風雅遁走!(ふうがとんそう)

引っ越し版!フーガは遁走曲と訳される。いったい何処へ逃げると言うのか? また、風雅は詩歌の道のことであるという。

声ノマ〜〜ノマドとして現代を漂流する剛造の膨大なメモを見せられること。

2016-07-31 02:59:36 | アート・文化
友人に偏執狂的な記録魔がいた。ボクもちとその傾向があるのだが、生きて呼吸をしているその一秒一秒を記録しようと思い立ったら、人生は記録されるために生きられることになってしまう。
その記録も、日記だけでなく、判読しがたい細かい文字でびっしりと原稿用紙を埋めるテキストはもとより、(ポロライド)写真、音声データ(カセットテープ、リィディング)、さらにフィルム(ビデオ)などのメディアを使ってされるいわば膨大なメモだとしたら、そこから抽出された「作品」ではなく、読者や、観客を意識しソフィストケートされたものでない、ナマの提示だとしたら、人はその軌跡を読み取ろうと努力するだらうか?
吉増剛造が東京国立近代美術館で開催した『声ノマ』は、そんなノマド化して行方を失った「言葉」(エクリチュールとパロールともに)を探す旅のやうなものと言っておく(挨拶の言葉をリーフレットに寄せた館長は「声の間」とか「魔」とか、「真」とか書いているが、チラシにも緩用されたこのコピーはつまらない。ボクはノマド化した言葉と声、と好意的に捉えておきます)。
そして、この剛造展のおかげで、中上健次、吉本隆明、ジョン・ケージのナマ原稿が拝見できたことに感謝を述べておこう。
かって、吉本隆明は谷川俊太郎、田村隆一そして吉増剛造の名を挙げて「プロの詩人」と呼んだ。詩を書いて食って行ける稀有な存在であって、その作品としての詩がいいかどうかは棚上げするということであった。
そう、褒めておくことが一つあった。流されていた映像作品に、木道で空の乳母車を押して舞っている大野一雄の映像があったが、大野一雄を見つめる剛造のまつ毛が長いこと!
それは、美しいまつ毛で、羨ましくなったことだ。(笑)

http://www.momat.go.jp/am/exhibition/yoshimasu-gozo/

デコアートはカワイイか?

2010-02-26 00:54:45 | アート・文化
Marie_tokyowander 「空中歩廊」と名付けられている渡り廊下のそのスペースは、東京都が主宰する公募展などの入選作が飾られるギャラリースペースとしても活用されている。今回は石井麻理絵さんというアーティストのトーキョーワンダーウォール公募展2009の入選作が展示されてあった。
 写真等に若い女の子の間で大流行りのデコをこらしたデコアートとでも言うもので、「カワイイアート」と言うのだが、どうなんだろう?
 もうひとつこれはテーブルにおいてあった給水塔の写真がなかなかいいところに目をつけるもんだと思わせたのである。近代建築としての「給水塔」。東京都の水道局ならスポンサーになるだろう(笑)。






『フラガール』とエイト・ピーチェス(3)

2010-02-24 23:12:26 | アート・文化
8_danceofsummer エイト・ピーチェスとはどのようなダンスグループだったのか?

 SKD(松竹歌劇団)というレビュー集団がかってあった。もともとは「少女歌劇」として出発し、全盛期は宝塚歌劇団とはりあうほどの興隆を誇った。先日亡くなった「男装の麗人」ターキーこと水の江滝子はじめ草笛光子、淡路恵子、倍賞千恵子などの数多くの女優、歌手、タレントを生み出したSKDは、1928年創設の長い歴史の中で、ライン・ダンスの「アトミックガールズ」などの独自のアトラクション演目を持ち女性には憧れを、男性には娯楽を提供した。ちなみに寺山修司と結婚した九条今日子(芸名は映子)もSKDの出身である。
 1956(昭和31)年にSKDのメンバーの中から選抜された8人でつくられたダンスチームがあった。それがエイト・ピーチェスである。あれこれ並び称されながらも宝塚歌劇団との違いというのは、SKDにはこのようなお色気路線があって、男のファンも結構いたという点だろう。エイト・ピーチェスの活動ピークとも言える1964年には、創刊されたばかりの『平凡パンチ』のグラビアを飾ったりしていて、ピンナップガールとしての注目度もあがっていたようだ。ふたたび強調しておくが、そのどれもにヌードという形での表現はない。エイト・ピーチェスの八人はどこまでもダンサーであり、ライン・ダンス、レビューそしてモダンダンスをこなし、毎日がその練習と訓練で明け暮れていたに違いない。「踊り子」と言ってもいいだろう。それはダンサーの訳語なんだから……。
 たしかに、踊り子だ。「伊豆の踊子」のような少年書生の「あくがれ(憧れ)」をも引き出したほのかなロマンスも付与して……。ボクにとっての『伊豆の踊子』が、田中絹代でも山口百恵でなく吉永小百合であるような年上の女性への少年の昭和30年代の「あくがれ(憧れ)」だ。

 エイト・ピーチェスはSKDの中では「娘役」の登竜門とか、ダンスがうまいメンバーしか選ばれないと言われていて、エイトピーチェスに選ばれることは団員(生徒)にとって名誉なことだったのだ。それにSKDの看板であるラインダンス(アトミックガールズ)とともに、看板スター以外では圧倒的人気を誇ったユニットだったのだ。解散したSKDを引き継ぐ現在のダンスチームの中では「エイト・ピーチェス」は、いわば「演目」同然の使われ方をしている。もはやチームでもなく、演し物、プログラムもしくはスタイルなのだ。

 映画『フラガール』のモデルとなった常磐ハワイアンセンターこと現「スパリゾート・ハワイアンズ」に付属する「常磐音楽舞踊学院」の創設期の成り立ちの事実関係は知らない。「平山まどか先生」のモデルとなったらしい学院の最高顧問カレイナニ早川(早川和子)さんがSKDやエイトピーチェスとどのような関わりがあったのかなかったのか、分からない。しかし、『フラガール』で呼び覚まされた昭和30年代半ばの幼い性をもてあましていたあの頃の純粋だった自分が、『フラガール』での平山まどか先生のひと言の台詞でエイトピーチェスの鮮烈な記憶とともに甦って来たのは、確かなことだった。

(おわり)

(写真)SKD『第42回夏の踊り』(1976年、浅草国際劇場)のプログラムの表紙はエイト・ピーチェスだった。これはエイト・ピーチェスの70回記念だとか。(Web site「vintage takarazuka」より借用。借用を感謝!)



『フラガール』とエイト・ピーチェス(2)

2010-02-23 01:56:43 | アート・文化
8_peachs1963 かって『エイト・ピーチェス・ショウ』という深夜番組があって、お色気たっぷりのダンスを披露していた。『11PM』などの深夜お色気番組のはしりだったんじゃないかと思われる番組だ。衣装はアラビア風あり、リオのカーニバル風あり、レビュー風ありでまだビキニなんて水着を誰も着ていない頃だったからそれはそれは刺激的だった。それも、実は下には肉襦袢のような肌色のうすものをまとっているから決して裸ではないのだが、大人の男が鼻の下をのばして鑑賞するようなエロチックな踊りだった。
 それは、現在から見たら可愛いものだ。フィギアスケートの安藤美姫選手の「クレオパトラ」の衣装に萌えるようなものだからだ。しかし、それは「60年代の『性革命』」そしてそれに引き続くポルノグラフィの半ば解禁状態を積み重ねて来たから言えることであって、当時(昭和30年代の半ば)から見れば、充分に刺激的で、「良識ある団体」から攻撃されかねないような番組だったかもしれない。
 「悪書追放」といった「教育上」の配慮にもとづいた女性を中心にした市民運動や、消費者運動の萌芽が生まれた頃で(その背景として60年安保も何ほどかの力をおよぼしたのかどうかは分かりかねる)、「歌声運動」と言うものもあった。悪書追放の槍玉に「貸本漫画(劇画)」や、モデルガン屋がターゲットになったこともあった。
 さて、そのような深夜番組をコタツの中で腹這いになって見ていたボクの下半身はいつのまにか勃起し、きつく畳に腰を押し付けていたボクは下着を汚してしまったのである。

 断っておくが、エイト・ピーチェスのダンスはストリップティーズではないし、ミュージックホールのような大人向けのものではない。女子供が見ても美しく感じるだろうレビュー系のダンスだ。しかし、小学校高学年か中学生くらいだったボクには、エイト・ピーチェスは大人の女性の身体がどのようなものなのかと言うその入り口を開いてくれたのだ。ボクはおそらく思春期前期にいたのだろう。それに、当時のテレビジョン受像機はモノクロ(白黒)で走査線も荒く、解像度は悪い。肌色のシャツを下に着ていたとしても、裸体に見えたものだ。

(つづく)

(写真)1963年当時のエイト・ピーチェス(『漫画読本』グラビアより)



「空気人形」はゴーダ版のピノキオだ(4)

2009-12-25 00:07:34 | アート・文化
Goda_philosophia そもそもゴーダ哲学は、もちろん業田良家流哲学という意味があるにせよ、マルクスの『ゴータ綱領批判』のなにがしかのパロディも含まれているに違いない。社会民主主義であった当時のドイツ社会主義労働者党(ふたつの左派政党が統一された時、ゴータで書かれた綱領。1875年)を批判したこのマルクスの文章(おもに書簡)は、言い換えるとプロレタリア革命の「代用品」としてのパルタイ(党)の構造改革主義を批判したものに違いないからだ。
 マルクスには確信があった。自然すなわち資源に対して労働者がその所有者としてふるまう時、真実の使用価値を生み出す、と。こうして精神労働と肉体労働の対立が消失した時、富はその能力において必要に応じて各人に分配されるものとなる。そして、それを実現するものは「革命的過度期」としてのプロレタリアート階級の独裁しかありえない。資本主義から共産主義への移行の過度においては、革命を通じてプロレタリアートが政治的にも、社会的にも政権を担うしかない。万国の労働者団結せよ!

 それは、マルクスにとっては代用が効かないものだった。『ゴータ綱領批判』はリープクネヒトらの作った綱領を批判することによって、プロレタリア革命のヴィジョンをより鮮明にする作業だった。

 さて、われらが『ゴーダ哲学』においては、代用は可能なのだ。究極においては、労働はロボットに、家庭生活さえもロボットが営んでいる!
 人間は「役割」を放棄してどこかへ行ってしまうのだ。召使い役どころか、生産のいやもっと言えば、生活の主体さえもロボットが代用する。
 ラブドールは、新しい商品と交換され、さっさと捨てられてしまう。みずからコストを計算するロボットは、自分を破棄して買い替えることを進言する。とすれば「富はその能力において必要に応じて各人に分配される」その主体は、いまやロボットであり、ラブドールなのか?

 将来において、自然や資源に労働としてなにも関与しない人間が所有するならば、それは「搾取」になるだろう。革命の主体が、ロボットになった時、そこにはアイザック・アシモフの「われはロボット」(映画化名「アイ、ロボット」)の悪夢が待ち構えているだけだ。「ロボット三原則」を破棄して人類に叛旗をかかげるロボットたち……。

 万国のロボットよ、団結せよ! ピノキオよ、ラブドールよ、連帯して被抑圧の軛(くびき)を解き放て!
(おわり)

(図版)『ゴーダ哲学堂』表紙(竹書房刊)。



「空気人形」はゴーダ版のピノキオだ(3)

2009-12-24 00:29:38 | アート・文化
Airdoll_comic 置き換え可能性は、性欲処理の代用品であるラブドール(ダッチワイフ)においては、より顕著なものとなる。「空気人形」は、この『ゴーダ哲学堂』シリーズの中でも飛び抜けて美しいシーンから始まる。アパートの部屋の中で「空気人形」が、自分でエアポンプを操作しながら「毎日、自分をふくらませている」シーンだ。是枝裕和監督の映画でも中盤に、ペ・ドゥナがその美しい裸身をみせて踏襲した横座りのヌード・シーンだ。「少しずつ空気が抜けていくから、」「毎日、自分をふくらませている」。「空気人形」は外を歩くたびに、野辺の花や、青空、犬の親子にいちいち感動する。
 「私は、持ってはいけない「心」を持ってしまったのだ」。

 こころを持ってしまったラブドール――それは古くて新しいテーマだ。こころを持ってしまった操り人形の話は誰でも知っている。「ピノキオ」だ。そう、ラブドール「空気人形」は、現代の都会の片隅に人目を避けて存在する「ピノキオ」なのだ。いや都会とは限らない。その日本製の開発秘話には南極越冬隊の愛玩物、代用妻(ダッチワイフ)として開発されたらしいというものがある。つまり、「昭和基地」にまで、彼女は派遣されているのだ。「南極1号」「南極2号」というのが、その身もふたもない命名だったようだ。

 映画の中で、ボクが神話的なシーンと名付けたあのビデオショップの店員が、空気の抜けた「空気人形」のヘソに直接口をつけて膨らませる場面は、原作からもっとも「映画的だ」とインスパイアーされたと監督自身がパンフレットの中で語っている。
 自分が好感を持つ店員の「息」に満たされて「空気人形」は、「心を持つことはせつないこと」だと知る。
 意思を持った古木から彫り出されたピノキオは、おじいさんの真の息子になるために数々の試練を乗り越える。試練と教育がピノキオを人間的にするのだが、こころを持った「空気人形」は、映画では疎まれ、原作では破れた肌のためにハリを失って持ち主に「燃えないゴミ」として捨てられる。代用品の代用である、もうひとつのラブドールが、その「空気人形」の役割を奪い取る。
 ゴミの集積場でゴミ袋の中から、「空気人形」は青空を美しいと感じる。それは「私が心を持っているから」。

 たかだか20ページの小品は、映画化されることによってインターナショナルなものになった。だからと言って『ゴーダ哲学堂』が翻訳出版されたという話は聞かない。「ピノキオ」が世界中に流布したようには(カルロ・コッローディ作『ピノッキオの冒険』1883年。それはイタリアでおおよそ百年前に生まれた児童文学だが、翻訳された絵本やディズニーのアニメで世界中に知られるものとなった)「ゴーダ哲学」は世界のものにはなっていないのだ。
(次回完結)

(図版)コミック版「空気人形」より。



「空気人形」はゴーダ版のピノキオだ(2)

2009-12-23 00:01:09 | アート・文化
Air_doll_inbed 業田良家の作品はギャグマンガに分類されるのだろう。ギャグマンガは、幸福なことに唯一シュールな笑いというか、ブラックな笑いが許されるジャンルだ。日本の商業マンガは「最初の読者」という権威で、漫画出版社の職業編集者によってコントロールされている。名をなす大家はともかく、駆け出しの作家にとってはこの職業編集者の身勝手な「眼」を目くらますことが、最初の難関となる。
 その点、ギャグマンガというジャンルは編集者自身がシュールな、それこそ訳の分からないものも認知するという希有な幸運を持ったジャンルだ。このような不条理な条件の中で、生まれでた傑作のひとつが、『ゴーダ哲学堂』だといえるだろう。それも、数ある漫画出版社の中で原稿料も破格に高い小学館で描かれた作品なのだ。

 その短編の中には、ロボトミーや、ロボットそのものも描かれる。「悲劇排除システム」という同題で、三編の作品があるが、「金」「老い」「怒り」と言ったものがテーマになり、皮相な表面的な笑いがTVから垂れ流されることによって隠され、果てはロボトミーで抑圧されるといった痛烈な批判精神で描かれた作品である。他に家族そのものが、そして会社へ行く人間がロボットによって代用されてゆく近未来を描いた「役割ロボ」、自らの存在までコストをはじき出して買い替えることを勧める家事ロボットモーリーを描いた「損得ロボ」など皮相で、背筋が凍るようなストーリーもある。
 全体的には多様なテーマとシチュエーションがあるにせよ「代用品」は可能か? というのが、ゴーダ哲学の精髄なのではないだろうか?
 それこそ、人間の代用品、究極には原子そしてその中の素粒子で出来上がったすべての「存在」の代用品は、それぞれ置き換えは可能か? それとも不可能なのか? それはまた、何故?
(つづく)

(写真)「私は空気人形。性欲処理の代用品。」(映画『空気人形』より)



「空気人形」はゴーダ版のピノキオだ(1)

2009-12-21 15:12:37 | アート・文化
Air_doll_cinema 業田良家という漫画家は、かって『詩人ケン』という作品が面白いと思ったが、それ以外はさほど関心を持っていなかった。そもそも絵それ自体があまり上手いと言える作家じゃないし、ボクがマンガを読まなくなった頃にデビューし、活動しているからボクとはすれ違った作家だと言えるだろう。
 しかし、その間に『自虐の詩』などが、堤幸彦監督の手によって映画化(2007年)されているから、映像、映画にかかわるひとにはなにがしかの刺激を与え続ける作家だったのだろう。
 98年から「ビッグコミックオリジナル」誌を主な掲載紙にして始まったのが、『ゴーダ哲学堂』のシリーズだった。このシリーズの全エピソードがまとまっているものが竹書房の文庫で読むことが出来る(GY-08)。

 『ゴーダ哲学堂』のテーマは従来マンガではそぐわないものとして避けられてきた人生哲学のようなテーマが掲げられている。「ひとは何故生きるのか?」「人生には意味があるのだろうか?」と言った永遠のテーマのようなものを正面から掲げ、それにゴーダ流の回答を出そうという無謀に近い試みなのだ。しかし、業田良家という作家には『詩人ケン』もそうだったが、人生哲学におけるスポ根もののようなスタンスがあり、そこがこの作家の持ち味になっているのだ。
(つづく)

(写真)映画『空気人形』より。


『‘文化’資源としての<炭坑>展』をみる

2009-12-16 00:00:56 | アート・文化
Sakubei_tankou 実にユニークかつ有意義な展覧会を見てきた。この国が1960年代の高度成長期に置き去りにし、忘れ去ってしまったもの――それらが、まるで怨嗟(えんさ)のうなりをあげてここに現れたかと思うほどで、そのおよそ50年以上前のこの国の忘れ去られた「現実」が、単なる情報としてのイメージや、写真や絵画としてではないナマナマしい人間の肉体を持ったものとして迫ってくるようにさえ感じた。まして、そこはおもにボクにとっても懐かしい九州なのである。
 ナマナマしい人間の肉体は、その掘り出すものが「黒いダイヤ」と当時呼ばれたように自らも、黒々と全身を光らせる逞しい炭坑夫であり、かっては乳房をおおうこともなく男たちと同じように「後山」として坑内に入って行った女たちの姿である。
 展覧会の名前は『‘文化’資源としての<炭坑>展』(於目黒区美術館:12月27日まで)と言うやや固いネーミングがついている。実に多様で、雑多なコレクションで<炭坑>にまつわる絵画や、写真や、図版がほとんど網羅されているのではないかと思わせるほど、ポスターから、サークル村のガリ版刷り機関誌までがある。

 色々な切り口で鑑賞することが可能だろう。しかし、そこに流れているものは1950年代までの日本にはごくありふれた風景であり、私たちの原風景でありながら、それらを打ち捨てて顧みなかった私たちを打擲(ちょうちゃく)する空気(アウラ)であることには注意しよう。
 目黒美術館で見ることができるのは、先の展覧会テーマのパート1とパート2である。パート1が、「<ヤマ>の美術・写真・グラフィック」ということで、ネーミングには色気も何もない、そのままである。パート2は、川俣正によるインスタレーションだが、ナマナマしい肉体を忘れた現代美術というものが、いかに空虚なものかということをまるで比較展示してくれているようなものである。ちなみに川俣正はこの企画展に一枚かんでいるようだから、「‘文化’資源」という妙チクリンな概念もそこから来ているのかもしれない。

 ボクが関心を持ったのは、今回膨大な全貌をはじめて原画でみることが出来た山本作兵衛の「炭坑画」。サークル村機関誌の表紙絵を描いた版画家の千田梅二。そしてひとが生活する生きている軍艦島の写真を撮った奈良原一高や大橋弘(「橋」は本当は外字ゆえ入力できません)などの写真だった。底辺ルポルタージュ作家の上野英信が絵を描いていたことも今回初めて知ったことだった。ボクは、芸術じゃない、いわば紙芝居のような絵解きの記録である山本作兵衛の「炭坑画」の方が、「‘文化’資源」よりシックリくる。それに、今回1点だけだったが、福岡県田川出身の立石大河(タイガー立石)の絵画が展示されてあったのもうれしかった。

 不思議なことにエネルギー革命があって、石炭が石油に変わってから後も「コンビナート絵画」とか、「石油画」というものがない。「萌え」としてのコンビナートや工場の写真はあっても、文化はない。それは不思議なことだが、とりも直さず石油はこの国では生産されなかったということが大きいのだろうか?
 我が国におけるこのような豊富な遺産である「炭坑画」が、打ち捨てられた背景には、実は豊かな産炭国だった自前のエネルギー資源をいとも簡単に捨て去った効率優先のエネルギー政策が関与しているのではないかと疑念している。

(写真)山本作兵衛の「炭坑画」から。「低層 先山後山」(1973年)。


所沢ビエンナーレ『引込線』で会場に萌える

2009-09-16 12:56:02 | アート・文化
Art_tokorozawa_3 この二日あまり、記事に挿入した写真は内容とは直接関連しなかった。Macのトラブルと車両検査を引っ掛けてシャレで写真を使ったのである。
 さて、その写真がなんなのかを解き明かすのが今日のテーマです。

 Macのクラッシュに振り回されていた1週間のうち、開催中の古書展と掛け持ちで行ったのが、「第1回所沢ビエンナーレ美術展」だった。
 所沢駅には西武鉄道の本社ビルが東口にあるのをご存知の方は多いだろうが、西口にはその立派な本社ビルとは対照的な西武鉄道の車両工場があるのである。駅から向かうと西口には西武デパート系列の「WALTZ」があるから、まったく気づかないのだが、そのすぐ先に西武鉄道の長い歴史を担うかのような古びた旧所沢車両工場がある。現在は、工場としては機能していないらしいこの場所を会場としたのが、今回が第1回目の所沢ビエンナーレ『引込線』である(昨年プレ美術展が同会場で開催されていたらしい)。

 がらんとした工場内の空間がなんともいい。ただよう空気が昭和を感じさせるのだ。こういう機会でもなければ中に入れない場所である。「工場萌え」という言葉があるが、無機的なコンビナートに「萌え」ることはないが、古めかしい廃墟然とした工場や、打ち捨てられたような番小屋には俄然「萌え」てしまうボクである。
 その点、この「引込線」そのものである西武鉄道旧車両工場は佇まいといい、礎石といいなかなかいい。ボクは違うが、いわゆる鉄チャン(鉄道ファン)にもおすすめしたい。

 さて、美術家や現役の武蔵野美術大学の学生が中心になって運営しているらしいビエンナーレの肝心の作品である。これは求められたアンケートに書いたのだが、会場である車両工場の迫力にまったく負けてしまっている。数点、会場に溶け込んでいる作品もあったが、それは大きさでかろうじて拮抗できたものでむしろ作家たちにはもっと「工場萌え」して欲しかった。ま、2年後にはもっと学生の発表会の域を出て国際的なビエンナーレに発展することを祈ってやまない。
(会期9月23日まで。西武鉄道旧所沢車両工場。埼玉県所沢市東住吉10-1。主催:所沢ビエンナーレ実行委員会→http://www.tokorozawa-biennial.com

(写真)第1会場。遠藤利克作品。


ゴーギャン(3)/私たちはどこへ行くのか?

2009-07-26 14:45:07 | アート・文化
Oviri 二度にわたるタヒチ行き、その二度目はマルキーズ(マルケサス)諸島のひとつでゴーギャンはそこに骨を埋めることになる。ゴーギャンのキリスト教徒風の墓石の上に、奇妙な彫像をひとは見い出すだろう。それはゴーギャンの希望でそこに置かれたのだが、クリスチャン風の墓にはマッチしないおどろおどろしいまでに土俗的な彫刻だ。まるで、タヒチの原住民によるプリミティヴ・アートかと思えるその彫像を彫ったのは、ほかならぬゴーギャン自身だと知ればひとは驚くのではないだろうか?
 それが「オヴィリ」と題された彫像だ。実は、1987年の『ゴーギャン展/楽園を求めて』』にも展示されており、見ているのだが、今回の方がより強烈にボクに迫ってきた。

 ゴーギャンのキリスト教的には、異教信仰であり、唯一神にそむく涜神行為であったプリミティヴなものを探究する志向は、絵画作品よりむしろ彫像や、版画作品(『ノアノア』など)の方が見事に成功しているようにボクには思える。油彩絵の具を介しての表現より、ゴーギャンがその無骨なまでの太い手で直截にマチエールへ立ち向かったこれらの彫像や、版画の方がよりゴーギャンが目指した「野蛮」や「原始的なるもの」を表現している。
 ゴーギャンはたとえば、そのアトリエ兼住まいだった小屋を手すさびのやうに彫刻や、レリーフで飾った。それらの多くは後になんの価値もないものとして小屋を貸したもの、他人の手に渡ってから捨てられたらしい(またその葬儀の際に、焼却処分された!)。これは、ある意味、ゴーギャンの彫像作品が「無名性」に達していたことを表わすのではないだらうか?

 「オヴィリ(Oviri)」(「野蛮人」「野蛮なるもの」を意味するタヒチ語)は、第一回目のタヒチ滞在から帰国していた1893年頃、タヒチ滞在記として書き始めた『ノアノア』と同じ時期にパリで製作された。おそらく、それまで「あくがれ(憧れ)」の次元であったタヒチや南方や、楽園への憧憬が、ほかでもないゴーギャン自身の内なるソヴァージュつまり「野生」や「野蛮」であることに気付くきっかけになった作品だらう。

 この木彫の風合いを持つ彫像は実は着色石膏製だが、ブロンズで複製されゴーギャンの墓に飾られたものもそのひとつだ。「オヴィリ」は同じタイトルをもつ版画作品や水彩デッサンが残っているが、版画と同じ構図の『偶像』(1898年)と言う油絵もある。「オヴィリ」のオリジナルも静岡県立美術館収蔵で日本にある(現在は『ゴーギャン展』会期中は東京国立近代美術館に貸与中)。

 私たちはどこへ行くのか?

 まぎれもなく西洋人で、文明人であり植民地本国人であったゴーギャンは、ゴーガン(傲岸)でエゴイステックだったとは言え、その探求の先に19世紀と言う同時代のパラダイムを超えていた。その出自からディアスポラだったゆえにか、反植民地主義の中から生み出されたきわめて今日的な「クレオール」という問題意識を先取りしていたやうにボクには思える。
 もっと言えば、ポール・ゴーギャンは南太平洋上のタヒチで、「悲しき南回帰線」を体感していたのかもしれない。野生の思考(パンセ・ソヴァージュ)、野蛮人の世界観??とりもなおさずその世界を獲得する智慧とも言うべき生き方、神話を生み出すやうな生活??ゴーギャンはそれに気付いた最初の人間、画家だった。

 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか??その命題は、ゴーギャンにとってはアンチ・キリストの反措定だったと言うことを指摘しておこう。

<写真>「オヴィリ(Oviri)」(1894~5年)静岡県立美術館収蔵


ゴーギャン(2)/私たちは何者か?

2009-07-16 23:58:06 | アート・文化
Te_navenave_fenua 今回も展示されていたゴーギャンの作品『かぐわしき大地(Te Nave Nave Fenua)』は、倉敷の大原美術館の収蔵作品である。パトロンでもあった実業家大原孫三郎の委託を受けて滞欧中の画家児島虎次郎が収集した作品で、日本最初の美術館である大原美術館が開館した1930年からここにある。
 タヒチのエヴァ(イブ)に見立てられた女(ヴァヒネ)は、第1回目のタヒチ滞在中にゴーギャンの現地妻となった13歳のテハマナがモデルで、植民地として文明化されてゆきつつあった19世紀に奇跡のやうな日々をゴーギャンが過ごしていた時のものだ(今回の『ゴーギャン展』では8月30日までの期限付き貸与。東京で見たい方は8月中に行かれんことを!)。

 その頃の副産物が『ノアノア』で、「かぐわしき香り」という意味のマオリ語からとられた。ゴーギャンは幸福感につつまれ、至福の日々を過ごした。世界を肯定し、みじめだった本国での暮らしを忘れかけた。

 毎日、日が昇るとすぐ、私の家の中は光が輝きわたった。テハマナの金色の顔が周囲を照らし、私たちは、天国にいるみたいに、生まれたままの、ありのままの姿で、近くの小川に水浴びにゆくのだった。……タヒチのノアノアは、すべてをかぐわしくする。……すべてが美しく、すべてがよかった。
(ゴーギャン『ノアノア』岡谷公二・訳)

 私たちは何者か?

 若い頃水夫をやり、株式仲買人の職から放免された経歴を持つゴーギャンは、売れない絵描きであるにもかかわらず、尊大な自負心の固まりだった。妻子の生活さえかえりみず振り捨てたゴーギャンには、「楽園」に絵(タブロー)のテーマを見い出し、それをもって本国で賞賛を受けるという起死回生の方法しかもはや残されていなかった。植民地本国人としての傲岸な(ゴーギャンはまたゴーガンとも表記されてきた)見下すような視線の持ち主だったが、マオリの古代信仰、神話などを知るにつれ、キリスト教的なテーマ、視線で描いていたタヒチの女、ヌード、風景がもつ本来の姿に次第に浸蝕されてゆく。泰西名画の「引用」や古代レリーフの構図の「転用」の手法で絵を描いていたゴーギャンは、アルカイックなものを求めるあまりのイメージが「エデンの園」や、キリスト教的なイメージにひきずられていたことに多少は気付いたやうだ。

 画家としての総集編的な仕事となった「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」においても、真ん中から左寄りに死と再生をつかさどる月の女神ヒナの彫像が大きく描かれている。その右側にはゴーギャンが愛した娘アリーヌだと言われている横顔を見せたおんなの姿がある。もはや、野蛮の神、マオリの信仰であるヒナに愛する死んだ娘と、みずからの運命を託すかのやうだ。

 ゴーギャンはヨーロッパ人、植民地本国のフランス人から自らの血の中に流れるインディオの血に自覚的になってゆく(幼い頃、ゴーギャンは遠い親戚を頼ってペルーで暮らしたことがあった。母方の祖母は、あのフローラ・トリスタンで、私生児だったフローラの父がインディオの貴族だった)。そしてついには食人(カニバリスム)をしたことのある老人に加担し、自分の中に「野蛮人」を見い出すのだ。

 ときには、着物を着る野蛮人もいるのだ。(ゴーギャン『前後録・小序』)

<図版>「かぐわしき大地(Te Nave Nave Fenua)」(1892年)倉敷大原美術館収蔵