気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

きのうの朝日歌壇

2006-11-07 13:32:51 | 朝日歌壇
手を握り髪なでるまでに成長すうつつの姑(はは)に付き添う夫は
(宝塚市 寺本節子)

何もかも悲しかったと十歳がたった十歳が死を選びたり
(三島市 渕野里子)

総務課は十二階にありプリンタが始動するたびエビアン波立つ
(調布市 水上香葉)

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一首目。私にはよくわからない歌である。病気で夢うつつの状態にいる姑、つまり夫の母親を作者がふだんは介護していて、息子である夫は何もしない。それがやっと手を握り髪をなでるところまで出来るように成長したということか。大人になってしまった親子は体を触れ合うことなど、ほとんどなく、病気で弱ってはじめて相手の体に触れるというのは、まあまあわかる。親を介護したり、親の老いに向き合うことのなかった私は、こういう歌を読むと、なんとなく申し訳ない気持ちになってしまう。人の気持ちを理解できるほどの人並みの苦労をして来なかったことを、世間に申し訳なく思ってしまうのだ。
二首目。これはすんなり理解できる、こころを打つ歌。十歳が・・の繰り返しが歌を強くしている。
三首目。これは、なんとなくわかる歌。エビアンはペットボトルの水。

短歌人一月号の〆切の詠草、清書して投函。先日の関西短歌人会の歌会記の原稿も投函。ほっとした。
こうして、人さまから頼まれたこと自分でやろうと思っていることが、まあまあ順調にこなせていると、本当にありがたく幸せな気分になる。また、これがちゃんと続けられるだろうかという不安はいつもいつもある。