風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

笑い話/遊園地編

2006-11-29 23:59:57 | コラムなこむら返し
 日暮里周辺で過ごした少年時代??それはとりもなおさず昭和30年代だったのだが、市部つまり23区以外は東京と認めていなかった。つまり市部は遠足や、ハイキングで行くところだと思っていたのである。
 それも無理はない。実際、いまや近所のユネスコ村や、村山貯水地なんて遠い日の遠足の思い出であり、そこが東京だなんて信じていなかった!

 で、ディズニーランドもない当時の遊園地といえば、後楽園遊園地だったし、浅草花屋敷だった。そんな中、微妙な距離感の中にあって、やはり東京なのかしらん? と思わせたのが「としま園」である。

 先に言っておくが、ボクは、レトロなというか、ひなびた今にも潰れそうな「遊園地」が、大好きである。その規模が小さければ小さいほど良い。なんというか、ボクのたましいの中の「10月の国」(オクトーバー・カントリー)が甦ってくるような気がするからである。
 それに、「としま園」で一番すぐれているものは「メリーゴーランド」だ!
 たしかに痛みも激しいが、このメリーゴーランドにはじめて乗った時、ボクは思わずこれにくらべれば「他の木馬は単なる「回転木馬」だ!」と、訳の分からない感想をいだいてしまったくらいである。

 ここでいまだ現役で回っているメリーゴーランドは、もうすぐ100歳になろうかという大変高齢の高貴な方なのである。いや、高貴なメリーゴーランドなのである。
 そのメリーゴーランドはアール・ヌーヴォー様式のエル・ドラド製(ドイツ)の由緒ある製品なんだそうだ。つまり、としま園で回っているメリーゴーランドはそのものも、レトロだが、由緒あるヨーロッパ生まれのアンティークなそれでいていまだ現役である。素敵だ。本当に、夜、そのメリゴーランドがまわりながら放つ光を見つめていると時間が逆行する感じがする(笑)。

 そこで、ボクは深く(笑)知ったのだ! この遊園地の名前の由来を!
 そう、それはエル・ドラドというヨーロッパ生まれのとてつもない高貴な女性(メリーゴーランドは女性名詞ではないだろうか?)が、君臨する「年増園」だということを!(爆笑)

(註)これは、ジョークです。西武池袋線の「練馬」駅から右にかしぎながら、枝別れした線路を行く間に、なんだか空間が歪む感じがいつもします。で、行き着いた先が「豊島園」から「年増園」になってる気がするのかもしれません(笑)。住所は練馬区です。
 なお、現在、豊島園の中には地下から揚水した「温泉」(正式にその基準を満たしているのかどうかは不明)「庭の湯」があり、たしかに「現役年増」がたくさん訪れてはいるのですが……。

(さらに註)「年増」とは江戸時代には、なんと20歳代の女性も言ったそうですが、現代では30歳代なんだそうです。いえ、ボクが言ってることではありません。ボク個人は「熟年女性」という意味で40歳以上を(希望としては)指したいと思っておりますので、念のため。


笑い話/書名編

2006-11-28 23:59:42 | コラムなこむら返し
 いや、今日はボクも充分に(充分以上かも?)俗人だと言う自己暴露をしておこう。
 読む傾向の本に特別の偏向はないと思っているが、どうしてもビート関係や、60年代物には目がいってチェックしてしまう。で、新聞の書籍の広告等も目を通している訳だが、先月の「岩波」の新刊広告を見ていたら、顔を赤らめてしまった。
 それも、テオフィル・ゴーチェの作品で岩波文庫から刊行されるのだ!

 その名も 『ノーパン嬢(上)(下)』(全2冊)!

 ウッ! ゴーチェの時代にノーパン喫茶なんてあったっけ?! それも、ノーパン嬢の上下だなんて! えげつない! などと思っていたら、それは

 テオフィル・ゴーチェ『モーパン嬢(上)(下)』(全2冊)

だったのです! オレもついに目まで(!)おかしくなったかと、アタマとともに疑いました。
 テオフィル・ゴーチェ(1811-1872、フランスの幻想文学の作家)の時代にノーパンしゃぶしゃぶなんてあったら笑っちゃうよね! なんてくだらない事を考えているのでした。
(困ったことに、その後もこの本をつい「ノーパン嬢」と読んでいるボクがいるのでした!)


みたかきいたかそぞろ歩き(5)/「上々堂」にて新発見!

2006-11-27 23:59:47 | コラムなこむら返し
Shanshando 三鷹にはいまやベトナム・レストランさえある! 三鷹にまだ風が吹いていないのはエスニックだと思い込んでいたボクは、今回のそぞろ歩きでベトナム・レストランとバリ風のエステティック・サロンを見つけて少しずつだが、三鷹にもアジアの風が吹いてきていることを実感した。だが、まだまだディープなアジアというよりさわやかなアジアで、ま、そのほうが三鷹には合うようだが……。

 禅林寺から駅へ向かう途中に立ち寄った店の中で古書店「上々堂」について今日は書いておきたい。「上々堂」へ行くのは午後が良い。以前、立ち寄った時はボサノバが流れていたが、この日は、静かにダンモが流れていた。そして静かな店内の時間の流れと、少し古臭いジャズは溶け合ってよく似合う。
 この古書店は、西荻の某店の姉妹店である。両者ともに古書のヴィジュアルな並べ方にセンスを感じる古書店である。現在、このような店の経営にもセンスや、感性というものが求められてきているようで、それが証拠にというか三鷹駅南口にここよりも前から営業していた古書店は、店をたたんでいた。いわゆる、これまでの古書の雑然と積み重ねられた古書店だったが、客足とりわけ女性客の足はそれでは遠のくばかりだったのだろう。
 「上々堂」のターゲットは女性客と、子どものようである。昔の女性誌と絵本がそれはセンスよく、思わず手に取りたくなるような面持ちで並べられてあるのだ。古書はぎっしりというよりは、少なめで間引いてスペースに余裕を感じるような棚の構成だ。つまり棚が選択されてあるのだ。
 しかし、それであってももはや見ることも手に取ることもできなくなった書籍がそこにはあってなかなか購買欲をそそるのだ。

 で、今回それも「上々堂」の値付けからいったら安価だろうプライスで手にいれたのだ。

 『終末期の密教』稲垣足穂・梅原正紀編・著 産報/1973年

 このアンソロジー形式の本のテーマは密教であるにもかかわらず、山尾三省が「部族」について書いている。その内容はのちに、『聖老人』(プラサード書店のちに野草社から復刊)にまとめられるが、その出典である。ただ、今回そのことを発見したが、初出は「思想の科学」誌(1971/09)であり、三省はこの記念碑的な部族の誕生秘話を3回も使い回ししていたことが、今回の「発掘」で明らかになった。

 このボクの発見もこうしてブログにて書き、ネットで公表したことによっておそらくどこかの「コソ泥」ライターに目を付けられて盗まれるに違いない。いや、以前あったようにだれかの卒業論文にひょう窃されるかも知れない。くれぐれも、「引用」だと言い張るのなら「出典」を明らかにするように!

(以前、ボクがダダカンについて書いたことが、あるサブカル本からのひょう窃ではないかと誤解したひとがいたようだ。残念なことに、それは違う。それは、当時からボクが知っていたことだった。ダダカンの70年万博会場でのストリートキングは「反万博」に関わったひとなら皆が知っていたことだった。それは英雄的な最高のハプニングとして、アートとして称えられていた。)

<追記>ついでに書いておくと、この『終末期の密教』の三省の文章につけられた写真はなんと若き日の「ダダカン」そのひとで、なんという偶然なのだろう!

(まだつづく)



みたかきいたかそぞろ歩き(4)/中央線の恨・散文と檄文(笑)

2006-11-26 23:59:51 | コラムなこむら返し
Taiyaki_1 中央線がこの数年来ブームらしく中央線の各駅のうんちくを垂れるのがはやっておりますが(ついにマガジンまであらわれた)、多くは中央線と縁もゆかりもないライターさんが既存の資料に依拠して書いているため資料のないところは空白ができてしまう。
 じつは、この三鷹駅南口もそうである。というか、多く三鷹は空白になっているか、吉祥寺と一緒にされてしまうことが多いようだ。
 そしてそれらの雜文ライターさんは、原稿料を稼ぐために書きとばす必要から、ネットからネタと情報をパクって、その元ネタの出典(引用元HPアドレス、ブログアドレス)も表示せずにあたかも自分が取材したかのような文章をデッチ上げる。
 それが、プロというものさ、と転倒した誇りをいだいてかれらがふんぞりかえっているのが見えてくるようだ。
 さて、そんなものは「コソ泥」であって「プロ」ではない。ひょう窃を自らのオリジナルのように見せかけるほどのサギ(詐欺)はない。
 ボクは「新宿風月堂」に関する詳細なデータから、自らの思い出、記録、調査、オリジナルの見解(歴史的)位置付けなどをHPで発表しているが、HPの紹介コラム以外でアドレスどころか、参考文献表示などされたことがない(たとえば代表的なひょう窃が「新宿歴史博物館」の刊行本。オリジナルの見解を刊行本によって勝手にひょう窃され、流布されてしまった)。
 さほど、「本(書籍)つくり」の世界では、平然としたひょう窃がまかり通っているのなら「本(書籍)つくり」などなくなってしまえばよいと幾度思ったことか!
 インターネットの世界は、ひょう窃と違法コピーの世界だとはよく批判的に言われることだが、出版界もひとのことは言えない。

 ボクは今の今まで三鷹駅前に60年代にあったクラシック喫茶とその変遷の話を書こうと思っていたが、どうせパクられるだけだと思い直して気が変わってしまった。
 ライターと文士は違う存在だろうが、ライターには「もののふ(武士)」のたましいがない。おっと、三島のことを書き過ぎてボクまで影響を受けそうだ(笑)。
 それに、中央線はサブカルの地という文脈で語られたり、紹介されたりするが、ボクはサブカルは大嫌いである。ボクの立場は、カウンターカルチャーであってアングラ・ムーブメントは作ってきたが(世代的にという意味)、それらは体制や既成権力におもねるものではない。むしろ、それらを破壊する目的をもった荒ぶる文化運動だったのだ。ドラッグ・カルチャーも反戦平和運動も、サイケデリック革命もヘッドパワーもそれらは世界を変える方法だったのであり、サブカルチャーでは決してない。

(つづく)

(写真は創業51年の某「甘いもの屋」さんのたい焼き。三鷹の名物だと思います。)



36年目の「憂国忌」

2006-11-25 23:59:39 | コラムなこむら返し
Yukoku12 1970年11月25日、あの日から36年目の今日は「憂国忌」である。そう、三島由紀夫の命日である。三島由紀夫研究会によって主宰されている「憂国忌」の集いは、今宵は聞くところによれば豊島公会堂(池袋)で行われたようである。
 今国会で野党であるはずの、民主党まで賛成して「防衛庁」が「防衛省」に格上げすることが目論まられている。自衛隊は徐々に軍隊=日本国軍としての御墨付きを与えられようとしているのだ。これを三島ならなんと思うだろうか?
 平和憲法の下での自衛隊の有り様への義憤で自衛隊市ヶ谷駐屯地東部方面総監室でバルコニーからの自衛隊隊員への「檄」のあと森田必勝の介錯の下、割腹自刃した三島ならこのような状況に至ったことに快哉を叫ぶだろうか?
三島は、このように演説した後、果てたのだった。

「日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。

 もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。」
(三島由紀夫「檄」)

 三島のイメージの中にある自衛隊は、日本男子、武士(もののふ)である。日本刀(たしか名刀「関の孫六」と言われている)を帯刀して市ヶ谷駐屯地乗り込んだ三島には、当時、全共闘をはじめとする新左翼が純粋に革命路線という世界を変えることに突き進んでいるのに、国軍たりえないことにも甘んじているような自衛隊はなにをやっているのか? 退廃の極みのような国とともに腐ってゆくのか? という憤りがあったはずだ(「檄」前段)。そして、三島自身その行動にかって2・26事件の時、青年将校が義憤にかられて決起したその姿が二重写しになっていたはずだ。

 当時、「狂気の沙汰」としかとらえられなかったこの事件が、三島の美意識(自作を自ら映像化した「憂国」を見られることをおすすめする。最近、DVD化されたらしい)にもとづくものであるのは明らかであろう。現在の時の宰相以上に三島由紀夫には「美しき国」のビジョンがあったのだ。それは、思想だし、三島の生き方(そして死に方)だった。

 好きであれ、嫌いであれ才気溢れる文学者だった三島由紀夫の命日に瞑目するのみ。



12/01 E.G.P.P.100/Step65「青の時代??玉乗りの少女」

2006-11-24 23:52:53 | イベント告知/予告/INFO
Acrobate_1●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
E.G.P.P.100/Step65 テーマ:「青の時代??玉乗りの少女」
12月1日(金)開場18:30/開始19:30
参加費:1,500円(1Drinkつき)
MC:フーゲツのJUN
(出演)フーゲツのJUN(ポエッツ)、マツイサトコ(うた)、おもとなほ(ひとり芝居)、bambi(講話)、イエス北村(コメディ・予定)、小堀イチエン(ボウズパンク・予定)、リバースクラウン(クスリになる音楽)……エントリーしてくれたあなた!
会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/


 19歳でパリにでてまもなく、みずからも貧乏絵描きだったピカソは親友の死に直面します。スペインからともに青雲の志をいだいて世界の都パリに居住し、野望をいだいていた親友の死です。それも、彼はお別れパーティの席上でピストル自殺をしたのでした。親友の恋人も同席していたパーティでした。親友が知り合った女友達のひとりはピカソの恋人になりました。
 その事件をきっかけにしてピカソは陰うつな深いブルーに満ちた絵を描きだします。「青の時代」と後年名付けられた青を基調として貧しい人、年老いた人そして絶望する人々を描き続けたのです。
 そして、ピカソに転機が訪れます。新しい恋人との出会い。そして、ピカソは放浪芸人や道化師、サーカス芸人などを描き、その絵に徐々に赤い色、バラ色が射してきます。
 そんな中にひと目みて、いまだ恋している絵があります。「玉乗り」(Acrobate A La Boule,1905)がそれで、プーシキン美術館にあるこの絵の中の少女に10代の頃、恋してしまったのです。
 そして、わがE.G.P.P.でボクが名付けた「玉乗りの少女」に捧げるポエムができました。この日のテーマはそのお披露目もかねています。

 一般オープンマイクへエントリーなさる方には、このテーマ設定は関係ありません。御自分の表現・テーマで挑戦して下さい。
 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)にエントリー表明を書き込んで下さい!→http://8512.teacup.com/5lines/bbs

E.G.P.P.100 MIXI内コミュアドレス→http://mixi.jp/view_community.pl?id=230706

(イメージを明確にするために所有する画集の当該絵画を部分的に引用掲載しました。ピカソの絵画へのオードです。ここからさらにダウンロードおよび引用掲載は一切できません。)




みたかきいたかそぞろ歩き(3)/「風の散歩道」・上水沿いにジョージまで

2006-11-23 22:52:37 | コラムなこむら返し
Jyosui_spring 太宰が入水心中した玉川上水は羽村の堰から多摩川の水を分流させた、灌漑工事で江戸時代に玉川兄弟の尽力によってつくられた人工の川なのだが、太宰が身を投げた昭和23年にはまだそれなりに激しい流れがあったようだ。
 この人工の川は武蔵野美術大学の脇を流れ、マンガ家の永島慎二氏にとっても忘れがたい武蔵野の風景を作っている(氏はしばしば独特なリリシズムで「漫画家残酷物語」にその風景を登場させている)。西武国分寺線の「たかの台」駅からの木立に囲まれた川沿いといい(西武拝島線には「玉川上水」という名の駅もあり上水沿いの桜が美しい)、小金井市の五日市街道沿いの風景と言い東京の多摩地区に、「水の文化史」(富山和子)と言うか、うるおいをもった親水風景を作っていると思う。玉川上水は淀橋浄水場にまでつながる東京多摩地区の重要な「生命の水」を提供してきたのだ。「武蔵野」とはとりも直さず「武蔵の国」の武蔵野台地に根付いた雑木、雑木林や豊かな湧水がつくる里山的な風景と言えるかもしれない。

 三鷹駅前の「ジブリ美術館」へ直行するバスの乗車口があるあたりについ2年ほど前までひなびた平屋の古本屋「三鷹書房」があって、品揃えはたいしたことはないがそのたたずまいが好きだった。その古書店の前あたりから中央線の高架を通り過ぎた玉川上水がはじまって、玉川上水沿いに散策するのがボクの楽しみでもありました。
 ここから、太宰が山崎富栄と入水した場所を過ぎて、むらさき橋を越え、万助橋で左折する。長崎の平和祈念像を作った北村西望のアトリエを左に見て(祈念像の原型になった等身の像が安置されてあります)井之頭公園方面に向かう。ここを御殿山の方へ向かって井之頭公園を散策するもよし、あの「いせや」で一杯やるもよしでありました(「いせや」本店は建て代えのためプレハブで仮営業中であります)。

 カメラを持って上水沿いにジョージ(吉祥寺)へ向かう。この道は、歩いて「ジブリ美術館」へ向かう道でもあり、ボクにはお気に入りの散策道なのであります。そして、この道を歩き出すとあたまの中に、あのアルバムの曲が流れて来るのです。その曲とは、森田童子の『GOOD BYE』というアルバムにおさめられた曲です。

 玉川上水沿いに歩くと
 君の小さなアパートがあった
 夏には窓に竹の葉がゆれて
 太宰の好きな君は 睡眠薬を飲んだ
 …………
 あじさいの花よりあざやかに
 季節の終わりの蝉が鳴いた
 君から借りた 太宰の本は
 淋しいかたみになりました
 (森田童子「まぶしい夏」部分)

 だれが名付けたのか、万助橋までの上水沿いのこの道は「風の散歩道」と名付けられているらしい。粋な命名じゃないか!

(写真は本年2006年春の玉川上水、万助橋近く)

(つづく)



みたかきいたかそぞろ歩き(2)/森鴎外先生の墓

2006-11-22 23:53:35 | コラムなこむら返し
Ougai_tomb 森鴎外とは身近なのである(!)。なにしろ、ボクは団子坂(文京区)の鴎外記念館の傍に住んでいて、鴎外の孫の森クン(それはそうだ!)と小学校で席をならべていたからだ。それどころか、森クンとはかなり親しい仲だった。だが、残念なことに当時、その祖父である鴎外先生のことをボクはまるっきり知らなかったのだ(笑)。
 太宰が鴎外先生を尊敬していて、ふと洩らした言葉で太宰の骨は心中した山崎富栄と引き離され、森鴎外と同じ禅林寺に葬られることになったのだ。

 ボクはいまだ不遜にも思うのだ。太宰が樹木葬という葬られ方を知っていれば、もしかしたら遺言でその希望を残したかも知れないと……。
 太宰ならこのような遺言を書いただろうか?

 「このような死に方を許して欲しい。けっして、同情なんか無用です。そして、わたしに墓はいらぬ。立派な墓など作ってくれるな。むしろ、死に場所に選んだ玉川上水沿いに一本の桜の樹を植えてくれ! そして、その下にわたしが愛したおんなたちと眠りたい。さよならだけが、人生だ! では、どなたさまもグッドバイ!」

 桜桃忌の太宰治に、「桜葬」の先駆者になって欲しかったというのが、ボクの奇妙な夢想なのです。

(つづく)


みたかきいたかそぞろ歩き(1)/太宰治の墓前で

2006-11-21 00:27:32 | コラムなこむら返し
Dazai_tomb 三鷹の禅林寺へ行った。このところ「桜桃忌」にも行けていないので、太宰治の霊前に御機嫌伺いにお邪魔したのである。この寺の門前の風景は、どこか中国的でボクはなかなか好きなのである。ボクは太宰をテーマにした詩をかって書いたことがあって、3年ほど前、この詩をリィディングする前に、「桜桃忌」で読ませてもらったことがある。長詩なので、その時披露したのはほんの一部だったのだが……。

 墓前には花が絶えることがないと言われているが、この日もつい2~3日前くらいに活けられたような菊の花が飾られてあった。ボクはなにももってこなかったので、タバコを一服差し上げることにした。そして、その間、僭越ながら手持ちの自作の詩を墓前に捧げた。そう、墓前でポエトリィ・リィディングをしたのである。芸能関係では、奉納公演というのがあるが、その伝で言えば奉納リィディングであろうか。

 そして、すぐななめ前の森林太郎つまり森鴎外先生の墓石に礼拝し、太宰の墓のタバコの吸い殻やワンカップの空き瓶を片付けておいとました。

(つづく)



馬子唄の聞こえるプラットホーム

2006-11-20 00:55:45 | コラムなこむら返し
 T駅のプラットフォームで小柄な初老の紳士が民謡を大声で歌っていた。足元から判断するに、ホロ酔いであるようだ。この場合、普通なら??迷惑なオヤジだ。と、思うところだろうが、ボクはそののびやかなやや哀愁をおびた声に「たましい」とまでは言わないが、「こころ」を揺り動かされてしまった。
 それで、やってきた電車に乗り込む際に「いい声でいらっしゃいますね」と、声を掛けて電車に乗り込んだのである。そばで見かけると60代後半の東北地方出身の典型的な顔をしてらっしゃった。

 すると、男は電車の中で近付いてきて、話し掛けてきた。それによると、男が歌っていたのは「秋田馬子唄」で、今宵九段会館で民謡大会があり、男は年齢別のそれも70歳代部門で優勝したんだそうだ。60代後半とボクが見た男は70歳だと言う。背筋ものび、頭髪もふさふさしている。さすがに声を出すということは、若さをたもつ方法のひとつなのかもしれない。実に、声をだすことは肺も声帯もだが、じつに腹筋も使うのである。その上、声を喉の緊張を解いておもいきり出し切るということは、考えるほど易しいものではないのだ。
 それに、民謡はつい数十年前のひとびとにとって当たり前だった生活や情感が記録されたタイムカプセルのようなものではないか。多くのひとは乗用車に乗って民謡大会に行きながら、「馬子唄」や「長持唄」を唄っているのだ。

 優勝の祝勝会で一杯やってきた男は、酒の酔いもリラックスもあって、そしてきっとさめやまぬ興奮の中で歌っていたのだ。そこはちょうど階段下で、のびやかな節回しは上手い具合にエコーをともなっていたのかもしれない。
 男はみずからも、秋田出身だと語った。自分は幼い頃から父や、祖父のめでたい席、酒宴の席でうたう見事な民謡を聞いて育ったと独り言のように語った。
 男はごきげんで、ボクより先に電車を降りた。衣裳の入ったバックを引きずってどこか名残惜しそうにしながら……。

 駅から雨のそぼ降る暗い夜道を帰りながら、ボクは男をまねて声を出してみようとした。その声は、だれかの「こころ」を打つどころか、前から来る人が避けていくような首を締め殺される鶏のような声でしかなかった。

※「馬子唄(まごうた)」は、馬の引き手を職業としたひとびと(馬喰・うまこ衆)によって唄い継がれてきた民謡。牛追い唄というのもある。
 「長持唄」は、衣装箱である長持を運ぶ職業(もともとは大名行列の人足)のひとびとによって歌われていた唄で、転じて婚礼等の祝言の席で歌われるものとなった民謡。
(この説明が間違っていたらごめんなさい!)

(参考)
「秋田馬子唄」
ハイーハイ
ハァーあべやハイハァーこの馬ハイ
急げや川原毛ハイーハイ
ハァー西のハイハァーお山にハイ
アリャ陽が暮れるハイーハイ
辛いものだよ 馬喰の夜道
七日七夜も アリャ長手綱
一人淋しや 馬喰の夜道
後にくつわの アリャ音ばかり
さらば行くよと 手綱を曵けば
馬も嘶く アリャ鈴も鳴る
峠三里の 山坂道を
青馬よ辛かろう アリャ重たかろう

「秋田長持唄」
蝶よ花よと 育てた娘
今日は他人の 手に渡す

故郷恋しと 思うな娘
故郷当座の 仮の宿



しんぞう教育勅語

2006-11-17 01:57:41 | コラムなこむら返し
 15日の夕方に教育基本法の改正案が特別委員会で与党単独で採決し、16日に野党の採決・審議拒否で欠席のまま衆議院を通過してしまった。今国会内での成立を最重要鵜法案と安倍さんが意気込んでも、内閣府が主催した教育の「教育の改革に関するタウンミーティング」で発覚した事前のヤラセ発言などの審議も曖昧なまま、政治日程にあわせて見切り発車されてしまったのです。
 このまま参院を審議も尽くされないまま通過して成立してしまうのでしょうか?

 安倍さんは、よほど民主的な「個の尊重」をうたう現在の教育基本法が気に入らないようです。みずからの文部科学省や教育委員会制度はそのままに、安倍晋三教育勅語を作りたいらしい!
 愛国教育や公共的な倫理観をもちだすことによって、これまでの問題はあったにせよ戦後民主主義の美質であった「個人主義」を「滅私奉公」(!)に変えたいのであるらしい。

 教育が国民に対する「マインド・コントロール」にもなりえるということは、すなわち「教育勅語」によって天皇の臣民とされた明治憲法以来、戦前の「少国民」教育・軍国教育をみれば明らかでしょう。現行の「教育基本法」は、九条をいだいた日本国憲法と同じ精神をもつものだと思います。今回の「改悪」のねらいは自らの施策の失敗のツケ、教育の荒廃の責任を「個人主義」になすりつけようとするものだ。
 イラクで人質となった民間人を、命令や忠告にしたがわなかったゆえに「自己責任だ」と切って捨てようとした自民党政府(当時は小泉首相)は、積年の思いで「身勝手な個人をつくりあげる個人主義」と決めつけそのみなもとは「教育基本法」が、自由主義、個人主義に偏重しているためだと主張してきた。

 しいては目の上のタンコブと考えてきた日教組の解体をも画策しているのだろう。別にボクは日教組を云々する立場にないが、公務員に組合があっていいように先生たちにも組合があってしかるべきだとは思う。ただ、その労働貴族的なありようが、公務員ともども好きでないだけだ。

 すくなくとも「ダメ教師が教育をダメにしている」と安倍晋三首相が、考えるその念頭には日教組や、日の丸・君が代卒業式に果敢に抵抗してきた都教祖などの存在があるだろうことくらいは推測がつく。「ダメ政府やダメ議員が教育もダメにしている」と、なぜ考えられないのか不思議なのだが……。

 ボクは思うのだが、戦後民主教育の精神であり、理念であった「教育基本法」は個人主義とともに少なくとも国際的なというか、グローバル(グローバリゼーションと混同されそうなら、ワールドワイドと言ってもいいが)な視点、生き方をもった人間を育ててきたのではないかと思う。
 おそらく、その憲法九条の戦争放棄とともに「地球市民」的なエコロジカルで広い視野をもった若者や、市民がこの日本で育ちつつあったと思う。そのような広い見識は、バックパッカー的な旅やボランティア活動やNGO活動によって蓄積されていったものだと思う。
 そう、おそらく戦後民主主義で育ったベビーブーマー(俗に言う「団塊世代」)以降の世代が、高度成長そして公害問題のあとあたりから獲得していった「ガイア・ビレッジ(地球村)」的な覚醒だ。それは、地球規模の智恵に気付いたはじめての世代であった。

 この公教育の根幹に現行の「教育基本法」の理念があり、その果てにやっとワールドワイドな日本人が登場しつつあった矢先なのではないだろうか?

 なぜ、ここに安倍晋三首相による「教育勅語」が必要ななのだろうか?

 『美しい国へ』の下に隠れていた「鎧」が見えかくれしたようである。教育の場で、子どもたちへあらたなる「少国民」教育がほどこされる布石が打たれようとしているようだ……。

 晋三教育勅語! 正体見たりぃ!




国やぶれて山河があった!

2006-11-15 00:42:37 | コラムなこむら返し
 ビデオにとっていた訳でもないし、食事しながらで集中して見ていた訳でもないから、正確な再現はできないと思うが、一例であれ、このような授業が全国の小中学校で平然とおこなわれているのかと考えると、おぞけをふるわざるを得なくこの一文をしたためます。

 昨夜(14日)のNHK総合『クローズアップ現代』(”愛国心”揺れる教育の現場)に登場した「愛国心教育」の授業風景(モデル授業であるようだ)??日本に特徴的なすばらしいところはどこですかと生徒に質問する。こどもたちは、あれこれと列挙する。その中から「四季があること」と答えがでる。「四季」がある日本は、雨季と乾季しかない国より豊かで、美しいですね、と言った教師の結論めいたことばでしめくくられるといったものだった。
 これは「授業」なんですか? ボクにはマインドコントロールの方法と同じ、あらかじめ意図した答えに導き、生徒自身の思考の結論と思わせるテクニックだと思いました。第一、シーズンがふたつより、四つのほうが素晴らしいというのは、数の問題であってすぐれている理由に何故なるのか解せなかった。

 先生は知らないのだろうか(生徒が知らないのは当然だとしても)、あの雨季が来る前のモンスーンの前触れのたおやかな風が吹いて来る胸騒ぐような地平線の光を!
 椰子の葉や、棕櫚の葉の上に落ちて目にもあざやかな緑となる、あの雨の降り初めの瞬間を!
 そして、篠つくような雨足となり、明るい日射しは薄暗く、道はまたたくまに河と同然となるあのアドレナリンが全開となる季節を!

 ボクが脳裏に描いているのは、いまは、東南アジアであるが、それは赤道直下の南アメリカであろうが、アフリカであろうが、そこにはゆるぎない季節のドラマがあり、風土があると思う。これを、比較して優劣などたとえ文部科学省といえどもつけることはできないはずだ。

 季節の感覚はきわめて文学的な感性であるはずである。五感に訴えて来る感覚だ。それを「国」まして「愛国」に結び付けようと思うことに根本的な誤謬がある。ウチの娘は一緒に見ていて「単純すぎません?」と言っていた。その通りだ! ちなみに、娘はそのような授業を受ける立場にある小学生であります。

 勘ぐってみれば、四季から春そして桜に誘導したかったのかも知れない。しかし、そこまでアナクロな「愛国教育」は、まさかしないでしょうね。あまりにも、意図がみえみえですから……。

 「美しい国へ」の宰相は、教育基本法の改正を今国会の最重要法案にしている。今週中の衆院の強行採決も辞さないと伝えられている。もし、上の例のような「授業」を愛国教育といい、それを押し進めるための教育基本法の改正だったら、考え直してもらいたい。

 宰相も、そしてボクも戦後世代だ。だが、ボクは知っている。おそらく安倍首相も……。
この国の戦後は

国破れて 山河あり

からはじまった。ひとびとはがむしゃらに働き、生きなければならなかった。そして戦後の復興は、朝鮮戦争特需になり、高度成長になり、はては、またしても「公害」となり、今度は残った山河をも破壊しようとしてしまいました。それも豊かになるための国策でした。政策だった。

 山河、郷土、里山がなくては国も国家もありえません。郷土愛??いや、いまここの愛すべき「風土・郷土・里山」を荒廃からつくるところからはじめるべきではないでしょうか?

 義務教育も言ってみれば、国家がほどこす「マインド・コントロール」です。

 大事なのは「キミよ!歩いて考えよ!」(11日に亡くなった宇井純さんのことば)です。
 ひとりひとりが自分のアタマのバランスをとって、現場に立って、自分のコトバで考え実践することではないでしょうか?

(少し舌足らずですが、この記事はマイミクのjunさんの、昨日のエントリー記事にコメントし、触発されて書いたことを申しのべておきます。あなたの記事がなかったら、そのまま憤慨して見過ごすところでした。ありがとう、junさん!)



思案にくれる64回/E.G.P.P.で日もくれる(2)

2006-11-13 23:31:49 | 曲水の宴/う・た・げ
Ichien_step64 7番目は松岡宮さんです。松岡さんは自他共にみとめる駅員フェチらしい。いわゆる「制服マニア」(?)なのか、駅員を見ると萌えるらしいのだ。ハイ、オイラも制服をみると萌えてしまいます。って、女子高生じゃ、植草元教授とおんなじですよね、ハイ。
 松岡さんは、みずから打ち込みの音源まで製作して、完成度の高いポエム芝居のような構成です。
 松岡さん自身は、小柄でやや少年ぽいひとです。きっと、小劇場の影響が濃いひとなのではないでしょうか?

 エントリー8番は、在ケニアの現役の獣医であるダクタリこと神戸俊平さんです。いや、よくE.G.P.P.に遊びに来てくれました! 実は、どうしてこのような出会いが成立したかと言うとそもそもはMIXIの中のビートジェネレーション・コミュがかかわっています。そして、横浜のZAIMや、E.G.P.P.につないだのが、平山さんでした。演奏の様子は写真説明で書きましたが、この日、神戸さんはわたしたちの納めている税金が、遠くアヅリカでODA(政府開発援助)としてどのように使われているかの話をなさいました。ダム建設は、設計から施行まで日本のゼネコンが受注し、ODAとして拠出された金はゼネコンの懐に入ります。現地には金はわずかしか落ちず、現地にはダムとともに借金も残されます。
 この出会いの後、TBSで2週にわたってアフリカゾウ捕獲移送作戦の様子が放映され、ボランティアとして参加する神戸さんの活動が紹介されました。

 9番目。「BOUZ PANK」のコボリイチエンさんです。この日、コボリさんのエレクトリックギターはエメラルドグリーンに輝いていました。なんと、椎名林檎のギターと同じだとか!
 そのギターでうたうコボリ・ヒットメロディ!
 E.G.P.P.の看板になりつつあります。

 オープンマイクのトリは、このオープンマイクスタイルのE.G.P.P.をホームグランドとする(と言っていいでしょう?)マツイサトコ。のっけから、「今日は新曲を作ってきました!」と言って会場をわかせる。サトコの新曲、ウン、ここに集まったみんなが聞きたい!
 その曲はせつなくせまるラブ・バラード「Save me」でした。どう、救ってあげればいいと言うのでしょう! うん、ボクはサトコに詩を捧げることにしました。うまく気に入ってもらえれば、サトコに歌ってもらおうというたくらみです(笑)。それは、次回のテーマにつながります。

 そして、最後にボクのポエトリー・リィディング「しあんくれーる??ひかり 輝く 野へ!」を聞いてもらいました。どうだったでしょうか? 6月のリベンジになったのでしょうか? 高野悦子さんへのオマージュになったのでしょうか?

 こうして、この日も日が暮れる! 河原町や、百万遍! 思案にくれて、日が暮れる!
 しあんくれーる! 思案にくれる!

(写真7)コボリイチエン。手にするはエメラルドグリーンのギター! それは椎名林檎とおなじギターだったと本人みずから語りました。



さようなら! 宇井純さん!

2006-11-11 23:56:13 | ニュース
 宇井純さんが亡くなった。74歳だった。「反公害」運動の旗手であり「地域主義」の支持者でもあった。東大にあって「自主講座」を15年にわたって続け、その残した遺産は大きなものがあったろう。そうであって御本人は、「万年助手」(都市工学科)に甘んじた。日本の国家中枢の象牙の塔の足下にあって、疎んじられ、立身出世からはつまはじきにされた。しかし、宇井さんはそれにひるまず、むしろ飄々と自らの学者としての信念にしたがって、いわば造反学者に等しい存在だった。
 「公害」という言葉が一般的な認識となった1970年代から、宇井さんの姿は水俣病を告発する側に、流域下水道を問題提起する側に、アジアに公害輸出を反対する側に、さらに石垣新空港反対の陣営の中にあった。

 「反公害」の運動は、おそらく近現代のシステムすべてが押し付けてきた使い捨ての経済成長優先の価値観を循環型のエコロジー優先(企業の製造責任や社会的責任)の価値観にシフトさせる大きな礎石をつくった。公害問題はやみくもに戦後からつっぱしってきた日本人のアイディンティテイを振り返らせる契機だった。それまでの日本人は1970年の万博に見られるような、おめでたいバラ色の未来を描くことしかしてこなかったのである。そのエネルギーのみなもとは限界を無限と信じる右肩あがりの成長神話だった。GNPが上昇して行く経済の成長が絶対だった。

 「反公害」運動は被害住民をすくうだけでなく、私たちさえも救ってくれた。あのままやみくもに日本人が突きすすんでいたら、日本人は地球のガン細胞になったろうし、もっとも醜い、世界の嫌われものになったことだろう。

 その公害を告発する運動に、常に伴走して学者としての、思想としてのフォローを惜しまなかったひと??宇井純さん、これまでありがとうございました!
 そして、さようなら! きっと安らかなる眠りであったことでしょう。

宇井純氏のプロフィール→http://www.takagifund.org/08/ui/p-ui.html



思案にくれる64回/E.G.P.P.で日もくれる(1)

2006-11-10 23:53:33 | 曲水の宴/う・た・げ
Satoko_64_1 まるではじまりはオヤジ、オバさんの40年前の思い出話で終始するのではないかと思われた今回のStep64でしたが、おのおののパフォーマンスや語りや、うたが始まってみると見事に「いま」を語るものになっていました。今回、30年ほど前まで京都府上京区荒神口に存在したジャズ喫茶「しあんくれーる」と『二十歳の原点』の高野悦子をテーマにしたボクはまたこの夜も思案にくれてしまったのでした。

 エントリーのトップバッターはこのところ毎回ありがたい「講話」で口開きをお願いしている状態のbambiさん。「いいかげんで不真面目に生きてきたから死なずにすんだ」と喋ってましたが、いや、まったくその通りです。純粋に生きて死んだ高野悦子さんには頭があがりません。

 エントリー2番目はやまさん。なんとこの日のやまさんは楽器は、鐘を一ヶもってきただけ……。それを時々打ち震えさせながら即興の物語風のうたをうたいます。このところオドロオドロしさもやまさんの世界になってきて、これは先日の「無力無善寺」ライブで一枚むけたのでしょうか?
 やまさんは、E.G.P.Pの「覡(かんなぎ=巫女・シャーマン)」かしらん?

 3人目は北村イエスこと北村幸生。なんと登場からひとこともしゃべらず、スケッチブックをかざして観客に見せて回ります。それも、なんか絵文字のようななぐり書きで読みにくい(笑)。それを見せ終わるまでは、どうやら遠藤周作のようです。え、それは、なんだって?
 「沈黙」です(笑)! あ、ボクがこんなところで、笑いをとってどうするのですか?
 で、そのなぐり書きはいつものイエスのつかみを絵文字にしたものだったのです。今回イエスはなんと、流行語大賞奪取宣言をしたのでした! 大丈夫かよ、ホラにするなよ!

 4人目はダルマ舎こと平山さんです。この時点でCDプレーヤーが針とびするかのように飛びまくり、まるでアナログ再生みたいな雰囲気になっていたのですが、平山さんは、このところオハコのようになっているジャズポエムがゆるぎありません。

 次は、待ってる間にもうたたねしかかっていたPARAさん。どうやら飲み会の帰りに寄った(この場合「酔った」か?)みたいです。でも気を取り直して、本人を前に告白にも似た散文を読み出します。ま、ボクらは聞くのは二度目でしたが……。若い人が口をあんぐりあけて聞いてたのが印象的でした(笑)。「こんなのアリ?」という感じだったのでしょうね。

 6番目に登場は、おそらくこの日一番若いエントリーです。その名も「D.Y.A.P」。どういう意味かは聞き忘れてしまいました。ギターとベースのデュオで、甘いルックスと歌声??なかなか聞かせます。しかし、オリジナルレパートリーが2曲しかまだなく、もっと聞きたいオーディエンスが不平をのべる場面も(笑)! 今後の期待株です。また、気楽に遊びに来て下さいね!

(つづく)

(写真6)新曲をひっさげて現れたサトコは、ホームグラウンドE.G.P.P.でせつなく歌いあげる。その曲の名は「Save me」。