風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

マスコミ間違いさがし/夕刊フジの巻

2007-09-30 01:05:37 | コラムなこむら返し
Autum_moon_party_6 いや、別に鵜の目タカの目で、アラさがししていた訳じゃないが、偶然に拾った21日付けの「夕刊フジ」(産経経済新聞社)掲載のコラム欄(13面/20日発行)「中秋の名月」(コラム記事/言葉のタネ明かし)というコラム記事にトンデモ記述があったので、それを報告しておく。
 署名記事で、筆者は産経新聞大阪編集局校閲部長の清湖口敏さんである。
 その記事によれば、「中秋の名月」を「仲秋の名月」と書くと、それは「仲秋」で8月のことになるから、間違いだとあった。これは良しとしよう。で、その後だ。

 「すでにお気づきかと思うが、旧暦の15日の空には必ず満月が出る。どうしてかといえば、月の満ち欠けに合わせてこしらえた暦が太陰暦(旧暦)だからである。」

 これは、全くのあやまりだ。こと、中秋の名月に関しても満月と重なった例はほとんどない。これは、説明するに難しいのだが、結論を先に書いてしまうと、満月と15日の月の関係は平均0.76日あとにずれている。
 新月つまり「朔」から「満月」まで、平均は14.76日(13.8日から15.8日)で、これは月の衛星としての軌道がだ円運動をするからで、この誤差分がズレとなる。つまり最大値±2日ほどズレが常にあるのだ。
 ちなみに、「十三夜」とは旧暦の9月13日の月の事で、今年はグレゴリオ(太陽)暦で10月23日になる。

 このような月を愛でる私たちの風流な習俗は、花鳥風月のうつろいにこころ騒がせた先祖たちの風雅な心根によっているのだろう。月のことを書くのは、このブログにふさわしいかも知れない。こんなに「風雅」な時もないだろう。


ミャンマーの民衆のために涙を流す

2007-09-29 00:00:59 | コラムなこむら返し
 ミャンマー(ビルマ)のデモ取材中死亡したAPF(アジア・プレス・フロント)通信社の長井健司さんは、どうやら至近距離から軍兵士に狙い撃ちされて死亡したようである。ヤンゴン市内のスーレー・パゴタ付近で民衆の中に入って小型ビデオカメラを回していた長井さんが、近くにいた軍兵士に小銃で至近距離から撃たれ1メートルほども吹っ飛んで倒れるシーンが、TBSTVの「NEWS23」で放映された。
 そのシーンは、ロイター通信社の配信した写真として28日付けの朝日新聞朝刊にも載っていたが、どういう訳かこれはトリミングされていた。夕刊にも同じ写真が掲載されたが、カメラはもっと引いており実は警棒を振り上げて民衆を追い回す治安部隊(警官)の手前には明らかに小銃を構えた政府軍兵士がおり、その足下にカメラをやや振り上げた長井健司さんが、あおむけに倒れている。
 対面のビルの屋上から撮影されたらしいTVカメラとこのロイターの写真はほとんど動かぬ証拠だと思われるが、福田首相をはじめとする新政府閣僚は慎重な発言をした。それに比べ、この地域では何の権益も政治的利害も派生しないのかアメリカはいち早く「経済制裁」を発動した。アメリカの銀行に口座を持つミャンマー政府高官の資産凍結と経済制裁をすると言う。

 1988年の社会主義政権が倒れる時、どさくさにまぎれるようにクーデターで政権をとった現軍事政権は、民主勢力のシンボルであり、リーダー(国民民主連盟/NLD)であるアウン・サン・スー・チーさんを自宅軟禁したまま目に余るような腐敗と国民の財産の私物化をおこなってきた。貧窮した国民は、今回石油や天然ガスの値上げによって諸物価にはねかえり、さらに貧困を強いられることに反発して立ち上がった。それを支援したのが、民衆の側に立つ数十万の僧侶であった。伝えられるところによれば、少年僧を含む僧侶5名が死亡、500名余の僧侶が逮捕されたと言う。

 いま、在日のビルマ人がたくさん住む高田馬場周辺のビルマ人社会は不安な気持ちで成りゆきを見守っていることだろう。祖国がどうなるのか? 親戚は大丈夫か? 民衆はどこへゆくのか?
 政治的亡命のビルマ人活動家もいる国外のビルマ人社会はハラハラしながら、耳目をそばだて、ニュースを見つめ、そして自国の民衆のために涙を流しているに違いない。軍事政権の大使館に抗議活動に行っているかも知れない。
 ボクもまたこの敬虔な小乗仏教の国のなりゆきを見つめたい。

(真実を伝える取材の途上で殉職した長井健司さんの霊に哀悼の念を表明いたします。合掌)


名月ト 競イ昇ツタ フルムーン

2007-09-27 23:51:58 | コラムなこむら返し
Fullmoon_070927_2 今晩は満月だったのですが、中天にかかった時は雲が出てきてせっかくのフルムーンは雲間から覗くという具合でした。しかし、午後6時少し前の時間、昇ってきた満月は地平で煌々と輝き、25日の中秋の名月と負けずとも劣らずで、名月と競うかのようでした。

 名月と 競(きそ)い昇った フルムーン

 そこで、ふたたび一句詠んだのがこの句です。
 ただ、ボクは俳句は素人なので、思いついたことばを並べているだけです。ただ、昔マンガを描いていたりといったこともあるのか(と、遠慮深げに言ってますが、スケッチなど絵を描くのが好きなのです)、それが映像的に、つまり絵としてイメージできる。季語はまさしく詠む対象そのもの。自然体で詠みました。

(写真:中天で雲におおわれて傘をかぶった今宵の満月。歪んでいるのは手ブレです。)



名月ヲ 愛デル宴ノ 枯レ薄(五)

2007-09-26 01:44:08 | コラムなこむら返し
Autum_moon_party_7 今日25日は「中秋の名月」別名「十五夜」である。そうは言っても満月ではない。「十五夜」というのは旧暦の八月十五日の月の事を言い、今月は27日が満月であるから、フルムーンの2日前の月になる。

 天気予報では、昨日の時点で関東地方は曇りで、厚い雲におおわれて名月は臨めそうもないという予報だった。ところが、午前中から暑いくらいの陽気になり、空も若干の雲はあるにせよ、これで名月が見えないの?と疑問にかられるほどだった。先日の月食の日とは明らかに違う。案の定、夕刻になって雲はほとんど無くなり、気付いた時(午後5時50分頃)には、まだほの明るい空に名月が浮かんでいた。

 大急ぎで帰宅すると、さっそく「観月の宴」の準備だ。お団子と季節の野菜をザルに盛り、純米酒をそなえ、用意したススキを花瓶に活ける。灯りを消して、月明かりだけで鑑賞する。月の光に照らされて、畳にススキの影が映ったが、弱い光でカメラまして携帯のカメラでは全く露光不足であった。

 煌々と夜の闇を照らす、美しい名月だった。やや左弦の下がまだ丸くなりきれていない。それなのに、その微妙なアンバランスがいいのか、美しいと思う。そこで思わず一句口から漏れい出た。

 名月を 愛(め)でる宴(うたげ)の 枯れ薄(すすき)

 この句をこの記事のタイトルにすることにした。



書を拾い 街に種をまこう!(2)

2007-09-24 23:45:30 | アングラな場所/アングラなひと
Sept20_sunrise 「ヴィレ」は、日常のような喧嘩沙汰、カツアゲや、ヤクザと渡り合うようなすこぶるつきの新宿の不良が寄り集まった深夜ジャズ喫茶だったが、今から考えてみれば捩じれたようなその空間の特異さは結果として、資質があるにせよひとりの芥川作家(中上健次)と、ひとりの女性作家(中原みすず「初恋」)、そしてひとりのマンガ家(鈴木翁二)を生み出した(ボクもマンガ家としてデビューはしたが、有名作家にはなれなかった。自分には厳しく判断しよう)。ボクはさっさと「ヴィレ」から足を洗ってしまったが(だから「ヴィレのJUN」ではなく「フーゲツのJUN」なのです)「ヴィレ」は70年代のなかばまでは歌舞伎町のど真ん中にあったようだ。

 中上が『破壊せよ、とアイラーは言った』(1979年8月集英社)で懐かしがっていた「ヴィレ」とその仲間が、街に播いた種はどうなったのだろうか?

 ボクらはふたたび、書を捨てる(寺山修司)ことなく、街中の書を拾い集め分別するだろう。時代は若者に特有の「反抗」を許さない。不良よりも叡智が称えられるようだ。秩序は貫徹されたのだ。その上に、「成長の限界」(1970年の「ローマクラブ」の報告書の名前)、「宇宙船地球号」(B・フラーの造語)の資源の有限性に思いを果たさねばならない。むしろ環境派こそが手段を選ばないほど先鋭化している。ジェネレーション・ギャップで語られるのではなく、生存と生命へのおもいやりの深さがそれを決定する。
 若者にアイディンティのゆらぎや、クライシスなどというものが無くなったとは思えない。そのストレスは自傷行為や、自殺などの自己破壊に向かっているのかも知れない。

 有限の世界で、過剰になった人口。人口調整のため群れをなして本能のままに、海に飛び込み、自死する生き物。それってレミング(※1)というネズミ科の生物ではなかったか?
 で、レミングにそのような生態があるということは、事実ではなかったらしいが、まさかそれもまた寺山修司がついた一流のウソではなかったのだろうな?

※1:寺山が主宰した「天井桟敷」の最終公演作品はその名も『レミング』である。
(おわり)




書を拾い 街に種をまこう!(1)

2007-09-23 23:54:35 | アングラな場所/アングラなひと
Sunset_9_15_1 かって、家出をして新宿の街にもぐりこんでフーテンしていた頃、ボクは帆布で作った船員バッグのようなフーテンバッグの底に、ランボーの詩集とヘンリー・ミラーの小説、そしてアレン・ギンズバーグの詩集『吠える』を忍ばせて着の身着のまま家を出た。サツキの花が咲き乱れる季節、ボクは片手に檸檬を握りしめ、まず新宿の紀伊国屋書店の梶井基次郎の作品の前にそれを置いた。それが、梶井基次郎に敬意をあらわす精一杯の方法だった。紀伊国屋書店で本をギルより、その檸檬を爆弾に見立てて「丸善」に仕掛けた基次郎を踏襲したのだ。
 ボクにとっては、それは鮮烈な想像力のテロルだったが、おそらく書店員は、そのイマジネーションの意味も理解することなく、その放置された檸檬をいとも簡単に片付けたことであろう。
 大島渚の『新宿泥棒日記』が、製作されるはるか前だったし、そのころボク自身もまだジャン・ジュネという泥棒作家の存在を知らなかったと思う。

 そう、ボクは書を捨てるどころか、書を持っていきつけになりつつあった「ジャズ・ヴィレ」へ直行したのだった。実は、その大きめのフーテンバッグにはワンダーフォーゲルとか、信州の山の名前なんかが乱雑にマジックで手描きされていた。そのバックは「ヴィレ」で知り合った友人から譲り受けたものだった。「ヴィレ」で早い時期に知り合った仲間のひとりだったが、中上健次が後に書いたエッセイによると、彼は早死にしたようである。その名を染谷と言った。

夕焼評論/(つづく)



ヒッピー・フェア!?

2007-09-22 23:55:58 | アングラな場所/アングラなひと
Hippie_fair いや、どうやら期限からいったら終わりかけらしかったんですが、新宿の「紀伊国屋書店」本店5階レジ前コーナーで「ヒッピー・フェア」が開催中だった。どうやら「サマー・オブ・ラブ40周年」を記念してと店内ポスターには書いてあったんですが、紀伊国屋書店って当時それに何か関係しましたか? 何かしましたっけね? いまだなんの貢献もしてませんよね(たとえば「まつり」のスポンサーになるとか……)。

 1967年当時の「紀伊国屋書店」の名物社長故田辺茂一さんは、たしかに破格のひとで、自らも随筆をよくし、新宿文化人と交流し、新宿を飲み歩いているひとでしたが(大島渚監督の『新宿泥棒日記』の万引きシーンの撮影に、自分の書店をこころやすく貸すという寛容のひとだったが、じっさいの万引きには厳しかったらしい)、だからといってヒッピームーブメントにも、フーテンという族にも理解があった訳ではないのです。むしろ「汚い連中」と嫌ってらした(ボクも嫌われた)。

 で、そのブックフェアにチョイスされた本は、たいして数はなかったのですが、DVDを同時販売していたりと、ヒッピー・ムーブメントの現在の受容と言ったものをうかがわせるものだった。書籍のチョイスにボクの本家サイト「電脳・風月堂」のブックリストが使われたか、参考にされたかは担当者がよく知っているでしょう(ちなみにボクのサイトは紀伊国屋書店の広報誌の「新宿特集」で協力しなかったのに掲載されました。つまりアチラさんはよく知ってらっしゃる訳です)。
 中心においてあるのはアリシア・ベイ=ローレルの2冊の本(「地球の上に生きる」1972、「太陽とともに生きる」1975)だったし、下にポンの『トワイライト・フリークス』(2001)も置いてあった。「紀伊国屋書店」はナナオの詩集をしっかりと常備してあるたいした書店ではあるが、ナナオの詩集は詩集コーナーにはあったが、このフェアからははずされていた。もしかしたら、ポンに遠慮したのか(笑)。

 ともかく、こういうコーナーが商魂逞しい「紀伊国屋書店」本店にあったということは報告しておこう(レジ前にもうけられたのは「万引き」を警戒するためだったのかどうかは確かめようもありませんでした(笑))。

(この記事は紀伊国屋書店からいくらかのお金をもらって書いたものではありませんから、「ヒッピー・ブック・フェア」が終了していても責任をとる訳にはいきません(笑))



アクセス解析

2007-09-21 23:54:07 | コラムなこむら返し
Clud_blue 久方ぶりにこのブログ『風雅遁走!』のアクセス解析を試みてみた。すると開設からの通算アクセス数101,671という数字がはじきだされた(9月21日23時50分現在)。10万である。それはけっして多い数字ではないが、このどちらかといえばあまたある個人開設のブログの中でも内容が重く、文章が面倒臭い評論系(?)のブログとしては上出来ではないだろうか。ボクはひとにエンターティメントを供するためにこのブログを開設している訳ではない。
 では、何のために多くの個人的時間を割いてこのブログをボクは書き続けているのだろう?

 現在のようなインターネットの世界になる前から、印刷媒体でミニコミを出し続けていたボクの中では、その意識はミニコミ時代から断絶せずに繋がっている。紙媒体であれ、電子媒体であれ、ボクにとっては「表現」や「主張」という意味では同じである。古くさいたとえで申し訳ないが、ボクは当初からHPもBBSもブログも「壁新聞」のようなものと言い続けてきた。インターネットの表現手段も日進月歩である。HPがBBS(掲示板)になったかと思えば、いまやブログ。と見れば、最初は稚拙な表現方法だと思われたmixiのようなSNSもこのところYouTubeと結託したり、動画がのせられるようになってあなどれなくなってきた。
 だとしても、そのコミュニケーションの方法は、液晶モニターという壁に映し出すページビューが基本であり、やはり文字情報が圧倒的に凌駕する。とはいえ、動画が主体になってもそれは壁に投射するフィルムと形態は同じであり、やはり壁新聞、壁面映画館なのだ。

 夏の夜、風にはためくフィルムに心躍らせた体験がある世代は、ネットとは多く無縁かも知れないが、「ニュー・シネマ・パラダイス」のような世界は、この国にもあった。もう神話のような遠い世界だとしても……。
(写真:まだ夏空のような9月の雲)


けなげに生きてね!ダイちゃん!

2007-09-20 22:28:21 | コラムなこむら返し
1 ダイちゃんとは、ある繁華街の場末の酒場で会った。とはいえ、ダイちゃんはまだ5歳くらいの男の子だから、酒を飲んでいた訳ではない。その東京都内とはいえ、次の駅が神奈川県という県境に近いある私鉄のガ-ド下に密集する飲み屋の店先のひとつにキャンプ用の椅子を出して、ダイちゃんはちょこんと座っていたのである。
 ふと見れば、その店はメニューがタイ語で書かれてあり、タイ料理と酒を出す小さなスナック風の飲み屋さんだった。タイ好き、タイ料理好きのボクはダイちゃんに話し掛け、一も二もなくそこで飲むことにした。
ダイちゃんはなかなか可愛い男の子だったが、そんな場末の飲み屋の店先でひとりぽつねんと座っているのは腑に落ちなかった。
 はじめは相手にしてもらえなかったが、徐々にダイちゃんは打ち解けてきて色々話してくれた。それによると、ダイちゃんのお母さんは、タイ人でお父さんは日本人。そしてお父さんは「悪いひと」で、お母さんと別れちゃっていまはお母さんと二人で住んでいて、お母さんは目の前のビルの5階のクラブで働いているらしい。ダイちゃんはその店の前にあるスナックで、コンビニおにぎりを食べながら、けなげにお母さんの仕事が終わるのを待っているのであるらしい。このボクがはいったスナックは近隣のタイ人の連絡場所になっているらしく(近くにはさらに2軒のタイ料理屋さん、タイマッサージ屋があった)、店先には絶え間なくタイ人女性が立ち寄っていた。それもそのはずで、このスナックもマスターは日本人だが、ママはタイ人女性であった。背の高い中学生くらいの娘さんもよく2階から降りてきては、トイレや水を飲んでいる(当然、彼女も日タイのハーフだが、そんな風には全然見えない)。

 スナックでカラバオのMVなどを掛けてもらいながら飲んでいる内に、時間になったのかダイちゃんのお母さんが向いのビルから降りてきた。色白のダイちゃんはもしかしたら、パパに似たのかも知れなかったがダイちゃんはママに似ていると言い張っていた。ダイちゃんはお母さんのママチャリの後部に乗って帰って行った。「バイ!バイ!」と元気に手を振りながら……。
 お母さんは終始不機嫌そうだったが、ダイちゃんは最後にはすっかりボクなどを友だちのように扱っていた(この日の相方も子どもが好きで良かった)。わずかの時間のふれあいだったが、ボクはダイちゃんのこともダイちゃんをなにげに預かってあれこれお菓子などを与えているこの気のいいスナックのことも気に入って、この店にまた来ようと思った。
 ダイちゃん! 元気でけなげに生きてね!

(このような日本人の父親がタイ人女性との間に作ったこどもたちは、フィリッピンなどの例を含めてかなりの数に昇るだろう。その中には、売春行為の中で生まれてしまったケースもあるようだ。ただ、父親もしくは母親が日本人と認められれば、その子の母親もしくは父親には在留許可証が認められるので、長期滞在が可能になる。それをあえて利用しようとする例はないだろうが……。)