ある冬の夜、道頓堀を歩いていたら、モーツァルトが聴こえてきた。
というやつ。
耳の奥でね。
知る人ぞ知る、有名な道頓堀体験、ってやつなんだけど。
文芸批評家の、中原中也や大岡昇平とも親交のあった小林秀雄、ね。
その時のことを思い起こして、文章にしているわけだ。
何を考えていたのか、いずれ、人生やら文学やら絶望やら、だそうで。
自分にも意味がわからぬヤクザな言葉で頭を一杯にして、犬のように歩いていた。
なんて書いている。
そこへ、ト短調40番、第4楽章が聴こえてきた。
というわけだ。
小林秀雄が書くと、いかにも劇的な、文学史に残る、みたいなことになりがちだけど。
ふとね、昨日、エアーポッドと書いてあったか、アップルのイヤホンで。
街を歩きながら、パブロカザルスだったか、そんな音楽を聞いていた時に。
おいおい、ほとんど、これ、小林秀雄になれちゃうかも、なんてこと、浮かんできてね。
ますます、AIの支配型って具合だな、と少々、自嘲気味でもあったのだけれど。
車でも音楽、例えば、auld lang syne、蛍の光だね、なんて聴いていて、いいなぁ、なんてね。
ところが、イヤホンにしたら、これまた、音が良くてね、驚きだ。
の延長が、街を歩く”小林秀雄”ってわけだ。
こうなったら、とことん、自分の外部の電子的な携行物のお世話になっちゃってみるか。
なんて気分にもなっていて。
だって、馬車しか乗れない人、って、蒸気機関車が疾走している時にね。
まるで、バスターキートン?、チャーリーチャップリン?、ってなもんでしょ。
なんてことはどうでもいいけど。
今朝、出がけに、妻が、のろいと素早いについて、話していて。
自分の母親がのろいと言われていたというのろい、ってオヤジギャグみたいだけど。
それ、おもしろな、とね。
のろいとかはやいとか、どんな価値観があったら発生するのか、というね。
それぞれがそれぞれの固有の時間とも言えない時間の中で、生きているのがデフォなはずで。
そこへ、さまざまな価値をくくりつけ、比較の対象になり、という様がね。
大きな、something great、創造主とも言えるか、その立ち位置からしたら、微笑ましくも映っているか。
なんてくらいの話でもあるんだけど、そこはそれ、何の因果か、資本主義。
なんてもの、発明、というか、作り上げてしまったがために、とも言えるな。
さて、明日は長崎へ、。
昔のわが列島では、一日の始まりが、夕方、っての、あるでしょ。
そのデンで、すでに長崎への旅は始まっているのです、ってね。
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