落ち込めば地獄のあり地獄。そのまま天国に直行。
なにもボーとしている「うす馬鹿野郎」の蟻だけが落ち込むのではございません。
「うすばかげろう」の巣だからといっても・・。
などと馬鹿なことをいってられるのは、小生だけでありまして、蟻にとっては危険な地帯なのであります。
・・・。
落ち込み捉えられ引きずりこまれるか、砂吹き攻撃にも負けず、這い上がり逃れきれるかの壮絶なるバトルが繰り広げられるのでございます。
巣の幼虫の鋭い牙に捕らえられた蟻は、体液を吸い取られ、カラカラの骸を外に放り出される痛ましさ。
勝負はサイズ。蟻の大きさと巣の大きさの比例関係で決まるようでございます。
嘘ではございません。
蟻をあり地獄に放り込んでの、実証研究を何回となく行っております。
もちろん。随分前の若気の至りの頃でございます。
さぞかし蟻にとっては悪魔。巣にとっては天使であったことでございましょう。
いや。言いえれば、餓えた鬼でございました。
いわゆる、くそガキ。
なんせ。蟻が逃げ出したら、捕まえてもう一回り大きな巣に投げ込む。
もし捕らえられたら、巣の中をほじくりまわし幼虫と蟻を引っ張り出す。
もうそれは。蟻も巣もぐちゃぐちゃ・・。
なにしろクソガキですから、あれこれ言わずお許し下さいませ。
大体こういう地帯は、森の中の神社仏閣の類の裏手の床下などに多うございます。
私にとってもその場所に長くうずくまるわけですから、やぶ蚊に刺されること尋常ではありません。至る所血だらけなわけです。いわゆる危険な地帯の共有者と言えなくもありませんでした。
研究や経験は、自己犠牲なくしてはままならないものと、思う由縁でございます。
ちなみに、子供の小さな小指の先で、すり鉢状の巣に軽く円を描いてぽろぽろと砂を落としてやると、蟻と間違えて攻撃して参ります。そのようなフェイクも覚えたことでした。
壊された巣もやがて何事もなかったように元通りになり、蟻も減ることはなかったものですから、私は思いつけばあり地獄に行きうっぷんを晴らし、研究を重ねたのでございます。
やがて大人になって想いますに、このような幾つもの事柄つまり、クソ餓鬼の頃の経験はクソ餓鬼の頃にしといたほうがよいと考えております。
転じて。
大人には許されないことは、子供の内に。
ええ歳になって恥ずかしいことは、若い内に。
死んでも死にきれないことは、生きている内に。
やらされるのではなく、素直にしたいことをしておくということの大事さを思わずにはいられないのであります。
蟻にとっての危険な地帯、あり地獄郡を見ておりますと、なぜかしらそのようなことを思い出しつつ、これから巡りくるであろう危険について考えてしまいます。
何かと物騒な世の中でございます。もちろん、はなから危険なことに近寄らないことは言うまでもありますまい。
ただ。
ついつい。危険な香に誘われる。ということは人生にもついて回るものと聞き及んでおります。
つまるところ危険地帯とはつゆにも思いよらないところで危機に遭遇してしまうことが、どうにもこうにも一番危険であり、逃れる術といえば、素直にしたいことをして得たなにがしかの成果より他、無いように思うのでございます。
話が飛んでしまいました。
そろそろ私の脳細胞も「危険地帯」に入ったようです。
最後に一つだけ。
ある日の事。一匹の蟻があり地獄に落ち込みました。
すり鉢状のあり地獄では、そのすり鉢を真っ直ぐに登ろうとすると足を取られます。しかしその蟻は円を描いて周りながら飽くことなく、ぐるぐると悪戦苦闘の登山を続け、ついには追っ手を振り切って危機を脱しました。
その蟻は足の片側だけ何本か千切れておりました。
そのおかげでもありましょうか、自然とそのような逃げ方になったようでございます。
私はその蟻に、クソ餓鬼なりの敬意を表し、そのまま見逃したような気がいたします。
今にして思うに、私もこうして何とか生きていると言うことは、何か千切れていて、悪魔か天使かクソ餓鬼かはわかりませんが、私の知らない何者かが、見逃してくれているようにも、思えてくるのです。