風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

つげ忠男の描線のこと

2018-07-06 20:23:32 | まぼろしの街/ゆめの街
劇画家つげ忠男の魅力は、そのGペンの筆致なのだ。まるで、情念が迸るような描線は、まさしく作品執筆当時の日々の重労働がもたらすものだった。
白いケント紙上に描かれた風景が、風景画を超えてゆく。その粗いとも言えるつげ忠男の描線は、私たちに何かを訴えてくる。何を?
絵画の技法にフロッタージュという技法がある。シュールレアリズムの技法でマックス・エルンストが始めたと言われている。「擦(こす)る」という意味のフランス語「rotter」に由来する。木肌や、年輪や、壁の凹凸の上においた紙や布に、上からクレヨンや、鉛筆でこすり木肌や、凹凸を転写するという技法だ。ある意味では素朴な技法なのだ。
つげ忠男の描線は、あたかも自らの深層の情念や、ルサンチマンを転写するかのように執拗に力を込めて引かれ、フロッタージュのように過剰だ。そのGペンで情念を転写したかのような描線は、数十年の時を隔てても、未だそこに留められて時間が止まったかのように見える情念そのものだった。複製芸術である劇画のザラザラした粗い紙に印刷された作品は、戦後の焼け跡闇市で低俗エログロ路線で売る目的で印刷された「赤本」(江戸時代からの絵草紙)や「カストリ雑誌」の派生物でもあったとも言えるのだ。
「劇画」はそれ自体、フィルム・ノアール(暗黒街、ギャングもの)やヌーベルヴァーグの影響を受けてきた。「劇画」の黎明期には、それこそ映画を丸写ししたような作品もあり、つげ忠男の実兄であるつげ義春もチェコ映画『夜行列車』をそのまま作品化した作品があるが、さすがに作品集には収録されていない。しかし、この作品はとりわけ両者を知っている私が見ても、愛好する作品でありいたく残念なのである(掲載された貸本劇画誌を私は所有している)。
かような歴史の中にある「劇画」作品であるからこそアウラとして東映ヤクザ映画の空気をまとったつげ忠男の『無頼平野』『無頼漢サブ』の風景は、元にして参考としただろう風景写真や現実の風景を超えて記憶の中の「戦後風景」を私たちに感覚させる。フロッタージュに見紛うつげ忠男の粗い線が、遺憾なく戦後という情念を浮き上がらせているのだ。  (2018年7月5日 記)

画像は下記の「オフノート」サイトからお借りしました。お許しください。
(「オフノート」では、この『無頼漢サブ』の生原稿及び他のポストカードなどを販売なさっています。ファンの方には垂涎のものでしょう)
http://www.offnote.org/SHOP/FOU-121.html

縄文フリークスPONのこと

2010-05-01 06:33:37 | まぼろしの街/ゆめの街
Ponaki_1975 宿無しの 旅の路上の 乞食(バム)の逝く(雲爺JUN)

 PONが、死んだ。チェルノブィリ24回忌(原発事故から24年目)だったこの4月26日午後2時20分ころ。訃報はメーリングリストや、ブログ、ツィッター、mixiなどを通じて多くのひとが知ることになった。PON本人はPCの操作も知らない化石のような世代に属していたにも関わらず。
 PONってだれ?と思われることだろう。PONがPCを操るはずがない。かれは、この世界を生きた真に「縄文時代」の野蛮人だった。1960年代の初め頃、バビロンシティ新宿にこのような野蛮人(聖なる野蛮人)、放浪者(バカボンド)、ホーボーやビートニクスが集い、集まったのだ。かれらは自ら「部族(TRIBE)」と名乗った。そして、その集ったカフェ、そこが「新宿風月堂」だった。
 その頃ボクは新宿の夜を徘徊する行き場もなく、家もないフーテンで、歌舞伎町の入り口の銀行前で、酔客相手に似顔絵描きをしていたひとりの侏儒と出会ったのだ。それが、PONで、似顔絵描きのPONはまるでインドのサドゥのように結跏趺坐をしてマントラを唱え、焼酎をガブガブと飲んだ。

 深夜ジャズ喫茶から「風月堂」へ鞍替えしたボクは、こうして山尾三省、サカキナナオ、マモ、ナーガ、秋庭ナンダ、シロなどの「部族」グループの連中と知り合うことになる。「部族」が「部族」と名乗った年、それが1967年で、アメリカではサンフランシスコのゴールデン・ゲート・パークで「Human Be'In」がアレン・ギンズバーグ、アレン・コーエンなどの呼びかけによって行われ、この年はのちに「Summer of LOVE」と呼ばれたのだ。
 その同じ年「Human Be'In」と呼応したアングラ新聞『プシュケ・ジャーナル』が刊行され、さらに年末には目も彩な多色刷りの新聞『部族』が刊行された。その表紙と裏表紙を飾ったのが、PONのイラストだった。そこには、息を?むようなヒンドゥ的な世界が踊っていた。たった三色のカラー刷りが、まるで多色刷りのサイケデリックな色合いに見えたのは、PONの絵の力量によるものだった。

 「部族」は、トカラ列島の諏訪之瀬島をはじめとする島々や、山奥などの辺境にコミューンを建設しだした。その中でも、PONのつくった無我利道場はヤポネシアからの独立を射程においた過激な運動だった。直接には奄美の枝手久島に計画されていた石油備蓄基地(CTS)の反対闘争だったが、地域を二分する対立の中で、無我利道場は賛成派の肩をもつ右翼の車の突入でケガ人を出すまでの犠牲を払うことになった。
 PONは「おまつりポンタ」という異名をもっていた。宇宙大のまつりを考えていたPONは、新宿のグリーンハウスから八ヶ岳山麓、位山どこであれ、体制にまつろわぬものとして万物をまつる祭司のような存在だった。ボクが、PONと再会したのも「88いのちのまつり」の会場だった。
 さらに、晩年のPONはマリファナ解放運動の先陣を切る。PON自身が初期の逮捕者と言う因縁もあってこの国では、古代からの有用植物であった「麻」を戦後、GHQの押しつけもあって「麻薬」に指定した。それでも、60年代半ばまではこの「麻」は、ありふれていて都会の片隅に群生をつくっていたりした。
 ポンはこの我が国にとっても伝統的な植物「麻」に「聖なるしるし」を見たのであるらしい。桂川大麻裁判の支援グループをつくったり、その広報・資金稼ぎの「アナナイ通信」などを刊行するその信念と情熱は晩年まで一貫していた。

 ありがとう!PON!お前の遺志はボクたちと若い世代が引き継ぐだろう。
 お前はシバ派のサドゥだったとボクは思っている。最後におまえと一緒に唱えよう!
 シャンカラ・シバを!
 ボン・シャンカール!

 ?シャンカラ~シバァ~♪
 ?シャンカラ~シバァ~♪
 ?シャンボーマハデバ♪
 ♪シャンカラシバァ~♪
 (永遠に繰り返す!)

Photo by aquilha/All night Rainbow Show at 1975

(4月30日にアースダムで配布された「ねたぞく新聞/ピースパイプ」にボクが寄稿した文章です。当日、Barスペースで読み上げました。写真提供の広島のaquilhaに感謝します。)



浄化とモルト・ウィスキー/チェルノブィリ以前以後

2010-04-26 13:48:16 | まぼろしの街/ゆめの街
忌まわしき
チェルノブィリの記憶
それもまた人類の歴史か
24回忌としての今日。

ボクは持っている
チェルノブィリ原子力発電所の事故以前の麦で
つくられたモルト・ウィスキーを。

「天使のおすそわけ」で
すこし減ったそのビンには
チェルノブィリ以前の豊かな地球の恵みが
詰め込まれている

ボクはウィスキーの箱に書いている
「忌まわしきチェルノブィリ事故以前」と。

四半世紀の忌々しい記憶として
来年こそは口をあけよう

ピュアな大地の恵みを
思い出すために
ピュアな地球を思い出すために
……琥珀色の液体に
きざまれた
チェルノブィリ以前の世界を。

チェルノブィリは
ニガウリの意味だった
まるで 黙示録が現実になったかと思った
聖書の予言が 現実になったかと思った
1986年4月26日の 恐怖の記憶
ニガウリは 地獄の苦さだった

それらが 浄化されるものなら
ボクは 事故以前の 豊かな大地の恵みを
地上に 降り注いでもいい
シングル・モルトの口をあけて
琥珀色の液体を
大地に 飲ませてもいい

女神ガイアが 酩酊して
ふたたび ピュアな大地が
取り戻せるものであるなら……
決して 惜しくはない。

(2010年4月26日チェルノブィリ事故24回忌に)


ユネスコ村の思い出(参考写真)

2010-01-25 02:15:49 | まぼろしの街/ゆめの街
Unesco_village_2 参考写真としてアップしたユネスコ村の記念写真を見て我ながらあらためて吃驚してしまった。まず、クラスの人数の多さだ。数えてみたら52名くらいいる。いわゆる「団塊」と言われるボクらの世代だ、ベビーブーマーとしての面目躍如の数である。
 さらに、後ろの方に並んでいるのは父兄だろうが、遠足に同伴したお母さんたちがほとんど着物姿である。昭和30年代は、まだよそ行きの装いは女性は着物だったのだろうか。洋装の大人の女性は見える限りでは、担任教師と子どもをヒザにのせているお母さんくらいだ。
 またまわりの道もアスファルト舗装されていないようである。

 中学生のときにユネスコ村を再訪したことがある。友人と往復500円の「小さな冒険」と名付けて当てずっぽうに電車に乗りハーフ判カメラをかかえて出かけた先がたまたま狭山湖だったのだ。その頃、長じてその近くに住むことになるなんてユメにも思わなかった。
 そして、狭山湖周辺を歩き回り、ユネスコ村へも入り、小学生の遠足で記念写真を撮ったそのオランダ風車小屋で写真を撮り合ったのだった。経営的に立ち行かなくなったのか西武鉄道がつくった「ユネスコ村」は、もうない。



あの時代の少女/浅川マキの死

2010-01-18 15:31:26 | まぼろしの街/ゆめの街
Maki_asakawa とり急ぎ書いておこう。浅川マキが死去した。もっとも早かった時事通信の訃報によれば、公演先の名古屋のホテルで17日夜、倒れているところを発見され病院へ搬送されたが、既に死亡していた。急性心不全とみられると言う。享年67歳だった。

 思えば、不思議なシンガーだった。ポップスでもなければ、歌謡曲でもなく、ましてフォークでもない。そのバックミュージシャンはジャズメンが多かったが、ジャズのようでもあり、またシャンソンのようでもあった。登場したときは、ニューミュージックという謳い文句だったような気がするが、ジャンル分けは難しくマキのアルバムのタイトル通り「浅川マキの世界」としか言い様がないものだった。
 むしろ低い声でつぶやくように、語るように歌ったその歌はダークで、真っ黒な服を好み長い黒髪を垂らしてフテたように歌うのだった。そのスタイルは、デビューした67年から変わらなかっただろう。本人はどうおもっていたか知らないが、ボクらは彼女をその頃の新宿を背負った歌手だと思っていたし、マキのような感じのフテくされた家出少女はフーテンとしてどこにでもいたからだ。
 蠍座での初ライブを演出した寺山修司の「天井桟敷」にいたもうひとりのマキ、カルメン・マキもそのような薄幸の美少女イメージだった。
 ボクの詩「風月堂の詩(うた)」にこのようなフレーズの箇所がある。

 絶望のためには
 白い薬が お似合いだと
 見知らぬ少女は うそぶいて
 暗い新宿(ジュク)の闇に 消えた
 病気持ちの処女として……

 ある時代を荷なった女優や歌手というものがいる。カルメン・マキや女優では桃井かおりや、そしてシンガーでは浅川マキだろうか。彼女たちはボクが詩の中にえがいたあの頃のフーテン娘の悲しい性を背負っているような気がしてならない。

 さ、よ、う、な、ら、……浅川マキ!



15年目の風景

2010-01-17 23:56:21 | まぼろしの街/ゆめの街
 中身はともかく(まだ終わっていないのだ)阪神大震災のからみの番組なんだろうと、見だした『その街のこども』という特集ドラマは、いわば神戸周辺を彷徨い歩くような番組だった(て、まだ終わっていないのだが……)。
 サトエリと森山未來という神戸出身の俳優が、神戸弁でセリフともしれない対話をくりひろげながら、夜の神戸を彷徨うのだが、その風景を見ていて、ボクも思い出したのだ。神戸、三ノ宮、長田などの風景を……。

 そう、ボクは震災から2年目だったかの神戸をボランティアとして訪ねたことがあって、もうほとんどの瓦礫は片付けられていたが、高速道路はまだ復旧しておらず、街は空き地だらけで、あちこちに花束が飾られた場所があり、プレハブ建ての店があり、市民野球場には仮設住宅が建ち並んでいた。ボクはあるNGOの現地事務所に宿泊させてもらって担当する仮設住宅を訪ねたり、いま困ったことはないか聞いて廻ったり、手伝えることは手伝ったり、行事に参加したりした。
 仮設住宅での老人の一人暮らしで「孤独死」が取りざたされていた頃で、実際に櫛の歯が抜けるように一人暮らしの老人たちが、誰にもみとられることなく死後数日経ってから発見されるということが、日常茶飯事に起こっていた。
 仮設住宅は、その殺風景さと言い、何かに似ていると思っていたが、それがなんだかいま気づいた。まったく同じプレハブ住宅が立ち並ぶ仮設住宅は、そう、炭住に似ていた。あの炭坑地帯の居住環境としては、最悪のあの貧しい炭坑夫の家族が住み暮らす家の佇まいに似ていた。

 休みの日だったかに、長田の現地事務所から鷹取へ行き、鷹取教会と「FMワイワイ」のスタジオを訪ねたこともあった。
 これは、東京に神戸のメッセージを伝えに歌いに来ていたおーまきちまきのバックをしていた野村アキの関係だった。かれは、その頃解放同盟の専従を離れて「FMワイワイ」のディレクターをしていたのだった。

 こんな関わりの話をするつもりではなかった。そう、神戸の風景だ。それも観光地としてではない、庶民的なそれでいてあの時だからこそ垣間見えた風景の話がしたいのだ。

 そんな風景が、その『その街のこども』というドラマの後ろに垣間見えたような気がしたのだった。傾いたままの電柱、公園の中でブルーシートで雨風をしのぎ暮らしていたひと、礎石だけ残った空き地の枯れた花束、倒れなかった地蔵堂、火事を食い止めたという話の伝わる両手を広げたキリスト像、モチ搗きや盆踊りで屈託なく笑い合う長田の被災者のひとたち、識字教育学級のおばちゃんたち、現地事務所の近くにあったプレハブの居酒屋……大昔にヒッチハイクの中継地として行ったことのある神戸は、こうしてボクの思い出を限りない風景で埋め尽くしてくれた。

 そしてまた、さらに震災後に一年を積み重ねた神戸が始まるのだろう。


ディープ浅草(被官稲荷社)

2010-01-09 00:42:16 | まぼろしの街/ゆめの街
Hikan_sinmon 本殿改修中の浅草寺の東隣に、これまた初詣客が列をなしていた浅草神社がある。そしてその奥にひっそりと小さな稲荷神社がある。間口約1.5m、奥行約1.4m杉皮で屋根を葺いたそれは安政2年の創建当時のものであるという。大正時代に覆い屋を作り雨風から守られている。被官稲荷社と言う名の社(やしろ)だ。
 鳥居の脇に台東区教育委員会が建てた案内板があり、この被官稲荷社の由来が分かる。
 その案内板によれば、安政元年、新門辰五郎の妻女が、病に伏した時、京都の伏見稲荷に祈願した。すると、病気が全快したので、伏見から勧請してこの地に稲荷社を建てたと言う。
 その案内板には、浅草寺伝法院新門の門番を命じられたので、その名の由来があり、町火消し十番組の組頭だった、と位しか新門辰五郎については書いていない。きっと教育上の配慮が働いたのだろう。
 と言うのも、新門辰五郎は配下に三千人もの手下がいたと伝えられる侠客だったからだ。若干24歳で浅草十番組「を」組を継ぎ、喧嘩と火事は江戸の花といわれるその両者を仕切って名をはせた。
 それだけではない。徳川慶喜が上洛した際には、その身辺警備、二条城の防火に心を砕き、洛中のパトロールもかってでるという活躍ぶりで、慶喜の全幅の信頼を勝ち取っている。慶喜の大奥の妾に娘を差し出してまでいる。
 新門辰五郎は明治8年に浅草で死去する。76歳であった。
 剛胆な人物だったらしく、その辞世の句は酒と女が好きで、食道楽だった辰五郎本人を表すような一句だった。

 思いおく 鮪の刺身 河豚の汁 ふっくりぼぼに どぶろくの味

 ちなみに江戸庶民を代表するような存在として新門辰五郎は幕末時代劇によく登場するが、最近では中村敦夫が(当初は藤田まことがキャスティングされていた)演じた『仁~JIN~』がある。打ち壊し(それが江戸時代の消火法)が専門だった辰五郎が仁のために診療所(病院)を建てようとする姿が印象的だった。ま、結局竜頭蛇尾のTVドラマだったわけですが……。

 この神社で領布しているキツネの置物が、なんとも愛らしく、つい求めてしまった。いま、その雄雌(?)二体のおキツネさまとボクとで、油揚げを取り合っているくらいである。

(写真)被官稲荷社本殿。間口1.5mの小さな社殿。安政2年当時のもの。(撮影:フーゲツのJUN)



ディープ浅草(アリゾナ)

2010-01-07 23:53:45 | まぼろしの街/ゆめの街
Arizona_kitchen 実は川田晴久(義雄)は根津の生まれらしい。時代は、違うが根津と言い浅草と言い、親近感を禁じ得ない。小石川の小日向(現文京区春日町)で、明治12年に生まれた文学者もこよなく浅草を愛した。とりわけ千葉県市川に住んだ晩年は、タクシーを飛ばして浅草へ通うこともしばしばで、浅草のストリップ小屋で踊り子に囲まれ、談笑し、「アリゾナ」でトマト煮込みのシチューや、ビールを片手にきままな一人暮らしを楽しんだ。永井荷風である。
 その荷風が毎日食した食事の記録でもある有名な「断腸亭日乗」には、荷風が踊り子を引き連れて「アリゾナ」へ繰り出した記述もある。

 「昭和24年7月16日。晴。哺下大都劇場楽屋。踊子等とアリゾナにはんす。此夜上野公園に花火あり。」(原文漢数字)

 どうやら先生はこの日、御贔屓のストリップ劇場の楽屋に入り浸り、そのまま踊り子たちを引き連れて「アリゾナ」で大騒ぎをしたらしいのです。もっとも、先生が「アリゾナ」へ通いだしたのは、この年の7月12日、つい四日前のことでございました。
 先生は書いてらっしゃいます。

 「昭和24年7月12日。晴。午前高梨氏来話。小川氏映画用事にて来話。晩間浅草。仲見世東裏通の洋食屋アリゾナにて晩食を喫す。味思ひの外に悪からず値亦廉なり。スープ八拾円シチュー百五拾円。」

 昭和24年の物価水準で80円、150円というのがどれほどのものかというと、山手線初乗りが5円。教員の初任給が4,000円ほどである。けっして安くはないと思う。平成21年正月で、「アリゾナ」はハヤシライスが1,200円、トマト煮込みのものが1,400円くらいだった。もちろん、それにライス、パンがつく。相対的には現在の方が、安く食べられているという感じだ。

 「アリゾナ」はその名前から推測がつくように、アメリカンそれも西部料理のようだ。トマトベースの煮込み料理がメインで、ある意味ではワイルドな料理なのである。それを、ことのほか先生が気に入ったのは、自身の若き日の1902年に渡米し、6年あまりNYやリヨンで銀行員として働いた体験があるのかもしれない。その折に覚えたアメリカン料理の味が懐かしかったのかもしれない。先生はそののち、パリに遊学する。先生にはこの頃の見聞を書いた『あめりか物語』、『ふらんす物語』という作品があるのだ。

 現在の御亭主の話では、全面改装しており永井荷風が来店していた頃とは、つくりもレイアウトも違うという。それでも、テラスに面した窓が、全面引き戸のガラス窓だったり、暖炉があり、レンガが壁面に使われている等店はどことなく古めいた感じがするのだ。そのテラス席もペットの犬をつれたお客さんが座ったりと、充分活用されている。一段低くトイレがあり、そこに手すりがついているのも面白い。

 日和下駄に、蝙蝠傘、ロイド眼鏡、上下黒っぽいスーツで決め、ソフト帽をかぶった姿で、明治生まれにしては長身(175センチ余りあったらしい)だった荷風は、風貌からそうは思われないようであるが、実は男としてのダンディズムを生きたのであった。

(永井荷風の著作権は、この2010年元旦で切れ、はれて荷風は公に人類の財産になった。「青空文庫」での荷風作品の入力作業がすばやく進まれることが望まれる。ボクたちは待っています。ボクらのブログがタダで読まれるように、文豪と呼ばれるあなたたちの作品もそうなることを!)

(写真)「アリゾナ」の旧看板(撮影:フーゲツのJUN)



ディープ浅草(喜劇人の碑)

2010-01-06 14:35:30 | まぼろしの街/ゆめの街
Memorial_tablet 4日、全くひさしぶりに足を伸ばし浅草へ初詣に行く。仲見世通りの参道を人ごみにもまれて歩いていたら、新年年頭の気分になれた。やはり初詣とか、七福神巡りとかご年始の挨拶だとかそのようなイベントを組み込まないと、「気分」というものは高まらないのかもしれない。善男善女のような顔をして厳しい世相の中、神にも仏にも必死にすがる気持ちで群衆は仲見世通りをそぞろ歩いているのかもしれないではないか。衆生のひとりとしてその中へ紛れ込むのだ。

 今回、もちろん初詣もあったが、浅草まで足を伸ばしたのにはふたつの理由があった。昨年知り合った墨絵イラストの素敵な絵を描かれる方とお会いするのと、もうひとつ浅草寺の境内にあると知っていた浅草喜劇人が建立した「喜劇人の碑」を探すという目的だった。
 到着したのは昼時だったので、素敵なイラストレーターの方と落ち合った後、さっそく永井荷風が好んだ洋食レストラン『アリゾナ』へ行く。しばらく閉まっていたらしいが、近年、改装して営業している。ボクは日本オリジナルの洋食メニューたるハヤシライスを注文する。どこか懐かしいレトロ・モダーンな味だった。浅草に20年もお住まいのイラストレーターの方も初めての入店だったとか。

 人ごみにもまれて浅草寺の初詣をすますと、さっそく件の碑を探しにかかった。すこし手こずった。それというのも境内内にはあちこちに飲食のテントが建ち、まるで縁日のような様相を呈していたからだ。
 しかし、それはほどなく見つかった。境内のはずれに石碑ばかりが集まった一画があってその中に「喜劇人の碑」はあった。
 碑の表には笹川良一による碑文「喜劇人の碑」があって、裏面に物故した喜劇人の名前が彫ってある。そして、なんとその最初に刻まれた喜劇人の名前が「川田晴久」だった!(写真)
 「川田晴久 昭和三十二年六月二十一日(五十一才)」とある。享年はこの場合数えのようだ。腎臓結核だった川田は、1957年のこの日に尿毒症を併発して死去している。50歳という若さだった。
 さらに「古川ロッパ、八波むと志、清水金一、堺駿二、榎本健一、山茶花究、森川信、柳家金語楼……」と続く。ボクが少年時代に浅草に遊びにきていた頃は、このような碑は知らなかった。それもそのはずで、この「喜劇人の碑」は、昭和57年(1982)に建立されたものらしい。
 多くの参拝客はその碑の近くで、思い思いに休んだり飲食したりしていたが、ほとんどそんな石碑には関心がないようであった。ボクが、自分の娘にたしなめられたりしながら大騒ぎしていると、近くで弁当を食べていた着流しの初老の紳士が、「ほう、川田晴久をご存知ですか。見かけによらぬお年ですな。」と声をかけられた。そして隣のイラストレーターの方を見て、「お若い方はご存知ないだろうが、川田晴久は美空ひばりを育て……」と、ボクが、先日の記事に書いたようなことをお喋りになる。御年70歳であられるお方だった。

 なんの説明も書かなかったが、昨日のノヴァ!の告知に貼付けた写真が、その浅草の「喜劇人の碑」の写真だったのです。



NPOが運営する街の映画館保存運動

2009-12-20 01:12:13 | まぼろしの街/ゆめの街
Scaraza_cinema いや、ボクもまったく知らなかったが、「川越スカラ座」はプレイグラウンドというNPO法人が運営するユニークな映画館だったのだ。
 「川越スカラ座」は、その前身は「一力亭」と言う寄席で、なんと明治38年に出来た。40年に「おいで館」、大正10年に「川越演芸館」という名前で市民に長く親しまれてきた演芸の殿堂だった。それが、映画館になったのは昭和15年で、戦争中に「川越松竹館」として生まれ変わる。さらに、戦後の昭和38年に「川越スカラ座」となって44年間の歴史を積み重ねて2007年に閉館する。閉館の話が持ち上がった頃から「川越の町から映画館の灯を消してはいけない」と言う声があがり、NPO法人が動き出したということらしい。運営主体が、NPO法人に引き継がれてから2年目が過ぎ、「川越スカラ座」は、映画監督のみならず、地域の文化活動の貸しホールとしての役目も担っているらしい。もちろん、ボランティアも重要な支え役になっているが若者も集う交流スペースの役割も果たしているらしいのだ。
 この話を聞いたとき、ボクはとっさにこのあいだまでやっていた川越が舞台のNHK連続TV小説『つばさ』に登場した映画館を連想したのだが(主人公つばさが働く地域FM局は長い歴史を持った元映画館だった)、それは半分くらいは当たっていてあと半分は別のところの話とくっついた設定だったそうだ。

 この話を聞いて、ボクはボクにとっても懐かしい「根津アカデミー」や、他の「名画座」がこのような形と情熱で守られなかったことに残念な気持ちがした。先日行った目黒にも権之助坂の坂上にあった小さな映画館など、ミニシアターと言うか地域に親しまれている映画館を失いたくないし、そのためにはもっとこのような映画館にシネマを見に出かけなければならないんだと思ったのであった。
 「川越スカラ座」に関しては、いま「映画会員」になろうかと検討しているところです。

(写真)「川越スカラ座」正面写真。



風神のもたらしたもの

2009-10-09 01:29:23 | まぼろしの街/ゆめの街
 (8日)午後から台風の風は弱まってきた。ならばと根性を出して、洗濯を始める。干しだしたのはいいのだが、幾度も風にあおられて竿ごと吹き飛ばされた。

 しかし、ひとつだけいいことがあった。強い風にのって何処とは知れぬ金木犀の香りが、漂ってきたのだ。ボクがこの小さな花をつける樹木の芳香とも呼ぶべき香りが好きなのはこれまでも何度も書いている。だから、ボクは思い切りその香りを胸一杯吸い込んだ。そして、そぞろ金木犀の咲く季節になったのだと気づいたのだった。

 もうひとつ、耳を澄ますと、上空を通り過ぎるジェット気流のような風のうなりが聞こえた。少し、不安を呼び覚ますようなこの天空の風のうなりを聞くのが、幼い頃から好きだった。一番好きなのは、春先のあの春一番と呼ばれている風のうなる音だ。この風が吹いてくる頃には、待ち遠しかった春の訪れとともに、ふるさとからの呼び声を聞くような思いになる。ボクは長崎で生まれた。その街では、スコールのような雨上がりの後、奇妙な光に街が包まれることがある。
 今日の洗濯物の中にはシーツがあった。それが、パタパタと風を含んではためく。一家離散ののち、やむなく上京して、日暮里の谷中銀座の近くに住んでいた頃、谷中銀座のどんづまり、夜店通りとぶつかるT字路に信用金庫の店舗があって、その屋上にかかげた社旗がパタパタとうるさいくらいにはためく。その頃、ボクは息が詰まるほどの思春期のさなかにいて、その旗の音が苦しくてならなかった。

 台風は、異様な低気圧をもたらし、その影響をひとは心理的にうけるらしい。騒擾(そうじょう)と言うのだろうか、そんな何かを置き忘れたようないそいそした気分は台風の相乗効果だったのだろうか。


9/21池袋モンパルナス探訪ツアー・要項

2008-09-19 00:58:48 | まぼろしの街/ゆめの街
Atorie_west_1 次回のE.G.P.P.100に設定したテーマのために久しぶりに電脳・風月堂主催で「池袋モンパルナス探訪ツアー」を実施したいと思います。大正デモクラシーの自由な気風をひきずって昭和10年ごろをピークとして「池袋モンパルナス」と詩人小熊秀雄によって名付けられたアトリエ村が豊島区長崎、千早町、要町あたりに乱立しました。詩人、画家、モデルが入り交じって繰り広げた日中戦争そして太平洋戦争前夜のつかの間のアート・コミューンとでも言えそうなアトリエ村群だったのです。
 そして、その「池袋モンパルナス」を彩ったひとたちには靉光、松本竣介、寺田政明、吉井忠、熊谷守一、丸木位里、丸木俊、野見山暁治、長沢節、長谷川利行、佐伯祐三、古沢岩美、浜田知明などなど近代および現代絵画を飾る画家たちの名前は枚挙のいとまがないほどです。
 おおよそ70年という時間の経過により、それらのアトリエ村は一般住宅やマンションに建て替えられておりますが、それでもそこには往年の面影を感じさせる家があり、路地があり、数軒のアトリエがあります。
 資料館で知識を補充しながら、「池袋モンパルナス」の地霊を感じに行きたいと思います。自由参加で入場料などの費用は自前、台風の影響も危惧されますが、以下の要領でツアーを開催しますので、参加を希望なさるかたはメールで連絡先(携帯やメール)を明示してお申し込み下さい。
 また、mixiのE.G.P.P.100イベント欄や、コメントでもOKです。

 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥
 日時:2008年9月21日(日)13:00 池袋西口「東京芸術劇場」エスカレーター前(池袋ウエストゲート・パーク内)集合
 コース案:郷土資料館→江戸川乱歩邸→さくらが丘パルテノン→熊谷守一美術館→つつじが丘アトリエ村→アトリエ村資料館→交流会(?)
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 全行程ゆっくり歩いて2時間くらいと思います。ウロ覚えなので探しながら行きますのでよろしく!

 ※参加を表明なさった方には、メールなどの手段で当日までにボクの携帯番号等をお教えします。なお、雨天、台風(笑)決行することを前提とします(アトリエ村資料館は土日しか開いていないため)。



置き忘れられたモニュメント

2008-03-13 01:08:59 | まぼろしの街/ゆめの街
Kabukicho_2 その街を行き交う人は、まったく意に介さないか、見過ごして通り過ぎてしまい、そんなモニュメントが建っているのさえ知らないのだろうが、新宿歌舞伎町のコマへ向かう通りにそのレリーフのモニュメントはある。そこへゆくとボクは、周りの喧噪も派手な看板も、すっかり変わってしまった街の佇まいも忘れて60年代半ばのその時へタイムスリップすることが出来る。

 ボクは、この空を見上げるような女性像に惚れていた。そのモニュメントはその頃、ボクが毎日のように通っていた新宿ビートニクスのとりわけワルばかりが集っていた『ジャズ・ヴィレッジ』のすぐそばにあった。フーテン明けの夜が白々と明け染めた新宿の朝に、いやでも目についたし、なんだか、その母さんのように逞しげな肩や、胸元に郷愁さえ感じてしまい、家出をした先の母の面影さえ感じてしまうのだった。

 このレリーフ像には、2面あって反対側から見るレリーフは、これまたどうした訳か母の面影と言うよりは、長い髪を垂らした少女像のようにも見えるのであった。
 無雑作に積み上げられたレンガ石の上に、そのレリーフはあってその礎石から何からが、そこだけ40年以上の年月をそのままにまるで新宿と言う世界遺産「不夜城」の遺跡の上に奇跡的に残ったモニュメントのようで、ボクは幼い頃にボクが生まれた街である長崎で見た浦上天主堂の「被爆のマリア像」を連想させたりもしていたのかもしれない。

 先日、高円寺からの帰りにそこに立ち寄ったボクは、その像の礎石をなでてきた。すると、イメージはフラッシュバックし靖国通りには都電が走り、パンタグラフからフラッシュするアークが見え、歌舞伎町はジャズとR&Bの音楽で満たされ、角の銀行前ではポンが似顔絵描きをやっており、歌舞伎町公園の方から歩いてくる懐かしい仲間たちが見えたように思えたものだった。

 歌舞伎町には「スカラ座」がつたをからませた古色蒼然とした佇まいで建っており、「ポニー」があり、「ニューポニー」「木馬」「ヴィレッジ・ヴァンガード」「ヴィレッジ・ゲート」などのダンモの店、「王城」もその本来の名曲喫茶で経営し「カチューシャ」もロシア料理の歌声喫茶として開いている。
 そんな懐かしい幻影が見えたように思えたのだ。

 ああ、懐かしき青春。ボクのフーテン時代よ!



子守唄に抱かれて……/松永伍一さんを悼む

2008-03-08 23:58:20 | まぼろしの街/ゆめの街
 5日の新聞だったと思うが、ある詩人にして評論家のささやかな訃報記事が掲載されていた。
 松永伍一さん、詩人、作家、評論家。心不全のため3月3日死去。享年77歳。
 文壇や詩壇には所属せず、孤高の道をつらぬいた詩人だから、知っている人は多くはないかも知れない。この方は、その書くものがどこか土俗の匂いや、その郷土である九州の風が吹いていた。
 そして、やはり詩壇というものに縁のないボクが珍しく実際に会ったことのある詩人なのである。それも、それをとりもってくれたのが死んでしまったボクの母(そう、樹木となって千葉の天徳寺に眠る母)なのである。

 30年ほど昔になるが、当時まだ西武新宿線のS駅にほど近いアパートでひとり暮らししていた母が、ある日、松永伍一さんが近所に住んでいるから会ってみるか? と聞いてきたのである。一時は、そのおなじ駅の違うアパートに住んでいたこともあるボクは吃驚してしまった。松永伍一さんって、そんなにも近くに住んでいたのか、と。
 それで、母に紹介の労をとってもらったのだが、松永伍一さんは当時40代後半。まだ頭髪も黒く若々しく印象的な優しい目をしてらした。
 実のところ、何を話したのかよく覚えていないのだが、ボクは、松永伍一さんを長く農民詩人だという印象でとらえており、当時のボクは農業に多大な関心を持っていた頃なので、農業と詩人であることといったようなテーマを宮沢賢治などをひきあいに出しながら喋ったのではないかと推測する(自分の日記から、その記述を探し出してみる余裕もなかった)。

 とはいえ、そんなにもたくさんの著作を読んでいる訳ではない。印象に残っているのは、『荘厳なる詩祭』、『底辺の美学』や、天正少年使節のことを書いた『天正の虹』だろうか。しかし、忘れがたいのは『日本の子守唄』や『一揆論』といった本である。生涯を通じて150冊近くの本を書いた。
 『日本の子守唄』は、最近「日本子守唄協会」というNPOまでつくられ、子守唄が見直される風潮の中で(松永さんはその協会の名誉理事にまつりあげられたようだ)先駆的な研究書となった。ボクは、個人的には九州というみずからの郷土を掘り下げていったら「子守唄」という捨てられた棄民の唄に出会ったということだろうし、それにおそらくは松永さんと同郷の北原白秋の試みにちなんだのではなかったのかとにらんでいる。

 松永伍一さんは、谷川雁が「サークル村」づくりを北九州の炭坑地帯で「工作」しはじめた頃に、雁の「東京に行くな」という呼び掛けに逆らって上京し、同じ場所で根付いたように住み続け、そしてそこから郷土九州の根を掘り下げていったひとだと思っている(上京したのは1957年)。
 あの優しい小動物のような目は、おそらく土俗の葛藤を克服して獲得したものだったのだろう。
 松永さんは、晩年おつれあいの介護をし、妻を見取ると(05年11月)、自身脳硬塞で倒れたりして病がちだったようである。

 さて、ボクはいぶかしく思うのだが、どうしてボクの母と詩人松永伍一さんとの接点があったのだろうということだ。いま、ボクは確信して思うのだが、それは、ただ一点、ともに九州生れだということだったのだろう。たまたま、近所に住みお隣さんのような関係になった母が、なにやら何になりたいのかよく分からぬ不肖の息子に会わせてみるかとでも思ったのだろう。
 そして、同じく九州生れのボクへ、松永伍一さんはかぎりなく優しかった。それだけは、はっきりと覚えている。

 御冥福をお祈りします。合掌。