風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

E.G.P.P.100/Step71/テーマ:「June_Cool Rain in the City/都に雨が降るごとく……」

2007-05-28 23:27:28 | イベント告知/予告/INFO
Ajisai_fllower ●オープンマイク・イベント/TOKYO POETRY RENAISSANCE
 E.G.P.P.100/Step71

 テーマ:「June_Cool Rain in the City/都に雨が降るごとく……」
 2007年6月1日(金)開場18:30/開始19:30
 参加費:1,500円(1Drinkつき)
 MC:フーゲツのJUN
 (出演)フーゲツのJUN(ポエッツ)、マツイサトコ、ココナツ、かし(以上うた)ほか……エントリーしてくれたあなた!
 会場:ライブ・バー水族館(新宿区百人町1-10-7 11番街ビルB1)
 問:03-3362-3777(水族館)http://naks.biz/suizokukan/
 主催:電脳・風月堂 http://www1.ocn.ne.jp/~ungura/

 六月は梅雨の入り。あの突き抜けるやうな夏空を迎へる前に、紫陽花とカタツムリの似合ふ季節をくぐりぬけなければなりませぬ。政治の季節をしばし離れて、まるで漂泊の孤独なこころを覗いてみませう。
 ランボーのパリでの恋人だったヴェルレーヌに触発された1片のポエムは、雨の季節の都(みやこ)の下水溝に流れ去ってゆくでせうか?
 われと汝を溶け合わせるかのやうな冷たい雨に、濡れそぼつてネオンの色も滲んでゆきます。広告塔のポスターも破れちぎれて、寒い異国の安宿で愛する年少の詩人の掌(たなごころ)をピストルで撃ち抜かなければなりませんでした。まるで春の野をゆくかのやうな高揚は、もはや失われてしまったのか?
 都に冷たい雨が降るやうに、ボクのこころは Cool Rain in the City!

 一般オープンマイクへエントリーなさる方には、このテーマ設定は関係ありません。御自分の表現・テーマで挑戦して下さい。
 ※ポエトリー、うた、バンド問わずフリー・エントリーが可能です!
 事前エントリー専用BBS(TOKYO POETRY RENAISSANCE/EGPP 100 BBS)にエントリー表明を書き込んで下さい!→http://8512.teacup.com/5lines/bbs

E.G.P.P.100 MIXI内コミュアドレス→http://mixi.jp/view_community.pl?id=230706



レイチェルへの手紙

2007-05-27 23:55:20 | コラムなこむら返し
Rachel1_1 レイチェル! きょうはあなたの誕生日ですね。あなたの誕生日を多くの目覚めたひとが祝うことでしょう。あなたの発した警告、告発の書からこの星は自滅からまぬがれたと言っても過言ではないでないと思う、そんなひとびとがあなたに多大の感謝をささげて、あなたの誕生日を祝うことでしょう。

 ボクがあなたのその警告の書をひもといたのは、1970年代の終わり頃でした。ボクは当時、在住していた東京の近郊K市の中で、「水俣病」を知るための映画会や勉強会をする市民グループに所属し、当時ようやくその実態が知られるようになってきたベトナム戦争時の「ベトナム枯葉作戦」(オレンジ・エージェント=オレンジ剤)の後遺症に大きな関心をもっておりました。
 有機塩素系の最悪物質であるダイオキシンを生み出す除草剤2、4-Dと2、4、5-Tの混合剤であるオレンジ剤は、それ自体が農薬の軍事転用であり、催奇性をもち細胞レベルでの遺伝子を攻撃する特徴をもつなどということは、のちのダイオキシンという最悪の物質が認知されるようになってから知ることです。

 あなたの警告の書は、恐ろしいまでの化学的事実をつきつけながら、叙情的な静かさをたたえた文体で胸に迫りました。とりわけ、その序章にあたる「明日のための寓話」という部分がそうでした。それは、ほかならない私たち自身が、その文明の利便さと引き換えに自然のそして自分たち自身の死をひきつけているという美しくもおそろしい「寓話」でした。

 この書物『沈黙の春/生と死の妙薬』を読むことによって、無知だったボクは農薬が、農業の大規模化、効率優先の生産拡大にはしるばかりではこのかけがえのない自然界の壊滅、惑星の死滅につながると学ばせていただきました。

 ボクらは居住するK市の除草剤散布状況を調査し、それを地図にし行政につきつけ、市民に警告しました。そして、その市民運動を通じて日本のレイチェルだとボクが、思っている辻万千子さんにも出会い、ともに農薬問題、ダイオキシン問題を啓蒙するネットワークの末席を温めさせていただいたのでした。

 あなたのDDTなどの多量の乱用がもたらす弊害への警告は、時の大統領ケネディをも動かしたと聞いたことがあります。あなたの化学的裏づけを持つ著作は、時のアメリカ政府の環境・農薬行政さえも動かしたのだ。

 ボクは、少女時代に作家希望だったあなたの文才の片鱗を、翻訳であれ『われらをめぐる海』や『センス・オブ・ワンダー』で読み敬服しました。
 とりわけ、あなたの出発が海洋生物科学者であることを彷佛とさせる『われらをめぐる海』もあなたの詩歌のような文章が、潮騒のような美しい響きを奏でるのです。
 私的な人生としては決して幸福な方ではなかったあなたは、4歳のロジャー(レイチェルの姪の子ども)を息子のように可愛がり、あなたが住んでいたメインの森を連れ歩き、海辺で海の生き物の物語を聞かせて育てました。あなたはすでに『沈黙の春』執筆時にガンに冒されておりました。にもかかわらず、あなたはロジャーにゆくとし生きるものの驚異を、その感動を聞かせ、語ったのでした。

 「子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない<センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目をみはる感性>を授けてほしいとたのむでしょう。」

 センス・オブ・ワンダー! それは、けっして子どもたちだけへのメッセージとは思えません。ボクは、この「神秘さや不思議さに目をみはる感性」を失わないことを座右の銘にしております。あなたへの敬意と感謝を忘れないためにも……。そう、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー」を失いたくない。

 レイチェル! あなたは56歳という若さで逝かれてしまいました。それは、人類にとってなんという損失だったことでしょう。しかし、あなたのおかげでボクらは、私たちは生き長らえていることができたのです。あなたが「沈黙」せずに果敢に闘ってくれたおかげで、人類は、この星に生を受けた生類は生き長らえることができたのです。
 ありがとう! レイチェル!
 そして、おめでとう!
 あなたの生誕100年のこの日を祝おう!

 レイチェル・カーソン:1907年5月27日~1964年4月14日 享年56歳
 素晴らしく聡明な頭脳をもち、生涯生き物たちへの愛を失わず、「驚異への感性」を持ち続けた女性学者にして作家。




素晴らしい日/ゲーテアヌムまで(2)

2007-05-26 01:57:30 | アート・文化
 川面でひとごこちついたボクは、そのまま対岸である立川市の方に登っていった。上水沿いは本当に樹木が豊かだ。上水に沿って樹木は残されているが、その周りは住宅ばかりだ。その実、水系や、水の大地への浸透をさまたげているのは、生活道路であり、住宅ではないのか?
 わたしたちは、環境を破壊しながら、環境の良さを求めると言う矛盾したことを平気でおこなっているのだ。

 などということを考えながら、立川側に登ったボクは、そのほとりに建つ奇妙な建物に目を奪われてしまったのである。その建物は、なんというか屋根の有機物のようなフォルムといい、窓や入り口などの建物の形態がボクに何かを連想させたのである。
 そう、それは「ゲーテアヌム」ではないのか!

 「ゲーテアヌム」は、ルドルフ・シュタイナーがその霊性を表現するために、みずからのインスピレーションにもとづく設計で1913年にドイツのドルナッハに建設した劇場である(のちに焼失)。「ゲーテアヌム」のゲーテは、あの文豪ゲーテだ。「ゲーテアヌム」とは「ゲーテの館」という意味だ。シュタイナーはその芸術論においても、神秘劇の創作においてもゲーテに大きな源泉をもっている。シュタイナーがよく使う表現である「感覚的にして、超感覚的なるもの」という言葉はそもそもゲーテの言葉である。このように、シュタイナーのアントロポゾフィー(人智学)の神秘思想は、ゲーテとの対話から形成されたと言ってもいいほどの影響をシュタイナーに与えている。

 そのルドルフ・シュタイナーの神秘思想を体現した建築「ゲーテアヌム」のミニチュアのような建物が、玉川上水の川面から登ってきたボクの眼前に現れたのだ。
 ボクは、思う。ボクも歩くことが好きで、よく歩く(健康のためにもあるが、「何か」があるような気がして憑かれたように歩くのが好きなのだ)。しかし、このような出会いは、それこそ数千キロを歩いて出会えるかどうか位の僥倖である。
 たまたま、外へ出てらした女性の方をつかまえて聞いてみた。ボクは、もう驚きのあまり興味津々になっていたに違いない。
 「スミマセン! こ、この建物はまるでシュタイナーの設計のようではありませんか!」
 「建築に興味がおありなのですか?」
 「い、いや。建築の事はわかりませんが、シュタイナーハウスというか、す、凄く似てると思いまして……」
 「ここはシュタイナーを学んだ村上さんという、建築家の方が設計なさったんですよ」
 「やはり、そうですか! ちょっと中を見させていただいてよろしいでしょうか?」
 「下は劇場になってまして、またわたしたちの稽古場なんですよ」
 「え! 劇場ですか!」
 ボクは狂喜した。劇場だという、半地下部分に案内されてなんとなくわかってきた。壁には、信じられないような古楽器が、無雑作に掛けられてあった。
 「ここは、わたしたちカテリーナ古楽合奏団と、ロバの音楽座の稽古場なんです。ライブもやるし、スタジオにもなるんですよ」
 ステージとなる部分は狭いながらも、たおやかな曲線を描き、柱は独特のギリシャ的なといえばいいのか膨らみをもった古代的な柱である。そして、その柱もたおやかな曲線を描く壁もが、珪藻土で塗りかためられているという!

 ボクは、玉川上水をなぜ散歩する気になったのか、それで氷解した。あとで調べてみたら、カテリーナ古楽合奏団は、宮崎駿のアニメの伴奏等にも抜てきされているユニークな音楽活動をしているところだと分かったし、小学校や保育園に演奏に出かけているグループだということが分かった。でも、それがどうしたというのだ。ボクは、自分が歩いて、ネットの情報でないところで、出会い、探しだし、見つけた場所としてこの建物に出会い、この楽団の存在を知った。そのことが、ボクにはとても大事だ。

 きっと、近い内にこの「ゲーテアヌム」のような劇場でおこなわれる演奏会に行くだろう。やわらかい珪藻土の壁や柱が、どのような柔らかい音を響かせるのか、とても興味があるし、許されるものならばボクも、この場所でポエトリー・リィディングをしてみたいものだと思ったのであった。
 実現するか、どうかはボクにもわかりません!

 シュタイナーよ! ボクがあなたに寄せる思いを叶えてくれるのなら、玉川上水沿いのこの小さな「ゲーテアヌム」にてボクの声を響かせたまえよ!

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 (写真7)シュタイナー・シューレなら何ケ所か見た。しかし、小さいながらも「ゲーテアヌム」をこの国で、リアルに、それも比較的近所で見れるとは思ってもみなかった。


素晴らしい日/ゲーテアヌムまで(1)

2007-05-25 11:43:20 | アート・文化
 素晴らしい五月晴れの日々が続いていた月曜日、思い立って東大和から玉川上水へ野火止上水から玉川上水沿いに歩いてみることにした。野火止上水は暗渠になっているが、気持ちのいい散歩道になっている。玉川上水駅(西武拝島線)に近付くにつれて玉川上水とドッキングする。そして玉川上水はこの先、取水堰のある羽村市まで伸び多摩川と連結する。
 玉川上水は、江戸時代承応2年(1653年)玉川兄弟が私財を投げ打っての大工事で完成させた当時人口100万の大都市だった「江戸」を水と言うライフラインから支えた人工の河川(正確には用水路か?)である。もちろん、当時は井戸水がおもな水源だったが、農業用水としても飲料水としても後には、船運としても利用された、全長43キロ(羽村~四谷大木戸間)の江戸の水道用水施設だったのだ。
 とはいえ、350年ほどの間に、人工の川は風景に溶け込み、生活に溶け込み、むしろいまや武蔵野の雑木林や自然の面影を伝える貴重な風景となっている。
 さらに、1948年6月 に玉川上水のほぼ中流域の三鷹で太宰治が無理心中を決行し、玉川上水に忘れがたい歴史を刻み込んだ。その、太宰ファンの集う「桜桃忌」ももうすぐである。

 さて、一時は空堀となってせせらぎの失われていた玉川上水であったが、86年「清流復活事業」によって、下水処理水を流してあげることによってせせらぎを復活させた。2003年は玉川兄弟が開削して350年目だったが、この年、玉川上水は国の史跡に指定され、文化財として保護されることになった。都水道局はそのHPで、玉川上水流域を都民の格好の散歩コースとして推薦し、ダウンロードできるマップも掲載している。

 清流復活の基点となる「小平監視所」の下流に記念のプレートがかかげられ、ちょうどそこから川面に降りられるようになっていた。まるで深山の中の風景のような崖や樹木、そして川面は木漏れ日を映して神秘的でもある。しかし、水面に手を差し入れてみると、水はやや生温かく感じる。風景は清涼感があったが、水は大地の浄化力を経たものではない人工的なものなのだ。
 この水は、崖の中腹から人工の滝のように流れ落ちる、その実、下水が高度処理された水なのだ。しかし、このような形にせよ、せせらぎが戻ることはいいことだ。せめて、自然の水源や、水系まで回復されていれば言うことはさらにないのだが………。
(つづく)


黄昏評論/「はしか」にかかったようなもの

2007-05-21 00:43:45 | コラムなこむら返し
May20_sunset_1_1 昨晩、娘かのんの快気祝パーティをやる。娘は先週の初めからおおよそ2週間学校を休まねばならなかったのだ。

 はじめ風邪かと思っていたが、どうにも高熱が続いておかしい。3日間寝込み39度前後で熱が引かず、食欲もない。お茶だけを飲む。もしかしたら麻疹(はしか)かもしれないとつれあいが言い出した。身体に湿疹が出来だしたのだ。ボクもそうだろうと同意する。つれあいが、近くの小児科に連れて行く。そこで、「はしかの予防接種をしてないの?」と怒られ、門前払いのように都立の小児病院を紹介されたと言う。都立小児病院では、血液検査はすぐ結果はでないが、どうやらそうらしいとの診断。学校に通知、つれあいはたくさんの薬(5種類)をもらってきて、そのすべてを飲まそうとするので、ボクがチョイスする。アスピリン系と、熱冷ましだけを飲ませる。学校の保健の先生から電話があり、保健所からも電話があるだろうと言う。その電話は感染の心当たりと外出および登校をひかえてくださいというものだった。ついでに、近所の小児科の対応にクレームをつけておく。
 そのあたりから湿疹は顔から手足にひろがってゆく。熱もあって真っ赤な顔をしている。でも山場はこの日曜日(13日)だったようだ。昼間で40.3度まででて、氷枕とタオルで頭部を冷やしながら(脳炎を併発するのが恐かったので)背骨に愉気する。抱いてフトンに移動する時に、軽いひきつけを起こすが、そのまま抱いておさめる。
 月曜日(14日)には熱はめざましく下がる。学校に連絡するも、3日ほど登校禁止してくださいと言われる。再度、つれあいが病院につれていくが確認しに行ったようなもの。血液検査の結果も金曜日まで出ないと言われたと言う。きっと、もう快癒している頃にかよ!と思う。
 今週、他の子どもにうつさないためと、大事をとって休む(あ、登校禁止なんだった)。木曜日には食欲も普通になり、本人は退屈している。図書館に連れて行く。ボクは子どもの図書カードで「燐寸文学全集」と「中原中也」を借りる。

 この2週間、バイトを調節したり、休みをつかったりしてつれあいとともに看病した。しかし、はしかにたいして「法定伝染病」のような恐怖の対応をする町の小児科、保健所、学校が解せない。はしかというのは誰でもが罹る「通過儀礼」のような病じゃなかったのか?
 少なくともボクが子どもの頃は、そうだった。大人たちも鷹揚に構えて「ま、はしかみたいなものだから」と、そのはしか自体を「一過性の熱病=通過儀礼」と見なしていた。

 現在、はしかは予防接種をしようという運動があり、広島球場の看板に町医者が自費でかかげてキャンペーンをはったというニュースが報道されたくらいだ。
 それは、強制ではないし、選択肢としてあるのは一向に構わない。しかし、近所の町医者のように予防接種をして当然といった対応、ましてや病人を門前払いするような対応には怒りを覚える。

 現在、日大文理学部、創価大学、上智大学、和光大学、駒沢大学などにはしかが流行し、休講などの処置がとられているのだという。それも大方は、幼児の頃にワクチン接種を受けている学生がかかっているのだという。現在は15歳以上の発症率の方が多いと言う。はしかは一般に大人になって罹る方が、症状が重いと言われている病気であるにもかかわらずだ。
 なぜか?

 ワクチン接種はそれだけでは、充分にはしかのウイルスに対抗できるだけの免疫効果がつかないのだという。だから、最近は1歳時と小学校入学時の2回の接種がすすめられ。昨年から風疹との混合ワクチンが導入されたらしい(17日付け朝日新聞社会面)。
 それに、ワクチン接種をしても、流行が減ったためウイルスにふれる機会がますますなくなって免疫力を増強するどころか、弱めている結果を引き起こしてきた。

 高熱による併発症は、たしかに恐いが、それには充分な知識と手当て法を会得すれば対抗できる。ボクは、昔の大人たちのようにウイルスを敵対視(根絶させる対象として)しなくとも、もっと鷹揚に包容力をもって構えていいような気がするのだが……。

 「寺山忌」での「燃え尽き症候群」もあったにせよ、「看病疲れ」よりも、この社会とのあつれきの方がボクをウツに、「五月病」に導いていたようでした。
 さぁ、ボクも快気祝だ。酒でも飲もう(笑)!




『燐寸文学全集』とは?

2007-05-20 01:05:40 | コラムなこむら返し
 『燐寸文学全集』なる奇妙で楽しい書物を図書館で見つけた。これは「まっちのぶんがくぜんしゅう」と読む。いや、「燐寸(マッチ)」が登場する場面を古今東西の文学から蒐集しようというそれ自体、実に燐寸のラベル・コレクションにも似た好事家好みのアイディアで、こころ楽しいがいざやってみるとこれほど気が遠くなるような試みもないだろうと思えるものだ。
 編者は安野光雅と池内紀??これほどの適任者はあるまいという編者だが、これを企画に乗せた編集者にも感心する。と思ったら、これまた編集者はやはりこのひとと納得してしまう松田哲夫氏だった。松田は、燐寸のラベル蒐集でも名が知れた筑摩書房の有名編集者である(1993年12月刊)。

 作者別に「あ」から「わ」行までなんと260名の作家からの作品(総作品数419編)がチョイスされていて、編者の池内の「マッチのすり方」と、安野の「金のマッチ」という文章にサンドウィッチされている。コレクションされた文献は小説や詩作品にとどまらず、ファラデーからジャコメッティ、柳田国男まで目配りされている。いや、その思想や、思考が紹介されるのではない。燐寸(マッチ)の言及される文章が、飽くまでも収集され、提示されている。だから、『燐寸文学全集』なのだが、これを読んでいたらボクは楽しくなって、「五月病」からも解放されて行くようであった(ボクのウツな気分は別に理由もあって、そのうちきっと書くだろう)。

 もっとも、考えてみれば分かるように「燐寸(マッチ)」の技術は、そんなにも昔ではない。だから、せいぜい、近代文学やそのあたりからの文献をあたればいい訳ではあるが、それにしてもよく目配りされている。だが、ボクには不満がある。いま、ではどこに出てくるのだと言われても指摘はすぐにできないが、モーリス・ルブランの「ルパン(リュパン)シリーズ」や、ガストン・バシュラールが蒐集からはずれているからだ。ボードレールやランボーもない。ド・クインシーもないし、そうそうケラワックもいないじゃないか!
 いや、確証はないがそれらの作品には喫煙の場面や、麻薬を喫する場面があったと記憶するから、燐寸(マッチ)も記述してあったのではなかろうか?

 だとしても、これは楽しい本だ。読了したら、古書店で探してみよう!


SONGS/五つの赤い風船

2007-05-18 01:08:02 | コラムなこむら返し
 16日の『SONGS』(NHK_TV総合)に「五つの赤い風船」が出演し、西岡たかし、中川イサトの姿をTVで初めて見た。いや、ふたりともいい年のおっちゃんになってましたが、西岡の声は若く、ほぼ昔のままで姿の変ぼうぶりとともにそれにも胸打たれました。
 『遠い世界に』や、いまや音楽教科書にも載っている『翼をください』などの名曲が歌われたが、「五つの赤い風船」は再結成されたとはいえ、現役のフォークグループであることにも驚かされました。今年が、結成40周年とのこと。つまりかれらはSUMMER of LOVEの1967年にグループを結成したことになるのです。レコードデビューはURCから1969年に発売された『高田渡/五つの赤い風船』だろうか。そう、渡さんとカップリングされて発売されたのだ。

 ところで、正直に書いておくがボクは当時フーテン族の渦中にあり、JAZZにはどっぷりと漬かりこんでいたがフォークソングのファンではなかった。ところが、西岡たかしや中川イサト、加川良、友部正人などのレコードをリアルタイムで聴き、なぜ知っているかといえば、当時一緒に棲んでいた方の弟さんが、URCフォークのファンでかなりのレコードを買い集めていたからです。当時は、レコードはまだまだ高価で好きなジャンルを飛び越えてたくさんの音楽を聴くと言うのはなかなか難しかった(1枚のレコードは高卒初任給の1/10にもなったと思います。つまり、10枚のレコードを買うとひと月分の給与がなくなってしまう訳です。だから働いていないボクにはレコードは高嶺の花だったのです)。だからこそ、ジャズ喫茶や名曲喫茶、音楽喫茶が経営していけたのでしょう。
 その頃、それまで、夜に放送されていたポップスやヒットチャートの番組から深夜にパーソナリティをおいたスタイルのラジオ番組が生まれた頃だったと思う。中津川フォークジャンボリーはまだ開かれていなかった。

 だから、新宿西口で週末に開かれるようになった「フォーク・ゲリラ」集会にもボクは冷ややかだった。新宿の西口は、淀橋浄水場が移転したばかりで(なんと、その移転先に現在のボクも住んでいると言う偶然があるのだが)京王プラザホテルくらいしか建物は建っていない、どこかうそら寒い風景だった。それに、ボクらが遊んでいたのは圧倒的に新宿駅東口のほうだったから(グリーンハウスも東口広場の植込みのことでした)……。
 西口は小便横丁にメシを食いにいくか、安酒をあおりに行くところだった。それに、かなり政治的姿勢としては過激に走っていたボクらは、全共闘や、反戦青年委員会や黒ヘルアナーキスト系の影響を受け「ベ平連」系は軽視していた節がある。

 西岡たかしがつくった曲はいまでも、ストレートでこころにしみる。いや、当時は屈折していたから逆に素直で美しいメロディラインはいやみだった。それくらい、ボクはすさんでいたのだ。

 どこか、居酒屋の似合う下町の中小企業に働くおっちゃんのようになっていた西岡たかし、中川イサトだったが、フォークソングがいつしかプロテストソングやメッセージソングとしての毒気を抜かれたものになってしまったように「音楽」の教科書の副読本は、時代や背景を希薄にして「名曲」としての位置付けしか与えないかのようである。


寺山忌 棘の刺さったオレの胸 薔薇に傷つく五月の空に

2007-05-17 02:51:35 | コラムなこむら返し
 「薔薇」と書けなくとも、バラで傷つくことはできる。そう、あまりにも美しかったから闇にまぎれて引き千切った花はトゲがあり、ボクの右手に傷を付けた。
 ああ、これだから美しい花は用心しなきゃいけないんだと、後悔したが後悔はやっぱり先に立たなかった。闇の中に白く浮き出た可憐な花だったのに、それはあまりにも危険なバラの花だったんだ。
 だとしても、それはほとんど樹木というべき大きさで、そんなに大きな薔薇の樹があるとは思ってもいなかった。そいつは、闇夜に誘うような美しい花を咲かせていたのだった。

 懐かしい匂いだった。いや、昔の事ではなくその道を使いだしてから、ちょうど一年前に嗅いだ匂いだったのだ。ボクは不安定な身分(プレカリアート)の、そのバイトをはじめてもう一年になるのだと、その香りで気付かされた。その道に漂う芳香はしかし、どうやらその薔薇からのものではなく、もっと強烈な、そう、栗の花のようなどこかいかがわしい香りだったのだ。
 にもかかわらず、ボクはその香りの元をつきとめることができずに、闇にほのかに浮き出たようなその花に手をかけて見事にしっぺがえしをうけたという訳だったのだ。
 それは、ボクがこれまで不器用につきあってきた異性、つまり女性との関係の中で傷つけあってきたその関係をいやでも連想しない訳にはいかなかった。

 美しいものには気が惹かれる! そう、美しいものには目がないボクなのだが、それゆえか、美しいものは薔薇のようなトゲをもっていた!
 薔薇にも自我があり、単なる観賞用ではないのである。薔薇にも主体がある。薔薇が美しくその花弁を開くのは、薔薇がその美しさで、昆虫たちを(生殖のための触媒とすべく)誘い込むために獲得した遺伝的な手段だった。長い地球規模の時間を経て、花と昆虫との間でくり返されてきた誘惑のセレモニーだったのだ。

 で、思うのだ。人一倍、そのような感性を養ってきた詩人や、画家や、アーティストはおとこであれ、おんなであれ、その強烈な好奇心ゆえに傷つき易いものなのだと!

 東北の民謡「長持歌」にある「蝶よ! 花よと! 育てた娘」というのは、このような自覚だったのかも知れないと、思えてきた。

 こうして、ボクは五月にまた傷つくのだ。

 寺山忌 棘の刺さったオレの胸 薔薇に傷つく五月の空に(JUN)

Step70_jun_1
(写真提供:かし)





「五月病」???さつきとメイとみどりの顔が!

2007-05-16 00:14:23 | コラムなこむら返し
 5月にかかる病気が「五月病」で、みんなこの病にかかると「五月みどり」になっちまうのかと思っていたというギャグを考えたが、どうにもやや「燃え尽き」気味の自分としてはちっとも面白くない。
 いや、このように気分がダウナーになったのも久しぶりだが、プレカリアートのメーデーが面白すぎ、忍野デッドでアゲアゲになり、そしてダメ押しで10日のE.G.P.P.100「オレに五月を!」で燃え尽きたようだ。

 いや、本当に「恐山」を詩に詠み込み、「恐山地蔵和讃」を唄ったせいなのかボクのポエトリーは「田園に死す」の寺山修司本人の朗読する短歌とかけあい、コラボし、その瞬間、ボクはイタコの口寄せをやってしまったのかと戦慄した。
 だって、その映画は見たとは言えもうとっくの大昔で、流れは忘れてしまっていたし、それにBGMに選んだその音はイベントの直前にタワーレコードで買ってきたもので、全然封も切っておらず、まして直前に聞くと言うこともできず、カンを頼りに流したものだったから、ボクの戦慄はひときわだったのです。

 寺山修司はその東北訛りのままに詠んだのです! ボクが直前に引用したばかりのうたを!

 亡き母の真っ赤な櫛を埋めにゆく 恐山には風吹くばかり

 寺山修司が1983年5月4日に満47歳の若さで死んで、2007年の今年は24年目だが、「寺山忌」としては25回忌にあたる年だったのです。
 正式にどのような追悼会がおこなわれたのか、寡聞にして知らないのだが、少なくともこのE.G.P.P.のイベントはボクなりの寺山修司への追悼イベントになったようです。

 歌人、詩人としては大好きだが、アングラの旗手としての寺山は大嫌いという愛憎なかばするアンビバレンツな感情が一気にあふれてしまい、「オレに五月を!」というポエトリーを書き下ろした後、そしてそれをパフォーマンスとして上演(?)した後、ボクはまるでハシカにかかったみたいな気分でダウナーなのです。

 これって、やっぱり「五月病」ですよね、五月みどりさん?

 と、無理矢理ギャグをしつこくかますと、ボクの脳裏には『となりのトトロ』のメイとさつきの姉妹があの丸顔でトトロとともにちょっと小首をかしげて微笑んでいる映像が浮かぶのであった。
 ああ! ボクのアタマの中までとなりのトロトロ!!