風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

『新宿千夜一夜』の三夜@梟門

2017-12-31 17:04:33 | アングラな場所/アングラなひと
二日目(12/29)にトークタイムで言ったんだが、なんだか60年代末に会場になった小劇場『梟門』の御苑通りのトイメンにあった「ニューアート」(現在ゴールデン街入り口でストリップ専門の小屋)を彷彿とさせるようなアングラ・エロイベントに出演、関わらせてもらって嬉しかった。言いたいことはあるが、様々な個性がカオスになって面白かったし楽屋で見るたくさんの美女たちの全裸に近いあられもない姿に興奮しまくりのJUN爺でした!笑
2018年が良き年になりますやうに!

御礼感謝!14年4ヶ月!連続開催全173回!最長不倒回数を樹立してEGPPは終了しました!

2015-12-10 12:41:34 | アングラな場所/アングラなひと
E.G.P.P.Nova!は12月9日夜に開催したStep173で終焉致しました。記録としてのアルバム、及びこれまでの記録はおいおいこのページにまとめていきますが、荻窪で2001年8月に『Free Songs, Free Speaking! 自由へ!』と銘打たれてはじまったおそらくオープンマイクのはしりのひとつ(先行していたのは、高田馬場『Ben's Cafe』くらいだったか?)が出発点でした(25回まで開催)。
2003年8月に池袋「Scum2000」に場所を移して『Ikebukuro East Gate Poetry Park』と改称し、これが略称「E.G.P.P.」の始まりとなりました。
この時代に個人映画の鑑賞者としてたびたびScum2000を訪れていた13号倉庫さんとの出会いとなり、彼はその後も「純粋観客」として、ときにはボクの対談の聞き役としてお客さんが、ほとんどいない時機を支えてくれました。
この場所で、2005年6月までのStep46までお世話になり、その年の7月から「大久保水族館」で『E.G.P.P.100』として継続しましたから、かれこれ「水族館」では足駆け10年もお世話になりました。
終わってみれば、連続開催173回と言う最長不倒記録を打ち立てたようです(通算14年4ヶ月)。
この間、ボクが入院したり、バイトが変わったりして参加出来なくなったとき、心良く代って支えてくれた仲間にも感謝します。
さまざまな参加者、パフォーマー、詩人、ミュージシャンの顔が浮かんできます。定例開催とは別に、ライブ・エイドや、アニヴァーサリーイベントもやっていますから、実際の開催回数はそれを上回ると思います。
本当にこれまでのエントリーおよび、ご参加を感謝致します。
主催者(途中で共同開催になりますが、そこはまたあらためて)であったボクがいったい何を伝える事が、出来たのかいささか不安でもありますが、これまでのご好意を深く感謝します。
このオープンマイクであらたに出会った友人、ココナツ、米山貴子さん、Bambiなど名前をあげたら全員の名を連ねることになってしまいそうです。ここでは、最後の回までMCを荷なっていただいた松岡宮さんの名前をあげて、感謝の言葉にいたします。
本当にありがとうございました!
とりあえずは、お礼まで。

ファム・ファタールとその宿命?

2010-11-19 13:12:32 | アングラな場所/アングラなひと
Femme_fatale_111 11月10日に開催されたオープンマイク・イベントE.G.P.P.Nova!連続開催112回目は「ファム・ファタール」をテーマとして新大久保『水族館』にて繰り広げられました。
 オープンマイクのエントリーは、bambi、藤木吾呂、梓ゆい、ミチロウ"Factor"、ココナツ、よねやまたかこ、松岡宮そしてフーゲツのJUNとガンジー(sax)に、カズキック(Drm突然セッション!)、ゲストはわれらが「ファム・ファタール」ヴィヴィアン★ミトラさんでした。
 ヴィヴィアンさんがYouTubeにアップしていただいたボクのセッション・パフォーマンス『Femme Fatale』をどうぞ!
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(写真)この日のE.G.P.P.Nova!「ファム・ファタール」の看板です(絵:フーゲツのJUN)。



マリアンヌ・フェイスフルと『オートバイ』

2010-11-09 14:56:30 | アングラな場所/アングラなひと
Marianne_f アラン・ドロンに初々しいマリアンヌ・フェイスフルがからむ『あの胸にもういちど』(1968年)の原題はフランス語でただ「オートバイ(motocyclette)」という意味だ。

 ミック・ジャガーの恋人。ローリング・ストーンの永遠のアイドルとしてもマリアンヌ・フェイスフルのキュートでイカした姿形は60年代後半を彩る青春のファム・ファタルである!嗚呼!

 アズ・ティアーズ・ゴー・バイを歌うアイドル時代のマリアンヌ→http://www.youtube.com/watch?v=5ANFFWD9oOI&feature=fvw

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 そしてこれを忘れてはならないのだが、この映画『あの胸にもういちど』(邦題)の原作がピエール・ド・マンディアルグであるということなのだ。

 だからマリアンヌ・フェイスフルはボクらにとってマンディアルグの『オートバイ』のヒロイン、レベッカの降臨であり化身だったと言うことなのだ。それ以外に意味というものはない。これが抜け落ちてはならない!

 嗚呼!ローリング・ストーンとともにわが青春のマリアンヌ・フェイスフルをかく語りきぬ!頬を伝い落ちる涙とともに!



『神楽坂サルバドール・ナイト2010』にて

2010-09-25 12:32:55 | アングラな場所/アングラなひと
Psycho_idoll 秋分の日はあいにくの雨だった。ボクは神楽坂に行った。松岡宮さんの主宰するイベントを見に行ったのだ。
その名も『神楽坂サルバドール・ナイト2010』!

 なるほど松岡宮さんのパフォーマンスはいわばショーで、小道具(昨夜はトルソー、キャベツなど)や、爆音に近い打ち込み音そして華やかな照明をフルに使ったサイコ・ポエトリー・ショーだった。ハコ(神楽坂Explosion)は小さいがあれだけの派手な設備が必要な訳だ。

 だからボクなどがつきあいもしないだろうタイプの女性たち(腐女子?)やネクラなおたくタイプのような男たちが観客としていたが、松岡宮さんはそれらの中で<サイコ・アイドル>のように見えた。

 腐女子、オタクに囲まれた宮さんは小劇場や最近ではアニメの中にいる戦闘的美少女ヒロインのようなアイドル然として見えた…。彼女には制服はいわば戦闘服で、事実個性を消し去る制服は駅員のそれであっても軍服に由来するのだ。

 だからか、この日のバーテンダーのような白いシャツにベスト、スラックスの衣装は、宝塚男役のようでもある。おばさまならぬ、腐女子のアイドル。その選ばれたことばは一見シュールだが、その実心理学の症例のようであり、用語のようでもある。痛みが感じられないのが、やや残念だが…。

 キャベツは食べ放題でふるまわれるのだが、またキャベツは宮さんのポエトリーの小道具として「脳」になる。小脳、大脳、脳幹…小脳、大脳、脳幹…。宮さんは文学の人というよりは、医療用語の人で、それがどこかエロく妄想を掻き立てる(笑)。

(Twitterでのつぶやきに加筆。写真はボクが名付けた<サイコアイドル>松岡宮さん)



おまつりポンタ逝く(追悼山田塊也)

2010-04-26 18:52:33 | アングラな場所/アングラなひと
Pon_self コミューン無我利道場の主宰者、「88いのちのまつり」、「六ヶ所いのちのまつり」などの仕掛人のひとりで「おまつりポンタ」の異名もあったPONこと山田塊也氏が本日午後亡くなりました。

 チェルノブィリ原発事故から24年目の今日、ボクはその時、内田ボブの「チェルノブイリ」を聞いていたのですから、なにか虫の知らせのようなものがあったのかもしれません。

 PONとは新宿の似顔絵描きだった頃からの「新宿風月堂」仲間として知り合いました。ボクよりは10歳ほども年上だったPONは、詩はあまりうまくはなかったが、画才には舌を巻いていました。「ハリジャン」のちの「部族」の美術家にしてイラストレーターという立場で、ボクらにサイケデリックな色使いと息詰まるようなヒンドゥ的な世界をかいま見せてくれました。
 また、PONは一貫してヒッピー界のいい意味での過激派であり、石油備蓄基地計画に反対して奄美の枝手久に無我利道場を作ったり、また大麻解放運動の先頭を走り、桂川大麻裁判の救援をかってでて「アナナイ通信」を発行したりと、死の直前までその姿勢は一貫していました。

 「部族」のリーダー的存在であったナナオとは、長い間確執があったようだが、それも晩年には晴れたようでした(『トゥワイライト・フリークス』)。
 三省、ナナオに続いてのPONの死は「部族」初期メンバーの生存者が五指にみたないほどになったことを意味するのでしょうか?
 いまは、PONの冥福を祈るばかりです!
 PONよ、やすらかに!
 そして、ボクらに楽しい思い出をありがとう!
 涅槃でまた会いましょう!
 ボン・シャンカール!!
 合掌。

(似顔絵はPON自身の手によるもの。アマナクニより拝借。→http://amanakuni.net/



エレファント・マンとなりおせる?

2010-04-07 00:38:32 | アングラな場所/アングラなひと
 5日のE.G.P.P.ノヴァ!Step105での復活ライブをさかたさんが、イジリながらYouTnbeにアップしてくれました。
 ジョセフ(ジョン)・メリックの存在がすこしでも知られれば……。その希代の醜さ、フリークスぶりと違ってジョセフ・メリックは清らかなたましいの持ち主だったようです。
 ポエトリー・リーディング「エレファント・マン/ボクもまたフリークスだった!」
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ある愛のうた/2005ポンポコ銀河祭り

2010-03-24 14:30:14 | アングラな場所/アングラなひと

YouTubeにアップされたボクのポエトリー・リィディングではアクセス数が一番のものです。いまとなっては懐かしい05年に佐渡島の北部でおこなわれた「ポンポコ銀河祭り」のライブ映像です。テーマはザトウクジラの愛のうた。シーシェパードに聴かせたい(笑)。


立春に「鬼」を憶うこと

2010-02-04 23:59:39 | アングラな場所/アングラなひと
Setubun_hiragi 節分の日に「鬼」は白魔として現れたのか? 3日夜、屋根の向こうを舞い散る雪をふたたび見た時はそう思った。いくら「福は内!鬼は内!」と豆を友好的に撒くにしても白魔は困る。

 今日、進退が極まって自ら引退表明をした横綱朝青龍は、昨日が節分だったことを思い出したのか、引退記者会見で「土俵の上では「鬼」になってきた」と振り返った。一番の思い出は?と問われてモンゴルから呼んだ両親の前で横綱武蔵丸を倒した時と答えて感極まって涙を拭った。さんざん叩かれた横綱だったが、本当はとてもいい人だったのではないか。ただ、日本の国技としての相撲と、外国人出稼者のプアー精神とファイティング・アスリートとしての乖離が朝青龍の悲劇だったような気がする。
 草原の夏を呼ぶ喜びとしてナーダム(草競馬)まつりに最強の英雄が降臨するモンゴル相撲と、神域において収穫の秋に収穫物や草を髪にくくりつけて外からおとづれるマレビトの英雄神の討伐制定劇の再現(たとえばスサノオによる)としての起源を持つ我が国の相撲との相違が相撲界の封建的な体質もともなって朝青龍には不利だった。
 その意味では朝青龍は「鬼」だったのである。夷を平定する英雄神になるどころか、追儺会(ついなえ)において追い払われ、討伐される夷、「鬼」となって結果追放されたのだから……。

(「鬼」はまだ憶われます。つづく)

(写真)メザシとヒイラギ(ともに鬼の嫌うもの)は、今年もかかげられていたが、今年はどこかのノラ猫が抜け目なくメザシを食べてしまっていた。鬼は追い払えてもネコは追い払えないのだ(笑)。


節分に「鬼」を憶うこと

2010-02-03 15:29:43 | アングラな場所/アングラなひと
 今日は「節分」である。何の「節」を分けるのかと言えば、明日が「立春」だから、言わば「季節」の「節」を分けるのだろう。禍々(まがまが)しい冬が去り、春が訪れることを祝い言祝ぐそんな行事なんだろう。
 そんな禍々しさを一身に背負わされて「鬼」が追い払われるのだが、ボクらの「鬼」のイメージはこの国の中世に民話や「今昔物語」などの仏教説話によって形作られたものだ。この国の上代における「鬼」は「カミ」であり「モノ」であって、すこし私たちとイメージが違う。要するに「姿形」が異なっているのだ。
 『出雲風土記』に登場する「鬼」は、この国最初の文献上に登場する「鬼」であるようだが、「目ひとつの鬼」である。一つ目小僧のルーツだが、タタラ師のことではないかという説もある。タタラ師は数千度の火を扱い、鉄を打ち鋳造するためにその火の粉で片目を失うものが多かった。鳥取県の山中には古代のタタラ跡があり、またタタラは山人の仕事だったという主張もある。
 数千度のかまどの火は、また地獄の業火のイメージにもつながっただろうと言う(倉本四郎『鬼の宇宙誌』)。
 また、上代の鬼のイメージは蓑笠を着た朝廷にまつろわぬモノ(鬼)である。蓑笠を着ると姿が消えるという民話を聞いたことがあるのだが(出典不明)、それは「鬼」になるということと同義だったのかもしれない。
 『出雲風土記』の鬼は、そうして田をつくる男を食うのだが、蓑笠を着た鬼は朝廷による討伐の記事が頻発する『日本書紀』にあらわれる。そして討伐されるべき存在としての「夷」とはアイヌやツングースなどの先住民であり、その異装イメージが中世の「鬼」のイメージづくりにつながってゆくのだ。

(つづく)


追悼文(1)/金坂今日子さん

2009-11-25 20:50:13 | アングラな場所/アングラなひと
 「はらっぱ祭り」にムロケン(室矢憲治)が遊びにきていた。そのムロケンから金坂今日子さんが、27歳の若さで自殺していたことを初めて聞いた。ムロケンとは、本年4月に「トウキョー・ヒップスター・クラブ」(原宿)で彼女の父である金坂健二の写真展を企画して開催した仲だったはずだ(関連記事→http://blog.goo.ne.jp/angura_1967/d/20090418)。その時、ボクはなんの協力もできなかったが、彼女とはボクが荻窪でオープンマイク・イベントを始めた2001年12月に会った。ボクのHP「電脳・風月堂」を読んでエントリーしてくれたのだ。友人とともに「マーブル」というユニット名で出演、歌を歌った。そして、ボクにお父さんである金坂健二のことを知りたいと言うのだった。で、その際だったか、ボクが金坂健二と知り合ったきっかけであるアングラ新聞『ドロッパワー』のことや、アングラ映画のことをしゃべったと思う。
 その数年後、目黒美術館で金坂健二のフィルムが、修復上映された会で、ガリバーや、ゼロ次元の加藤さんやいろいろなひとに再会したが、あの時、また会ったのではなかったかな。
 今日子さんは、何が原因なのかウツ病だったらしい。金坂健二50代の頃の子どもだった今日子さんは、父母の離婚ということもあったのか父親の記憶はあまりなかったようである。だが、金坂姓を継いだ今日子さんは、物心ついて以来、父親の偉大なる業績というか仕事ぶりばかり聞いて過ごしたようである。ある意味、そのことは彼女が自分自身を確立する上ではプレッシャーになったのかもしれない。そして、自分を表現者として位置づけたかったようである(彼女もまたカメラを手にしていた)。そして、同時にいまや埋もれてしまった父親のフィルムメーカー、カメラマンとしての業績を再認識させることも娘としての自分の責務と思い定めたのではなかったろうか?
 だが、時代は60年代から遥かにはなれ、ましてや自分自身でもよく語れない時代であったろう。「新宿」を発見するのに椎名林檎を聞いて、それを「60年代新宿」と勘違いするということも1982年生まれの彼女としては仕方がなかったのかもしれない。彼女をいわばそんな二重苦が苦しめたのかもしれない。
 これは、推測である。ボクの勝手な想像である。だが、金坂今日子さんは27歳の若さでやおら自らの命を絶った。自分の人生の中で、父とその娘という二世代の死を知ることは、あまり気持ちのいいものではない。こころから哀悼する。

(お断り)当初、金坂今日子さんを1986年生まれの23歳と書きましたが、それはムロケンがそう言っていたから書いたのでしたが、彼女からはじめて接触があった時の書き込み(BBS)を調べてみたら、2001年時点で、19歳。つまり1982年生まれで享年27歳であることが分かりましたので、本文を修正しました。(11月27日記す)


新宿でフリー・ジャズ?!

2009-09-30 23:59:57 | アングラな場所/アングラなひと
Earh_dom_fullmoonclub 新宿「らんぶる」で、今週開催のE.G.P.P.100/Step99の打ち合わせを新MCの梓さんと行う。岩波文庫版の「与謝野晶子歌集」と論文集をお貸しする。その際、お土産としてパンをいただく。
 梓さんは、はじめて入る名曲喫茶が気に入ったようだった。

 その足で、大久保通りまで歩き本日(29日)破格の千円である満月倶楽部主催のアースダムのライブに行く。KORA KORA、ローライフサーファーなどが出演。だが、ボクは個人的には少なめの客がさらに少なくなった(笑)満月倶楽部のフリージャズのようなスタイルのセッションが気に入った。PUNKバンドや、ロックなバンドばかりだと思っていたライブハウスで、こうもフリージャズをリスペクトするミュージシャンもいるんだということを発見しただけでも収穫だった。それも、案外身近にいたということが、驚きだったのです。
 先の「ヤポネシア秋分祭」の言い出しっぺ木霊クンがカレー屋さんのケータリングとともに、ベース・プレイヤーで出演した。もちろん、その彼のカレーがこの日の夕食です。

 帰宅は、思いがけぬも最終電車になってしまったのでした。

(写真)「満月倶楽部」のフリー・セッションの模様。聞いていた客はおそらく4名ほど。


ヤポネシア秋分祭のこと

2009-09-25 00:02:28 | アングラな場所/アングラなひと
 和太鼓の腹にひびくような音と、ボクの「ヤポネシア部族宣言2009」で始まった「ヤポネシア秋分祭」??結果としてみれば、いいまつりになったし参加人数も適正規模だった。オルガナイズをした木霊クンのネットワークの広さと、まつり本部になった高円寺「がんばらねBAR」のつながりによるものだろう。
 まつりのピークは22日のキャンドルナイトにあっただろうか? 丹波川のせせらぎに沿って置かれたキャンドルは、完成してみれば地上に置かれた銀河のように思えた。参加者はおのおのバンガローを割り振られていたが、まともに寝たのは子供連れの参加者くらいだったのではないか?
 ある意味、高円寺周辺のライブハウスで活躍するインディーズバンドが中心になったまつりで、オールドヒッピー系とは切れたつながりだったが、それをつなぐ役割がボクのポエトリーであり、「ヤポネシア部族宣言」だったのかもしれない。言うまでもなく、これは昨年夏のねたのよいが提唱した「ねた祭」と、毎月のようにミッションズで開催していた「月裏」というライブイベントが起爆剤になったもので、ボクはそこで毎月のように叫んでいた。そう、ボクの年齢を忘れたかのような(笑)シャウトは、そのために書かれたものだ。若者へ向かって「自らのトライブ(部族)を自覚せよ!」と叫び、挑発するものだったのだ。

 サリーがBarを開いた。そこはオープンマイクのサブステージ前で、気のいいうどん、総菜屋さんと隣あっていていい感じだった。まつりの間の食事はそことガンジーのつくる麺類でまかなった。どちらもおいしかった。
 ちょっと素敵で面白いお姉さんと知り合った。彼女は墨絵を描くひとで、そのA5サイズくらいのハガキか、それよりひと回りくらい大きい墨絵はひと目見て金子光晴が旅の過中で旅費をかせぐために描いた色紙絵を思い起こさせた。彼女、キタハラゆかりさんはその光晴の絵を知らなかったが、あなどる事なかれ、彼女は各種のメディアで取り上げられているプロのイラストレーターだった。
 キタハラさんの隣では倍音ケイイチが店開きをしていた。久しぶりに顔を合わせました。E.G.P.P.にまた誘いましたが、もしかしたら100回記念に出演してくれるかもです。乞う、ご期待!

 2日め23日秋分の日の午前11時からのボクのステージはガンジー(Sax)、木霊(ジャンベ&ベース)、サリー(ダンス&パーカス)それに急遽加わってくれたアダッチ(ディジュ)のサポートで3編のポエトリーをやりました。「アース・ウィンド」「ある愛のうた」「精霊のイカロ」でした。ボクのステージが終わってまもなく、空から秋分の光が射してきました。空が晴れてきたのでした……。

 ボクも楽しめました。まつりスタッフのみなさんありがとう!


1967年論・外伝1/金坂健二の写真

2009-04-18 23:59:24 | アングラな場所/アングラなひと
I_shot_america09 ちょっと舌たらずになってしまうが、会期は明日19日(日)までなので、間に合う人に行ってもらうために急いで書いておく。金坂健二は、いまでは忘れられた存在に等しいが、60年代後半アングラ映画運動と鋭く過激な評論活動で、一世を風靡した人物。だが、内ゲバ的な内紛で疎んじられ、アングラ映画の流れをひくイメージフォーラムや、インディペンダント・シネマの世界から名前を抹殺されたアングラ映画監督だ。その経緯を書ける立場にボクはないので、その中味は今ははぶく。
 ともかくも、「アングラ」という言葉は金坂健二と『映画評論』誌の映画評論家佐藤重臣が作ったようなもので、状況劇場や天井桟敷が、代名詞のように思われている「アングラ」は、そもそもは「アンダーグラウンド・シネマ」から来ている。
 ボクはアングラ映画監督の岡部道男に紹介されて、新宿「風月堂」で金坂健二と会い、すぐさま『ドロッパワー』というアングラ・ペーパー(地下新聞)の刊行に誘われたのだった。

 その懐かしい金坂健二のみずからプリントして残された写真展が、原宿のT.H.C.(トーキョー・ヒップスター・クラブ)で開催されている(明日までだ!)。
 生プリントの写真が貼りつけられ、それなりにオシャレにレイアウトされているとはいえ、生々しい60年代のアメリカ、アンダーグラウンド・シーンを垣間見るような写真である。写真のあいだに、金坂の著作からの引用が壁面を飾るが、それは写真の説明では一切ない。もう、会期修了も押し迫っており残念ながらパンフレットを買うことができなかったのだが、アンディ・ウォホールや「ファクトリー」、パティ・スミス、アレン・ギンズバーグなどのスナップ写真、おそらくベトナム反戦集会や、ピースフェスでのスナップ写真、いまや絶滅動物であるヒッピーの姿などが、写された貴重な写真だ。それらの写真は、おそらく知り合いの金田トメ吉が、晩年の金坂のアパートをたずねたとき見たものに相違ない。さまざまな印刷メディアに発表したものであろう。

 ビデオからダビングされた『ホップスコッチ(石けり)』は、そう1967年に金坂がアメリカで製作した映像作品で、ボクは帰国直後だったと思うが、たしか「草月ホール」で見た作品だと思う。ともかくも、10分26秒の小品だが、ボクはほぼ40年ぶりに見た。ちなみに、その頃は金坂健二と親しく口がきけるとは思ってもみない20歳くらいのフーテンの若造だったのだ、ボクは。

 金坂健二展「アメリカを撮る」4月19日(日)まで TOKYO HIPSTERS CLUB(渋谷区神宮前6丁目16-23)TEL 03-5778-2081