然なる愛 小島ゆかり歌集

2008-03-08 01:16:41 | つれづれ
今日の日はおほよそよろしよろしさをふくらませつつとろろ芋擂る

どの角を曲がりても同じ猫がゐてこの春昼の路地を出られず

われを出てもつとも遠くゆく者よ五月の朝の紺の制服

午後四時の鐘鳴ればとほく顔を上ぐ少女のわたし老女のわたし

思春期にわがあやしみしもう一人のわれも年古りいたく親しむ

洗顔の水に目鼻を取り落とすあやふさ朝の窓澄みわたる

(小島ゆかり ごく自然なる愛 柊書房)

************************

小島ゆかりの第八歌集を読む。
一首目。小島ゆかりは根っ子のところで楽天的な人だと思う。よろしよろしと重ねて考えを前向きに持っていこうとしている。結句においしそうなとろろ芋を持ってきたのが意外だが巧み。
二首目。迷路をさまようような感覚。猫を配置することで、それが増幅している。春の昼ならありそう。
三首目。娘さんのことだろうが、初句の「われを出て」にはっとする。そう、産んだ子供はみな「われを出て」いるのだ。驚くような表現。それが最も遠い存在に思えることがある。よく知っているだけに、子供の成長はまぶしくうれしいが、さみしさもある。
四首目、五首目。自分の中にもうひとりの自分がいるという感覚をもって、この人は暮らしているのだ。自らを俯瞰する感覚にわたしは共感するが、これを絶対にわからない人も多い。歌を作るひとは、ほとんどこの感覚を持っているだろうが・・・。
六首目。顔を洗っていて、目鼻を落とすなんてあり得ないのに、不思議なことを思う人だと感心する。身体感覚が鋭敏なのだろう。

もう何も心配要らぬとあのころのわれに告げたし若き母なりき
(近藤かすみ)

きのうの朝日歌壇

2008-03-04 00:53:49 | 朝日歌壇
太秦のみ仏いまもその指は頬に届かずうつつは吹雪
(大阪市 関満恒子)

山梨に生れ甲州市山梨市甲斐市となりて迷う故郷
(牛久市 熊本照子)

痛み癒え勇みて泳ぐ一掻きのその一掻きの嬉し立春
(枚方市 秦順之)

************************

一首目。京都太秦の広隆寺の弥勒菩薩像のことを歌ったのだろう。確かに指が頬に触れそうで触れていない。結句、「うつつは吹雪」で視点が外に向いていくのが面白い。
二首目。作者の故郷の呼び名が市町村の編成のうつりかわりに伴ってつぎつぎかわり、戸惑っているという歌。馴染んだ名前と別れて、慣れたころにまた変わるというのは、複雑な気持ちになるだろう。
三首目。体調が悪くて泳ぐことを禁じられていた作者が、やっと回復して泳げるようになったことの喜びを詠っている。私も先月、少し体調が悪くてプールを休んでいたので、この気持ちはよくわかる。健康で運動できることに感謝しなければと思う。

この春も戸棚に眠るお雛さまを起こさぬままのわれは罪びと
(近藤かすみ)

ああさようなら

2008-03-01 11:49:27 | きょうの一首
紙袋がさがささせつつ子が春の駅へ走りてああさようなら
(中川佐和子 霧笛橋)

************************

一読よくわかる歌であり、涙をさそう。
この歌は、『未来』の何月号かで読んだ記憶がある。『未来』はほとんど読んでいないのだが、たまたま友達から借りて読んだとき、強く印象に残った。

上句の紙袋、がさがさとカ行の多い言葉に、乾いていて落ち着きのない不安感が表れている。その後、おそらくもう大人になった作者の子が、春の駅に走っていく。進学か就職で、親元を離れるのだろう。親子の別れの場面だ。ここで時間があって、何か言おうとしても、照れるし適当な言葉が見つかるとも思わない。作者はそれを考えているうちに、子供の方がさっさと駅に走っていく。残った作者は、「ああさようなら」としか言いようがない。

中川佐和子さんには「なぜ銃で兵士が人を撃つのかと子が問う何が起こるのか見よ」という有名な歌がある。この歌が朝日歌壇で評価されたことがきっかけで、短歌に打ち込むようになられたというエピソードを聞いたことがある。このとき質問したお子さんなのだろうか。
上句のリアルさ、「春の駅」の舞台転換、結句の素直な感情の表出。こころに響く歌だ。

逢ひたさはいづれ薄らぐ さうやつて春に幾たび人と別れぬ
(近藤かすみ)