待っているのは、トモエリバー。
札幌の女史との会話に触発されての購入になるノート。
今使っているノートも、紳士なノート、ってやつで、滑らかな書き心地でお気に入りではあるんだけど。
なんやかやと、浮かんできたことや巡り合った言葉などなどを書き留め。
このブログのネタであったり、日々の活動の源でもあり。
やっぱり、言葉に引っ張られるような、触発されるような人生模様、ってわけだ。
そう、夕べだったか、今朝だったかのツイートに、大本教の、出口なおさんのお筆先か。
それとも、日月神示なのか。
学が神を凌駕せむとんなしてきたことは覆される、みたいなこと、書いてあったな。
学の力、学力と神の力、神力、という書き方だったけど。
この、学、って言葉、子どもたちが学校で学ぶ、と言うときの学と、論語の、学と習の関係とは微妙に違うのか。
ではあるけれど、学び、知ったことが、神をも凌駕し、ってのは、この何百年かのホモ・サピエンスの営為。
なんて言い方もできるはできるか。
もっとも、いわゆる神も、いろんな様相を押し付けられ、その都度の、ま、ご都合主義みたいな。
そんな気配も濃厚で、そういえば、伊勢神宮への初詣、とても少なくて、普段の平日よりも閑散と。
なんてこと、伊勢の御仁からお聞きしたな。
ね、そういうことです、って、コロナに神は勝てませんでした、みたいな。
そういう神もいらっしゃった、ってわけだ。
そうそう、夕べ、「豊橋三大祭の深層」って小冊子が届いたんだった。
このところ、ご縁があって、何度か豊橋にお邪魔しているんだけど、お土産屋さんでの、鬼祭り饅頭だったか。
気にもなっていて。
なにせ、鬼に貶められた神々、みたいなこと、そこここであったんじゃない?なんて認識なんで。
岡山の桃太郎の裏側の温羅伝説や飛騨の両面宿儺や奈良の土蜘蛛や和歌山のなんだっけ、ま、そんな方々の事績が。
なんてことに妙に関心が向き、ってことだったんだよね。
ここからが面白いところなんですが、明るくなってきたので、そろそろ、走ります。
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