まわりで起こっていること

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ハーブの茎をとりながら資本主義の終焉を

2015年07月25日 | Weblog

今朝の表題、中途半端でしょ。

実際は、ハーブの葉だけを残し、そこへ熱湯を注ぎ込み。

という作業のことなんだけどね。

ミントとレモンバームとタイム。

これを、一つひとつ、丹念に、茎から葉っぱだけとる。

とね。

なんの拍子か、今朝は、たくさん、採っちゃって。

で、昨日に引き続き、なんだけど。

その作業中にね、これ、たぶん、少しでも早くやろう。

とかね、いろんな道具を考案して、作業効率、能率をあげて。

なんてこと、だれかは、考えるだろうな、あるいは。

今までも、いろんなこと、考えてきたんだろうな。

それも、うべなるかな、で。

忙しい主婦にとって、そんな悠長な時間はありません、とかね。

ひもじい幼子が、むずがりながら、傍らにいたとしたら。

なんとか、この作業を早く終えて、お乳をのませなきゃ、とかさ。

理由は、いろいろあるんだけど、その作業をやりながら。

その先のことを、その先の手順、段取りを、あれやこれやと模索する。

これが、製造業やら建設業やらでは、なかには、ストップウォッチをもった。

おじさんやらおにいさんやらが、いかめしい顔をして。

はい、今の作業工程は、10.5秒、今度は、10秒切りましょうね。

と、100mの桐生くんに空気いれる、みたいなね。

「資本主義の終焉」というのは、水野和夫さんの書いた新書で。

もう少し長い書名かも、だけど。

100万部まではいかないだろうけど、経済本では、売れている部類にはいる。

くらいの本ですが。

近代、というのは、もっと遠くへもっと早く、という合言葉。

で表される、と言うんだね。

遠く、というのは、新大陸を発見し、そこの資源。

ま、人間も含む、かっこ。

ってくらいですが、そこで、いきなり、簒奪し、とか。

未開の地から文明開化の地へ、資源・人を強制的に移動させ、とか。

いろんな言葉を使えるけど。

化外の民を教化して、とか、文明に預からぬ人々をわが神の名のもとに。

結集せしめ、より幸せな暮らしを、提供します、とか、言い出したらキリがないくらいの。

言説はあるけれど。

そこ、主題ではないんで、やめときますが。

そんな遠くへ行く、ということと、早くやる、早く移動する。

という2つのキーワードだ、と。

馬車が自動車になり、飛行機になり、というね。

しかし、そのしくみ、というのか、発想、というのか、ま、考え方。

価値観がね、終焉を迎えつつあるんじゃね、ってのが。

彼、水野和夫さんの論なんだけど。

ハーブの茎をとりながら、そんなことが、浮かんできたわけだ。

人間の本性に根ざすものなのか、あるいは、古代の人々であったら。

花を摘む乙女のように、防人ということで、遠くへ旅する、愛しい人の。

道中の安寧に祈りをこめながら、だったのか。

そんなに言葉の豊富でなかったころであれば、ハーブそのものとの。

会話を交わしながら、ゆったりとした一時をね。

まるで、禅家の食事風景のような。

そんな時代も、あったんだろうしね。

なんてことが、キーボードの先から溢れてきているんだけど。

今日は、おじおば会、なのです。

もうね、待ちきれないくらい、低学年の子たちが遠足を待ちかねて。

という風情で。

今月はいつだっけ、と何度か、おじからの電話があったりね。

さて、どちらへ行くことにしようか。

西方面は、帰りが、安倍川の花火に重なるかも、という妻のアドバイスもあり。

なんだけど、わが母親に、何回目かの、今日がおじおば会であることを伝えると。

じゃ、うなぎだね、と先月も行った西方面の、さくめさんの話になり。

なんだろう、おいしい、とか、小さな頃みた光景の楽しさ、とか。

そんなことが、すべての記憶が残っている、という玉手箱から、うなぎ。

という言葉を引っ張りだすための、大きな力になっているのか。

認知症とは言いながら、その意識の流れ、というのか、仕草のあれこれ。

ってのは、認知症ではありません、と診断されている我が身としては。

べんきょうになるのです。

ある説では、認知症は、死への恐怖からの逃走だ、ってのもありね。

たしかに、わかりやすくはあるけれど。

じゃ、僕は、人は死なない、と考えているので、認知症にはならないかね。

多少の記憶喪失は、かんべんしてもらうとするか。

そんなこんなで、信州にするか、富士五湖か、塩山の恵林寺ってのもありかな。

 

 

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