風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

地震お見舞い

2007-07-16 21:55:28 | ニュース
 本日、午前10時13分ころ、新潟柏崎沖合いを震源とする地震で、被害を受けた方々に心からお見舞い申し上げます(震度6強。M6.8の強い地震だったようです。いまだ余震も続き、救出作業もまだ続行中です)。

 参院選もたけなわ午後5時過ぎに安倍首相は、現地に到着したようです。柏崎原発の目と鼻の先が震源で、3号炉のトランスが火災を起こしたようです。大事には至らぬうちに消火したようですが、原発の火災は初めてで、危惧された事態が起こったことには間違いがないでしょう。
 また、使用済み燃料を保管するプールの冷却水の水位が異常低下したようです。循環ポンプが地震の影響で、停止してしまったようです。
 この地域は中越地震に見られるように、断層のエネルギーが溜まっており、柏崎原発の停止、廃炉はおおいに検討されるべきだと考えます。この原発は、東京電力の管轄でその電力は東京、関東に供給されています。決して、首都の生活とは無縁ではないのです。

 この地震は気象庁によって、新潟県中越沖地震と名付けられたようです。まだ予断を許しません。お気をつけてください。


さようなら! 宇井純さん!

2006-11-11 23:56:13 | ニュース
 宇井純さんが亡くなった。74歳だった。「反公害」運動の旗手であり「地域主義」の支持者でもあった。東大にあって「自主講座」を15年にわたって続け、その残した遺産は大きなものがあったろう。そうであって御本人は、「万年助手」(都市工学科)に甘んじた。日本の国家中枢の象牙の塔の足下にあって、疎んじられ、立身出世からはつまはじきにされた。しかし、宇井さんはそれにひるまず、むしろ飄々と自らの学者としての信念にしたがって、いわば造反学者に等しい存在だった。
 「公害」という言葉が一般的な認識となった1970年代から、宇井さんの姿は水俣病を告発する側に、流域下水道を問題提起する側に、アジアに公害輸出を反対する側に、さらに石垣新空港反対の陣営の中にあった。

 「反公害」の運動は、おそらく近現代のシステムすべてが押し付けてきた使い捨ての経済成長優先の価値観を循環型のエコロジー優先(企業の製造責任や社会的責任)の価値観にシフトさせる大きな礎石をつくった。公害問題はやみくもに戦後からつっぱしってきた日本人のアイディンティテイを振り返らせる契機だった。それまでの日本人は1970年の万博に見られるような、おめでたいバラ色の未来を描くことしかしてこなかったのである。そのエネルギーのみなもとは限界を無限と信じる右肩あがりの成長神話だった。GNPが上昇して行く経済の成長が絶対だった。

 「反公害」運動は被害住民をすくうだけでなく、私たちさえも救ってくれた。あのままやみくもに日本人が突きすすんでいたら、日本人は地球のガン細胞になったろうし、もっとも醜い、世界の嫌われものになったことだろう。

 その公害を告発する運動に、常に伴走して学者としての、思想としてのフォローを惜しまなかったひと??宇井純さん、これまでありがとうございました!
 そして、さようなら! きっと安らかなる眠りであったことでしょう。

宇井純氏のプロフィール→http://www.takagifund.org/08/ui/p-ui.html



物見遊山とタイのクーデター

2006-09-21 01:18:48 | ニュース
 ひさしぶりに驚かされた。20日未明のバンコクで起ったタイの軍部クーデターである。バンコク市内を戦車が走り回り、首相府や放送局などが制圧された。タクシン首相は外遊中で、ほぼ無血クーデターであったようだ。
 民衆の心は、一時は辞任を発表しながら首相の席に居座り続けるタクシンをほぼ見放し、この日(20日)には首相退陣を求める大規模な集会が予定されていた。
 タクシン首相はいわばみずからの一族で支配する携帯電話会社(AIS)で財をなし、会社を一族名義に変えて首相になるや権限を利用して一族会社への利益誘導や、不正な節税工作を行った。当初、民衆寄りの政策で人気をとっていたが、一族の不正な工作が明るみに出るや首相退陣のデモが民衆の中から巻き起こった。この4月、総選挙が行われたが野党のボイコットや、混乱のため成立せず、再選挙が決まっていた。タクシンはプミポン国王に退陣を表明していたが、実質的な権力は握ったまま約束を反故にするような発言をくり返し、民衆の怒りをかっていた矢先の出来事であった。
 ネットのニュース速報によれば、どうやらタクシンは滞在していたニューヨークを離れると帰国せず、ロンドンに向かいイギリスに亡命したようである。

 さて、タイでは仏教界(僧院)、政治のみならず軍の頂点に国王が位置付けられている。文民の政治家を軍部の制服組が倒したと言えど、クーデターもそのいきさつがプミポン国王に報告された。とはいえ、それは民主的な手続きではありはしない。

 いま、危惧されているのはこれまでの流血の惨事からタイがすすめてきたデモクラシーがどこへいくのだろう、ということだ。
 布告された戒厳令が、解除され民衆の日常がもどり、ソンティ司令官が言ったように「できるだけ早く主権を人民に返す」という言葉が、反故にされないことを祈る。

 タイの民衆は楽天的で、ヤジ馬根性をかくせない人々だ。わざわざ、デジカメ片手に戦車を見に首相府まで出かけたりしているらしい。そのような、物見遊山の民族性が血で染まらないことを願う。

 (で、突然、そのような状況を見たいなと思ってタイに行きたくなるボクってなんだろう?)


HELP ME SOFTLY/ヘルプ・ミー・ソフトリィ

2006-01-20 00:46:07 | ニュース
昨年の1月18日付けの記事(http://blog.goo.ne.jp/angura_1967/d/20050118)で紹介したロボット・レスキューの研究・開発に贈られる「競基弘(きそいもとひろ)賞」の第1回目の受賞者が発表され、震災から11年目の18日神戸市の「人と防災未来センター」で、授賞式がおこなわれた。

受賞したのは塚越秀行(東京工業大助教授)氏と城間直司(電気通信大研究員)氏でドラえもんの好物のドラ焼き型(笑)のトロフィと副賞200万円を贈られた。ドラ焼き型のトロフィはジョークだが、この賞は23歳で阪神淡路大震災で被災し、アパートの下敷きになって死亡した若きロボット工学の研究者だった競基弘さん(神戸大学工学部院生1年)を記念してNPO法人「国際レスキューシステム研究機構」(川崎市)が昨年設けたもので、今回は初めての授賞式だった。

塚越さんの受賞研究はタマネギ大の瓦礫探索小型ロボットで、ガレキに埋もれた負傷者などを発見するロボットの研究であった。
城間さんはレスキューロボットに搭載する高性能の画像解析速度をスピードアップするシステム開発でそれぞれ受賞した。

ドラえもんというネコ型の癒しロボットに憧れ、夢中になった競さんは柔らかいものを上手に掴めるロボットのアームなどを研究していた。人間なみの五感と感性をそなえた「癒し型ロボット」の製作を夢みていたと言う。瓦礫の中から遺体が発見された時、競さんが大好きだったドラえもんのぬいぐるみも見つかったと言う。

競さんは、このような形で自分の名前が残ることを予想もしていなかったろうが、競さんの夢は人類の夢だし、もしかしたら競さんの夢みたやわらかいロボット・アームと、癒しロボットとは自分をソフトに優しく包み込んでくれる母のようなロボットだったのかもしれない。

そう、のび太のお母さんのような……。


縄文杉表皮はく離事件の背景を推理する

2005-06-02 13:29:55 | ニュース
jyomon-kizu01
今回の縄文杉の表皮はく離事件の背景はなんなんだろうと考えた。いくつかのブログやサイトでは、子供達への道徳教育がなっとらんといった道徳感、倫理観の欠如に原因を求める意見が多いようだ。
しかし、今回のこの事件は道徳心や、イタズラと考えるには少し無理がある。というのも、昨日書いたが、縄文杉の周りには、その根を守るために無粋とも思えるような高いフェンスがはりめぐらしてあるからだ。これは、当初から表皮を剥ぎ取る目的、枝を取る目的で高いフェンスをよじ登ったと考える方が、理にかなっている。
これは、確証のある話ではないのだが、長い間(1966年の「発見」以来?)「縄文杉」は、周りの屋久杉の幹廻りから推測して樹齢7200年と言われてきた。現在、学問的には否定されているようだが、風評としてそう世に出回った。巨樹ブームもあるが、そうしたことで「縄文杉」はそのネーミングもあって樹木の中の樹木、樹木の翁(山尾三省の「聖老人」のイメージもそうだろう)と目されてきた。
つまり、現存する樹木の中ではその巨大さと、長寿において世界上位のレベルにあると。
(巨大さにおいては、シェラネバダやヨセミテ公園のジャイアントセコイア(漢字で「世界爺」と書くらしい!)、長寿にあってはやはりシェラネバダのブリッスルコーンパインがある。樹齢4700年でこれが世界最長寿の樹木ということになっている)

そこで、縄文杉の長寿にあやかろうとその表皮や小枝が、「長寿のお守り」として老人たちに売られているという情報がある。ガサかもしれないが、さもありらんという話である。
いわば、翁=長寿神社のお守りを身につける感覚で、ありがたる気持ちも分からぬでもない。フレーザーの言う「共感呪術」、縄文杉の長寿にあやかりたいという人間のかってな呪術信仰である。

1987年にはここにロープウェイをかけようという計画があった(川崎製鉄のプラン)。もちろん観光客誘致のためであり、現在「縄文杉」や、その周辺の神秘的な屋久杉の景観を楽しむには、足腰の弱い老人や、車椅子の障害者の方には厳しいものがある。かっては、人跡未踏で何びとの立ち入ることも拒否していた神秘の原生林であったところなのだ。
この計画は反対運動もあり、また屋久島が世界遺産登録されたこともあって幸いにも頓挫したが、それでも縄文杉をひと目見たい、触りたい、それが出来ぬのならせめて身に付けたいという老人たちの願望も分からぬことではない。

そのような老人たちの願望を商売にするものが現れた。これは、もしかしたら屋久島に在住の者かも知れない。そのような悪意をもってあの山道を、縄文杉のそそり立つ場所まで行くのは地元のひとの案内を乞わない限り無理だからである。いや、そう断定するのではない。本土の人間でもテント持参で、好んで原生林にキャンプするものもいるからである。彼らはこの原始の森で、自分達が煮炊きした火の始末、料理に使った汚水、排便、排尿などの生理作用が森にもたらす破壊的な効果に無自覚である。

ともかくも、これは推理である。名探偵コナンのようには推理できないが、この事件が長寿を誇った縄文杉の生命を縮めるような影響を与えないことを心から願う。
実は、原生林のように一見見える屋久杉の森もかっての伐採がたたって復活のまっただ中なのである。世界遺産登録は観光客の激増という思わぬ副次効果を島にもたらしたが、本来、この島の豊かさ、神秘をそのまま保存して行こうという目的だったはずなのである。
森を畏れ、敬う気持ちがあるのならもっと慎重になろう。この島の観光資源と目されることと、深い森の奥でひっそりとたたずみ生きてきたこととは矛盾するのだ。この島をふたたび、神秘の島に返そう。三省も敬愛していたラマナ・マハリシの「沈黙」へ帰ろう。

「(サマディにあっては)“私は在る”という感覚だけがあり、想いはない。“私は在る”という経験は静かであることである」
(「ラマナ・マハリシの教え」山尾三省・訳)

(写真は林野庁屋久島森林管理署および屋久島自然保護官事務所が発表した縄文杉につけられた最大の傷跡)

※なお同森林管理署では、ゴールデンウィークからこの20日までの縄文杉を訪れ撮影した方からの写真の提供を呼びかけている。はぎとられた日時を写真をもとに特定したいとのこと。電話0997-46-2111まで。

※詳細な記事は、南日本新聞→http://www.373news.com/index.php
トップ頁から「縄文杉 傷」で検索。20日以降の調査や検分のニュースが写真入りで唯一見れます。なお、南日本新聞は鹿児島県を中心にした地方新聞社で奄美や、島のニュースに詳しく、役にたちますよ!
また屋久島のことは、島からの発信である『生命の島』という雑誌を手にとってみて欲しい。この雑誌の発行人こそが、三省を屋久島に導いた人物である。


年の瀬に慎んで哀悼申し上げます…

2004-12-31 00:10:44 | ニュース
suzan2004年もいよいよ残すところあと1日となり、十大ニュースも災害のニュースばかりが上位をしめる(いまは「ハイライト」とか「あのとき」と言った取りあげ方になっている)。まるで、地球の異変と言うか、怒りのようなものを最期に示したのが、スマトラ沖の大地震(12/26)とそれが引き起こした大津波だったようだ。M9.0に上方修正された今回の地震は、地震の規模だけでも20世紀以来のこの104年間で4番目の大きさで、インド洋に面するおおよそ10ケ国のひとびとに未曾有の津波として襲いかかり、毎日死者の数が更新され、増えていき現時点で8万5千人の死者をもたらした。おそらく、この数は最終的には10万を下らないことになると思われる。インド領でスマトラ島の目と鼻の先にあるアンダマン・ニコバル諸島の被害実体がまだよく掴めていないからだ。島全体が壊滅したのでは?と思われている地区もある。
政府レベル、国境なき医師団のような緊急援助に即決で対応できるところはさておき、ほとんどのNGOは正月休みに入ったところで、年明けでなければ対応はできないだろう。

今回の大規模地震による津波で被害を受けたところは、かってボクが旅したことがあるところが多い。実は、気になる人もいる。インドのチェンナイ(マドラス)に留学してお母さんと住んでいたミオさん、スリランカの自力NGOであるサルボディアに入っていたタムラさん。ジャワ島だから無事かと思いながらも、海沿いの竹の家に住んでいたジャワ人の家族。ボクはこの家にしばらく、お世話になった、などなどである。タイのピピ島はパーティでも有名だったから、外国人バックパッカーが波にさらわれた可能性は大きい。マレーシアのペナン島や、ダイバーで大人気のモルディブなども大きな被害を受けている。

これらの被災者の方々の、冥福を祈りたい。

そして、28日N.Y.の病院で亡くなったスーザン・ソンタグにも哀悼の念をおくりたい(享年71歳)。今年なくなったエルヴィン・ジョーンズ、レイ・チャールスにもましてスーザン・ソンタグの訃報はやはり、「ある時代」の終わりをさらに沸々と感じさせるものだ。アメリカにはロクな文芸評論家はいないと思っていたボクらを刮目させ、ついには「キャンプ論」などで影響まで与えられた。「キャンプ」は結局、日本では受け入れられず、ブームにも話題にもならなかったが、ベトナム戦争への反戦闘士だったスーザンの論考は、その後も常に刺激的だった。それに、スーザン・ソンタグは女優並みの美貌さえ持っていた。美しき才女??美しさまでもそなえた才媛にボクらはからきし弱かった。
途中、コソボへのNATOによる空爆やアフガニスタンでは、このひとはタカ派に転じたのかとさえ思わせたが、9.11以降舌鋒鋭くチョムスキーらとともにブッシュ政権を批判し、一時は身の危険も感じるほどだったらしい。知識人の務めを果たし「隠喩としての病」に倒れた(S・ソンタグはガン、HIVに対するふたつの秀逸な病い論を書いている)。

いまは、静かにS・ソンタグの冥福を祈りたい。

主な著作(翻訳)
『ハノイで考えたこと』晶文社 1969年
『死の装具』(小説)早川書房 1970年
『反解釈学』竹内書店 1971年
『ラディカルな意志のスタイル』晶文社 1974年
『写真論』晶文社 1979年
『わたしエトセトラ』新潮社 1981年
『隠喩としての病い』みすず書房 1982年
『土星の徴しの下に』晶文社 1982年
『エイズとその隠喩』みすず書房 1990年
『火山に恋して』(小説)みすず書房 2001年
『この時代に想うテロへの眼差し』NTT出版 2002年
『他者の苦痛へのまなざし』みすず書房 2003年

共著
『狂気の遺産』JICC出版 1993年
『アルトーへのアプローチ』みすず書房 1998年

(S・ソンタグの写真は毎日新聞社のネットニュースから)